11/22 お題「呪文」

 別れは呆気なくやってくる。


 約束の日は明日に迫っていた。長いようで短かった玉舎たまやとの一ヶ月もこれで終わる。



 俺は約束の時間に遅れないよう、港の近くに宿を取った。商店街を抜けてホテルに向かう。

 アーケードの入り口にはクリスマスツリーが飾られていたが、臨時休業中の店のシャッターにはカボチャやお化けのシールが貼られていた。


 十一月は哀れな季節だ。

 ハロウィンとクリスマスの合間の余白のような扱いで、十月三十一日の夜が明けたら、商店はまるで十二月が始まったようにサンタやトナカイを飾り出す。一年の終わりも近づいているのに、人々は年の瀬までまだ余裕はあると嘯いて過ごす。


 そんな一ヶ月が玉舎との時間だったのは、納得がいくかもしれない。

 俺たち以外誰も知らない、知る必要もない、白昼夢のような時間だった。それが明日で終わる実感はまだ湧かない。



 俺はホテルのチェックインが始まると同時に部屋に入った。

 トランクを広げ、ツインベッドの片方に玉舎を転がすのもこれで最後だ。いつものように灰皿を間に置き、俺と玉舎の煙草に順番に火をつける。



「玉舎、今日で最後だぞ。ホテルでダラダラ過ごすだけでいいのかよ」

「いろいろ考えたんだけどさー、最後って思ったら逆に何も浮かばなくなっちゃったんだよね。ほら、閑田かんだくんに充分いろいろしてもらったし?」

 玉舎は首の切断面から煙を漏らして笑った。


「最後の日に何もしないでゆっくり過ごすのも贅沢でいいじゃん!」

「隠居した爺さんみたいだな」

「好きな飯食って、煙草吸って、風呂入って、その後また映画観てさ。そうだ、夜中は自販機コーナー行こうよ!」


 たった一ヶ月で俺の好きなものもしたいことも玉舎に把握されていた。明日には全部無駄になるというのに。

 俺は自分の方が寿命の終わりを迎えるような焦りを抱えて、いつも通りに玉舎に飯を食わせ、歯を磨き、髪を洗った。

 明日から玉舎はどうなるのだろう。できるだけ苦痛のない道であってほしいと、俺は祈るような気持ちを込めて髪を結んだ。



 ベッドに寝転びながら、天井を見上げる。

 まだできてないことがあるんじゃないか。忘れていることはないか。果たせていない約束があったか。

 ひとりで煩悶していると、玉舎が急に声を上げた。


「あ! そうだ!」

 俺は思わず飛び起きる。

「何だよ、驚かすなよ」

 玉舎は顎で這うように俺のベッドに近づいた。

「前、閑田くんが持ってた本あるじゃん? 旅が嫌になったら読むって言ってたやつ」


 俺はベットボードに散らかした荷物を探る。黄ばんで拍子の折れたジャック・ケルアックの『路上』が転げ落ちた。

「これか?」

「そうそう。おれもそれ読んでみたかったんだよね」

「じゃあ、読むか? 俺が本を持ってページを捲ればいいだろ」

「でも、おれ活字の読むと眠くなるんだよねー」

「駄目じゃねえかよ」



 玉舎は気の抜けた声で笑ってから言った。

「閑田くんが読んでくんない?」

「何で俺が」

「頼むよー、最後だしさー!」

「それ言えば何でも通ると思ってんだろ」


 そう言いつつ、俺はページを開いてしまった。何度も読み返したから暗唱できるところもあるくらいだ。だが、他人に読み聞かせたことはない。

 俺は咳払いし、努めて普通の声音で文字をなぞった。

「ぼくにとってかけがえのない人間とは、何よりもイカれた奴らだ……鮮やかな黄色の夜花火のように、爆発すると蜘蛛のように星々の間に散り、真ん中でぽんと青く光って、皆に驚きの声をあげさせるような、そんな奴らだ」


 言葉を区切ると、沈黙が部屋に満ちた。

 不安になって視線を上げると、玉舎はおかしがるでも馬鹿にするでもなく、真剣に俺を見ていた。


「……何かいいね。もっと綺麗で頭良さそうに難しいこと書いてるんだと思ってた」

「ビート文学は格式のあるもんじゃないからな」

「花火が蜘蛛か……」

「お前も花火だよな。たまやだろ」

 玉舎は花火が打ち上がったみたいに笑った。


「そういえばさあ、おれちゃんと本読んだこと一回だけあったわ。国語の教科書載ってたやつ。蜘蛛で思い出した」

「何だ?」

「タイトルはわかんないなー。すげえ悪いことした奴が地獄に落ちたんだけど、昔蜘蛛を助けたからって血の海に糸が降りてくるってやつ」

「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』だな。カンダダって奴が出ただろ」

「それ! 流石!」

「義務教育だぞ」



 俺は再びベッドに寝転んだ。玉舎が独り言のように言った。

「閑田くんが俺を運んでくれたのさ、蜘蛛の糸みたいなもんだよね。地獄に蜘蛛! 名前もカンダダみたいだし」

「地獄に仏っていうんだよ。あと、カンダダは地獄に落とされる悪人の方だ」

「そうだっけ?」

「縁起でもねえな」


 俺は身を起こして煙草一本を抜き取った。

「まあ、俺も地獄行きかもな。こんな仕事してるんだ」

「じゃあ、閑田くんにも蜘蛛の糸が来るよ! おれの世話してくれたご褒美、みたいな?」

「生首から髪でも垂らすのかよ」

「そうそう、本当は地獄に落ちないのが一番だけどね!」


 玉舎は俺が煙草を与えようとすると、真剣な顔で口を開いた。

「閑田くん、こんな仕事辞めな。ちゃんと生きなよ」

「……お前はどうすんだよ」

「どうもしないし、できないし! 呪いの道具だからねー。呪文とか覚えんのかな。絶対覚えられねー」

 俺が口を噤むと、玉舎は慰めるように笑った。

「でも、今日読んでくれた本のあさこの部分はちゃんと覚えるよ。呪文みたいに唱えてさ。そしたら、おれもどこ行ってもやってける気がする」


 俺は玉舎の歯に煙草を捩じ込んだ。



 ケルアックの言うことが本当なら、俺は最高の旅をしたんだろう。生首以上にイカれた連れ合いなんて思い浮かばない。


 最後の夜は静かに更けていった。

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