11/17 お題「額縁」

 やられた。引っかかった。

 訳のわからないことが起こる予兆や、危うい橋を渡るときにはそれなりに警戒していたはずだった。

 指令の送り主すら確認し忘れるなんて。


 昨夜、玉舎たまやのことや、次々起こった不可解な現象に気を取られていたからだ。

 指令が偽物だった以上、この美術館全体が罠だと思った方がいい。



 俺はトランクを抱えて入口へと逆走した。

 さっきまで解放されていたはずの扉が固く閉ざされている。押しても蹴り飛ばしても開かかった。


「くそったれ……」

 俺はトランクを抱えて強く振った。

「玉舎、いるよな? おい!」

 返事がない。俺は半開きのトランクを覗き込む。玉舎の姿がなかった。

「嘘だろ……」



 俺は陰鬱な闇で満ちる回廊を駆け出した。

 壁に並ぶ展示は、美術展とは思えないものだった。


 金の額縁に飾られているのは、赤茶けた血痕、釘で磔にされた人皮のような茶色く乾いた何か、丸く乾涸びた胎盤に似た塊。

 目を背けながら走ったが嫌でも目に入ってしまう。

 とにかく玉舎を探さなきゃまずい。


「玉舎! どこにいる、大丈夫か!」

 走りながら声を張り上げて肺が潰れそうだ。

 回廊はどこまでも続く。



 照明が更に暗くなり、俺は足を止めた。

 壁一面に巨大な絵がかかっている。タイトルは「親友」だった。

 俺は思わず口を抑えてえづいた。


 三人の男女らしきものが並んで描かれていた。

 らしきものとしか言いようがない。原型をとどめていないからだ。


 左端には四つの枝がついた茶色い物体が描かれている。

 所々焼け焦げ、腐乱し、傷らしき赤黒いものが全体を覆っている。表面を走るシワは引き攣れているのか、切り裂かれているのかわからない。

 首のない男の死体だと直感した。


 中央と右端にいるものは、右端の汚れた死体とは対照的に、白く膨れあがっていた。ぱんぱんに、元の姿がわからないほどにふやけた水死体だ。

 皮膚は肌の膨張に耐えきれずに先端が裂けて血が滲んでいる。

 俺は後退り、吐き気を堪えて立ち去った。



 玉舎を呼びながら、奥に進む。

 最早絵すらかかっていない。代わりに壁から錆びついた鋸やペンチ、用途のわからない火かき棒のようなものがぶら下がっていた。

 まるで拷問部屋だ。


 角を曲がると、また絵がかかっていた。

 抽象画のような、キャンバスいっぱいに白とピンクと赤の油絵具を塗り広げた絵だった。

 奇怪な紋様は弧を描き、陰陽を表しているようにも見える。

 タイトルが書かれた札は「双子」の字を塗り潰し、ペンで「生まれてこれなかったからゼロ」と上書きされていた。



 どこかでボソボソと喋り声が聞こえた。

 俺は声の方に駆け出す。

 無限の回廊に阻まれて反響した声は、水の中で聞いているようにくぐもっていた。


「おれだって生きててほしかったよ。じゃなきゃ、あんなことしないだろ。おれはお前らが無事ならいいって……」

 響いたのは玉舎の声だった。低く掠れて普段の明朗さの欠片もないが確かに玉舎だ。

 俺は更に足を進める。


「子どもがいたんだから、父親も母親も生きてなきゃ駄目だろ……だから、おれは死んだっていいつもりで……」

 不穏な言葉に背筋が寒くなる。

「気づかなかったんだよ。知らないうちに、気づいたら……」

 声が急に鋭くなった。

「お前らだって置いてっただろ!」



 鼻の下を生温かいものが伝って、唇と顎を撫で、滴り落ちた。

 足元の赤の絨毯に一段濃い染みがポツリと散っている。


 俺は鼻に手の甲を押し当てた。途端に両鼻から血が溢れ出した。

 俺は慌てて掌で血を受ける。赤い泉が手の窪みに溜まり、止め処なく流れ落ちた。

 貧血で気が遠くなる。頭の中に鉄錆の匂いが充満していた。


 俺は床に膝をついてへたり込んだ。

 世界が反転する。

 霞む視界の中に、三人の男女の足が見えた。足は俺に踵を返し、去っていく。


 まとまらない思考でぼんやりと考えた。

 そうだ。玉舎は友だちでも何でもない。たった一ヶ月偶然一緒に過ごしただけの俺が何をしようと無駄だ。親友のところに行くに決まってる。


 遠ざかる足音を聞きながら、俺は血塗れの手を伸ばした。

「玉舎……」

閑田かんだくん!」



 鼓膜が破れるような大声が聞こえた。

 俺は咄嗟に身を退く。

 床に倒れているつもりだったのに、俺はいつのまにか空の額縁に全身を押しつけていた。


 額縁のガラスに、俺の顔の形の血の跡が付着している。

 額の下には「途中」と記されていた。



 俺はシャツで顔を拭った。張りついて乾いた血が冷たく、呼気は熱い。

 俺は玉舎の声が聞こえた方に走り出した。

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