11/18 お題「椿」

 玉舎たまやは回廊の隅に転がっていた。

 トランクは開け放たれ、いつかのビジネスホテルのタオルと共に絨毯の上に転がっていた。


「玉舎、大丈夫か!」

 俺が血塗れの手で拾い上げたせいで、浅黒い頬に赤茶けた指の跡がくっきりとついた。慌てて手を拭ったが、シャツにも血が染みていて汚れを塗り広げただけだった。


 玉舎は泣きそうな、笑いそうな、怒りを堪えているような顔をした。

「大丈夫かじゃねえよ……閑田かんだくん血まみれじゃん……」

「ただの鼻血だ。大したことねえよ」


 俺はタオルごと玉舎を拾い上げて、頰についた血を拭ってからトランクに入れた。

 しっかりと抱え、中を確かめてから、俺は歩き出す。もうすぐ出口だ。



 仄暗い照明に三筋の影が伸びていた。あの絵の死体が三つ並んでいるのを想像する。

 俺はトランクの口を押さえ、玉舎に見えないようにした。


 角を曲がったとき現れたのは、紙粘土で作られたと思しき巨大な椿の木だった。

 分かれた枝から生えているのではなく、細長い一筋の枝が台に三本ずつ並び立っている。タイトルは無題だ。


 俺は警戒しながら一歩ずつ進み、椿の傍を横切る。

 そのとき、男女の鋭い叫び声が聞こえた。

「何で、どうして!」


 俺は咄嗟にトランクを庇う。目の前で椿の花が一斉に落ちた。斬首された罪人のように。

 赤い絨毯に転げた椿の花の断面から、鮮血のような赤い水が染み出して広がった。


 俺はトランクを胸に抱き、ファスナーを閉めるのも忘れて回廊から飛び出す。若い学芸員がぎょっとした顔で俺を見た。真後ろでたぷんと水の溜まった袋を揺らしたような音がした。



 俺は振り返らず美術館から去った。

 特別展のポスターは「モネ:印象派の歩み」の文字と睡蓮の絵に代わっていた。



 俺は闇雲に走り続けた。

 水の音が耳にこびりついて離れない。足を動かすたび、トランクから溢れた玉舎の髪が腕を打って指に絡んだ。玉舎が消えていない証拠だ。

 通行人に見られても構わないと思っていたが、誰ともすれ違わなかった。


 枯れ枝が空を乱雑に区切る山道に差し掛かり、俺は足を止めた。

 息を切らしながら辺りを見回す。ここは玉舎を運び始めてから十日目に、試験を受けたあの坂道だ。

 もう少し進めば、あのこぶのついた大樹がある。



 俺はその場にへたり込んだ。

 貧血と息切れて吐きそうだった。ガンガンする頭を抑えて、近くの木にもたれかかる。膝に乗せたトランクが独りでに開いて、玉舎が顔を覗かせた。


「ごめん……」

 玉舎はぜえぜえ喘ぐ俺を見てそう言った。

「何で謝るんだよ。お前のせいじゃねえだろ」

「違う、おれのせいなんだよ。閑田くんがこんな目に遭ったのも、閑田くんの前任がイカれて死んだのも、健太けんた美優みゆも……」

「どういうことだよ……」


「おれさあ、こんなことになったの、呪いみたいなもんだって言ったじゃん? そういうの作る奴もいるって言ったじゃん? おれはアンテナみたいにそういうの引き寄せちゃうって」

 高速バス乗り場のロータリーで、初めて煙草をやったときに聞いた話だ。


「あれほぼ本当なんだけど、一個嘘なんだ。おれが作られた呪いの道具なんだ。おれはさ、おれのこと置いてった奴をおかしくして、死なせちゃう呪いなんだよ……」

 俺は息を呑む。もし、トランクを奪われていたら、俺も前任のようになって死んでたってことか。

「何で……」

「閑田くんを危険な目に遭わせるってわかってたんだけど……言えなくてさ、ごめん。だって、こんなん認めたら、おれ本当に化け物みたいじゃねえかって、なあ……」


 玉舎は伏せた目で俺の膝頭を見つめていた。瞳孔が嵐の湖面のように震えていた。

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