11/24 お題「センタク」

 俺は踵を返して、振り返らずに港から去った。


 何も持っていない両手が軽く所在ない気持ちになる。この一ヶ月間で慣れた玉舎たまやの重みが何処にもない。

 俺は空っぽの掌で、寒さと不安を紛らわすために両腕を摩った。



 俺は足早に進む。周りの景色を見ないように、決して振り返らないように、船が港を発つ音を聞かないように。

 とっととここを離れて日常に戻ろう。


 これで仕事は終わりだ。最初からわかってたことじゃないか。

 何の問題もない。生き延びて金をもらって言うことなしだ。

 ほんの一ヶ月前、玉舎に会う前の自分に戻るだけだ。友だちでも何でもない、生きていた頃も知らない、その程度の関係だったから戻るのは簡単だ。



 足が鉛のように重くなり、独りでに止まった。

 俺は寒さで震える指で煙草の箱を探る。一本咥えてライターを擦ったが、風が強くてなかなか火がつかなかった。


 やっと燻った煙草を深く吸い、真っ白な煙を吐く。

 港に霧の橋がかかり、全てを霞ませた。

 この一ヶ月が全部夢だったみたいだ。



 早く東京に帰ろう。

 金が手に入るから、好きなことをしよう。指令でも、玉舎のためでもない、自分の好きな場所に行こう。


 本屋や美術館に行ってもいいし、何が上映しているのかわからないまま映画館に行って気になったものを梯子して観るのもいい。

 飯なんか食わずにひたすら観る。


 そうだ、これからは三食きっちり食べる必要もない。

 玉舎のせいで規則正しい生活をする羽目になったがもううんざりだ。

 あいつが食いたいと言うから、明太子とバター醤油をかけた飯だとか味噌ラーメンだとか、自分じゃ絶対に選ばないようなものまで食う羽目になった。もうそれからも解放されたんだ。いいことじゃないか。



 俺は二本目の煙草を取り出そうと胸ポケットを探る。指先をチクリと何かが刺した。玉舎のくれたリングのピアスだった。


 俺は自分の右手を確かめたが、幸い血は出ていないようだ。服の袖には地層のように重なった茶色の汚れがついている。

 洗濯しても落ちなかった、玉舎に食わせたもののシミだ。



 俺は煙草を深く吸ったが、火が消えていた。

「くそっ……」

 吸殻を足元に捨てて踏み潰す。


 顔を上げると、ちょうど来たときは閉まっていた小さな店のシャッターが上がるところだった。

 中からエプロン姿の店員が現れて、看板を立てる。立て付けが悪いのか、木の看板は傾いて隣の赤いコーラの自販機にもたれかかった。

 チョークで書かれている文字は「無添加チョコレートドーナッツ 250円」。


「ドーナッツとコーラ……」

 玉舎が食いたいと言っていた信じられない組み合わせだ。

 俺は口元を覆う。

 そうだ、あいつにいつか食わせてやると約束したじゃないか。すっかり忘れていた。



 指の隙間から白い息が漏れる。

 俺は胸ポケットに指を入れ、煙草を出そうとしてやめ、リングのピアスを取った。震える指に喝を入れ、俺は耳元にピアスを持っていく。

 冴え冴えとした鋭い痛みが耳朶を貫き、指先を血が伝い落ちた。



 俺は踵を返し、全速力で港へと駆けた。

 冷たい空気が肺の中でスクリューで錐揉みされる海水のように暴れる。

 揺れる視界に黒い船が映った。まだ出航していない。


 銀の梯子がスルスルと上がっていく。俺は足を早めた。

「くそ、馬鹿と一ヶ月も一緒にいたせいで俺にまで馬鹿がうつっちまった!」



 俺は助走をつけて梯子に飛びつく。

 ふわりと身体が宙に浮いた。

 俺は梯子と一緒に甲板に転がった。

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