11/20 お題「たぷたぷ」
見るだけで気鬱になるような廃墟同然のラブホテルは変わらず坂の下に聳えていた。
受付の老人は血塗れの俺を一瞥したが、興味もなさそうに鍵を放り投げた。
「ランドリーはない。裏の洗濯機を使いたいなら五百円」
俺は追加で五百円玉をカウンターに滑らせる。入れ替わりに滑ってきたホテルキーは前回と同じ部屋だった。
部屋に入ると暖房の風が吹きつけた。急速に乾いた鼻血がひび割れて、頬が干魃地帯の土のようになったのがわかる。
俺はトランクを持って洗面台まで行った。
田舎の実家の風呂のような浴槽に湯を張りつつ、顔とシャツを洗ってる間も、足元にトランクを置いていた。
中の
すぐ洗ったからシャツの血はあらかた落ちた。袖口についた、玉舎と食ったものの染みはもはや柄の一部になっていた。それでもいいかと思った。
風呂に湯が溜まった。蛇口を捻って止めると、天井の結露が落ちてたぷたぷと水面を鳴らした。
俺はトランクを揺らす。
「
「ああ、風呂沸いたぞ」
玉舎の眠そうな呻きが尾を引いた。取り繕った痛々しい笑い声よりずっとマシだった。
俺は湯に身体を浸してから、風呂蓋に玉舎を置く。
玉舎の顔には俺の血が貼りついていた。俺は湯をかけながら硬く黒くなった血を落とす。
耳朶にこびりついた塊をふやかしていると、ピアスが指に引っかかった。
「怪我するよー」
「しねえよ。でも、すごい数だな。いくつ空いてる?」
「右耳四つ、左耳五つだったかなー」
玉舎は頭を傾けて笑う。
「閑田くんは穴空けないの?」
「やろうと思ったことねえな」
「手があればおれが空けてやれたのになー」
「やらねえって言ってんだろ」
俺は玉舎を両手で掬い、慎重に湯船に浸けた。長い黒髪が広がり、たぷたぷと水面が揺れる音がした。
「おれさ、閑田くんにいろいろしてもらってるのに何も返せてねえじゃん? だからさ、ピアスの穴空けるくらいやってやりたかったのにな」
「お礼になってねえよ」
俺は少し笑って、湯が波紋を立てる音を聞いていた。
ぼんやりしていたせいで、風呂は体温ほどのぬるさになって、肩に鳥肌が浮いた。俺は洗って吊るしたシャツのポケットから煙草と携帯灰皿を取り出す。
「吸うか?」
「風呂で煙草? いいねー!」
俺は玉舎を風呂蓋に置き直し、互いの煙草に火をつけた。冷えたせいでライターの火すら温かく感じた。
湯気に煙が混じって、競い合いながら天井に向かっていくのを見ながら俺は言った。
「……俺は勝手にやりたくてやってるんだよ」
「マジで? いいひとすぎない?」
「違う。最初は悩んでたんだ。お前と喋ったり一緒に何かするほど、きっと別れが辛くなる。やめた方がいいって」
玉舎は答えずに目を伏せた。
「……関係ない話だって思うかもしれないけど、俺はそそこそこ親孝行してたんだよ。仕事してからは毎月家に金入れてたし、誕生日には物送ったりしてた」
「うん……」
「でも、母親が死ぬ一週間前に電話かけてきたんだ。『昔組み立ててくれたマガジンラックが壊れそうだから直しに来てくれないか』って」
「行った?」
俺は首を横に振る。湯の雫が跳ねた。
「行かなかった。仕事が忙しかったし、一人暮らししてる息子をいつまでもそんなことで頼るなよって苛ついたのもある。『しばらく帰れないから今度な』って言って、今度がないうちに死んじまった」
俺と玉舎は同時に煙を吐いた。俺は携帯灰皿に灰を落とす。
「結局何をしようがしなかろうが、できなかったことのことばっかり思い出すんだ。だったら、やった方がいい。そう思って諦めたんだ」
「そっか……」
玉舎は困ったように眉を下げて笑った。
「おれさ、やっぱり閑田くんにピアス空けられなくてよかったわ」
「何でだよ」
「だってさー、閑田くん、たぶん穴見たら忘れられないでしょ?」
俺は息を呑んだ。煙草の先端の灰が湯に落ちて、黒い欠片が水中で舞った。
「閑田くんにはこんな仕事辞めてまともに生きてほしいからさ。傷残したら駄目なんだよな」
「……遅えよ」
「何?」
俺は火の消えた煙草を携帯灰皿に投げ込み、天井を見上げた。
「てか、こんな長風呂だっけ? まだ出ないの?」
「うるせえ」
たぷたぷと湯が揺れる。俺は音を掻き消すように水面を掻き混ぜる。
本当はずっと水で湿ったふたつの足音が聞こえ続けていた。玉舎の親友たちがついてきてるんだろう。
玉舎には絶対に言えないが、俺はふたりが死んだと聞いて、ざまあみろと思った。
玉舎を身代わりにして幸せに生きるなんて馬鹿げてる。だが、それは玉舎が自分を犠牲にした全部は無駄になったことを意味する。
だから、絶対に言えない。それだけだ。
俺はいいひととは対極なんだよ、と言えずに天井の結露を見つめた。
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