11/29 お題「答え」
船は既に出航していた。
唖然とする俺の真下を大海原が流れ去っていく。
港はまだ近い。泳げない距離でもないが、真冬の海で、しかも、俺はズタボロだ。
このままじゃまずい。
海は茫洋とした空の光を映してアルミホイルの表面のように輝いていた。波の狭間に小さな漁船がこちらに向かってくるのが見えた。
漁師らしき男が船から身を乗り出している。突如出現した見知らぬ船に航路を阻まれて焦っているのか、喚く男の意志に反して漁船はどんどんこちらに近づいてくる。
俺は熱を持って痛む手で
俺はトランクを胸に抱いて言った。
「玉舎」
くぐもった声が答えた。
「
「海に落ちたらごめんな」
玉舎が戸惑いと不安の叫びを上げるより早く、俺は甲板を蹴った。空と海が上下に縦揺れするように高速で流れる。
俺の背中を硬い衝撃が受け止めた。巨大な船から落下して漁船に飛び込んできた俺を見て、漁師が上ずった声を上げる。
「何だあんた!?」
漁師は青ざめた。血塗れの傷だらけでトランクを持ったスーツ姿の男に何を思ったか、想像すると笑えた。俺は引き攣った笑みを浮かべる。
「密航者に誘拐されかけました。港まで連れて行ってください」
漁師は船を港につけるまで何も聞かなかった。
俺がへし折れた指で何とか財布を漁って万札を握らせると、漁師は妖怪を見るような視線を向けた。
「本当に通報しなくていいのかい……」
「大丈夫です。もう、中の奴らも悪いことはできないでしょうから」
呆然とする漁師を置いて、俺は港に降り立った。
数十分前までいた場所なのに景色がまるで違った。
俺の視界はぶん殴られたせいで半分くらい闇に包まれているせいもある。
首と指だけじゃなく脚まで痛んできた。玉舎の力はすごいものだった。俺が運ぶのが生首だけでよかったと思った。生身の玉舎だったら喧嘩になったとき絶対に負ける。
俺は足を引き摺りながら港を進んだ。目当ての場所はもうすぐだ。
無機質なコンテナの壁を抜けると、個人営業の店がまばらに並ぶ通りに出る。無添加のチョコレートドーナッツを喧伝する看板が目に入った。コーラの自販機もある。
俺は痛む身体に鞭打って歩いた。
紙袋とペットボトルを提げ、俺はコンテナの影に据え置かれたベンチに座った。
冷たい風が傷口を撫でてやすりのように痛みを鋭くする。
俺は港と向き合いながら、買ったものをベンチに並べる。自販機に小銭を入れるのは苦労したし、ドーナッツ屋の店員には危うく通報されかけたが、何とか目的は達成した。
俺はトランクを開けて、ファスナーに挟まった黒髪を避けてから玉舎を出した。
「閑田くんさ……」
俺は何か言いかけた玉舎の口にドーナッツを捩じ込んだ。
一口食わせてから、ペットボトルのキャップを歯で開け、コーラを飲ませる。
首の切断面から噛み砕かれたチョコレートと小麦粉の塊が落ちて、滴るコーラがズボンの上を流れ、アスファルトを泡立たせた。
ドーナッツを丸ごと食べ切ってから、玉舎は掠れた笑い声を上げた。
「スーツ汚れるよ」
「もういいんだよ。今更気にしねえ」
「本当だよ。閑田くん、ズタボロじゃん……指も折れてるし、顔も血塗れだし、耳も……ごめん……」
「お前のせいじゃねえよ。耳は特にお前のせいじゃねえ」
腕の中で俯いていた玉舎がゴロリと揺れて俺を見上げた。俺は青紫色になった指で右耳のピアスを刺す。玉舎は目を剥いた。
「穴空けたの? 自分で?」
「まあな」
玉舎は一拍置いてぶっ壊れたような笑い声を上げた。
「あり得ねー! マジで頭おかしいわ!」
「思い知ってんだろ」
「本当だよ! おれのとこまで来ちゃうんだもん! マジでイカれてなきゃできないって!」
玉舎が笑うたびに振動が腕を伝って痛かったが、それもどこか心地よく感じた。
玉舎は一生止まらないんじゃないかと思うくらい笑い続けると、目尻から涙を零した。
「閑田くんさあ、マジで考えなしだよ。おれなんて助けてこれからどうすんの?」
水平線を一羽のカモメがなぞる。俺は煙草を箱から出し、口に咥えた。風がひどくて、ライターを擦る手も痛んで、なかなか火がつかない。
玉舎は静かな声で言った。
「来てくれて嬉しかったけどさあ、おれ閑田くんにまともに生きてほしかったよ」
「まともになんて無理だ。こういうバイトは俺の天職だからな。それに、まだ金が要る」
「何で? もう借金返し終わったんじゃないの?」
「……身体を買うんだよ」
玉舎は青痣の浮いた目を瞬かせ、怪訝な視線を向けた。
「今やらしい話してる?」
「海に捨てるぞ」
俺はやっと火がついた煙草を吸い、煙を吐く。
「やっと答えが見つかった気がするんだ」
あの船の中で決めたことだ。
「お前の身体を買い戻す」
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