11/23 お題「白」

 何の変哲もない朝が来た。最後の朝だ。

 俺は玉舎たまやの髪を結び、いつかのビジネスホテルで盗んだタオルをトランクの底に詰め直す。

 このトランクを閉めたら、俺が開けることは二度とない。



 ホテルを出ると、空はまだ夜の色を残していた。

 藍色の影の中は死人の肌のように空気が冷たい。生物が生きるのを許さないが故に清潔な冬が訪れる。



 俺は無言で港までの道を進んだ。

 一歩進む度、トランクが揺れて腿を打つ。

 風に潮の匂いが絡み始め、まばらな民家の隙間から水平線が見えた。


 港の周りには個人経営の定食屋やカフェらしき小さな店々が並んでいたが、今の時間はまだシャッターが閉まっていた。

 開いていれば最後に玉舎に何か食わせてやれたのにと思う。


 俺はかぶりを振って考えを打ち消した。これ以上はやめよう。どう足掻いても今日が最後だ。

 道中、玉舎は何も言わなかった。



 港に近づくと店の影もなくなり、子どもの玩具のブロックのようなコンテナが並ぶ無機質な光景になった。俺は白い息を吐きながら進んだ。


 コンテナの影に隠すように、大きな船が停められていた。艶のない黒塗りの塗装に波の飛沫が当たって砕ける。これが玉舎の乗る船だ。



 船から銀の梯子が降りてきて、ふたりの男が現れた。

 片方は前にも会った、肌がつぎはぎだらけの米村よねむらで、もう片方は見たことのない禿頭で丸顔の気弱そうな中年だった。


 中年の男が米村にせっつかれ、覚束ない足取りで俺の前まで降りてきた。

「あ、お世話になっております。閑田かんださんですね。約束の物は……?」


 俺はトランクを掲げて見せる。男は何度も頭を下げ、汗を拭った。とても呪いに纏わる道具を扱うような裏社会の人間には見えない。



 男がトランクを受け取ろうとした瞬間、俺は反射的に手を引いた。

「玉舎は、このトランクの中の生首は、これからどうなるんですか」

 俺の問いに男は目を瞬かせ、申し訳なさそうに言った。

「すみません、私も日雇いのバイトなのでわからないんですよ」

「あんたもかよ……」



 俺は溜息をつく。拍子抜けだ。

 俺は男にトランクを差し出す。中で玉舎がゴロリと転がる音が、振動と重みになって手に伝わった。


「あの、閑田さん……」

 男がおずおずと俺を見上げた。自分がトランクの取手を強く握りしめていたことに気づいた。ゆっくりと手を開くと、力を込めすぎたせいで指の関節が白くなっていた。



「確かに受け取りました。お疲れ様です」

 男がトランクの蓋に手をかけたとき、俺は思わず口を開いた。

「あの、」

「何でしょう……?」


 俺は頭を回して、何を言おうとしたのか思い出そうとする。男が困ったように見つめる中、俺はポケットから二束のヘアゴムを取って突き出した。いつかのホテルで買ったものだ。


「これ、予備に二本あります。彼の髪ゴムが切れたら使ってください」

「はあ、わかりました」

 男は間の抜けた返事をした。



 空でカモメが鳴き、静かな波の音が鼓膜に染み渡った。信じられないほど穏やかな冬の早朝だった。



 男は今度こそトランクの蓋を開け、中を覗いて驚いたように身を逸らした。玉舎のくぐもった声が聞こえた。


 男は俺とトランクを見比べた後、指示を仰ぐように船に乗っている米村を見上げた。

 米村が頷く。男は俺に向けてトランクを開けて見せた。


 俺は軽く手を上げ、努めて普通の声音で言う。

「じゃあな」

「うん、元気でね!」

 トランクの中の玉舎がゴロリと傾いて、この一ヶ月ですっかり見慣れた笑顔を見せた。


「ありがとうね! おれ、閑田くんといたのが生首になってから一番楽しかったよ!」

 生きてた頃で一番、とは言わないのが素直だなと思った。俺は軽く手を挙げて答えた。

「俺も……想像してたほど悪くなかったよ」


 俺の唇から白い息が漏れ、空と海の境も曖昧な無彩色の光景に溶ける。



 トランクの蓋が呆気なく閉められ、玉舎の笑顔が見えなくなった。

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