11/16 お題「面」
話しかけても上の空で、飯もほとんど口に入れない。理由を聞いてもはぐらかされる。
俺は前よりも苛立った。少しは処理が詰まったと思ったのが錯覚みたいだ。これは俺の勝手な私情だと理解している。気持ちがざわついたまま眠りについた。
真夜中、不穏な息遣いで目が覚めた。
俺は身を起こして辺りを見回した。
襖から漏れる薄明かりが部屋を禍々しい橙に染めている。荒い息は隣の布団から聞こえた。
玉舎は枕の上で蜘蛛の巣のように髪を広げ、目を見開いていた。
「玉舎?」
俺が近寄ると、玉舎はハッとしたように俺を見返した。
目が充血して、首の切断面から呼気が漏れている。まるで、非業の死を遂げて人間を恨み果てて現れた怪談の生首のようだった。
俺は背筋を這い上がる寒気を堪えて聞く。
「どうした?」
玉舎は上ずった声を上げた。
「
「何言ってんだよ。俺もお前もちゃんといるよ……」
玉舎はようやく長い息を吐き、いつもの笑みを浮かべた。
「変な夢見たっぽくてさー。ごめんね、起こして!」
細めた目の下には薄いクマがあり、脂汗が額に光っている。俺は枕元のティッシュペーパーを取って玉舎の顔を拭った。汗を拭き終わる前に、玉舎は再び眠りについた。死んだように見えた。
俺は屑籠にティッシュペーパーを捨てる。
規則正しい寝息が部屋に充満した。冴えた目に薄明かりが痛い。俺は枕に肘をつき、充電中のスマートフォンを取った。
玉舎が教えないなら自力で探るしかない。
湖で見た死体の幻覚が蘇る。玉舎の様子がおかしくなったのはあれからだ。
男の死体の方には肩に刺青があった。玉舎の親友は彫り師だったという。
それなりに珍しい名字だ。探せば見つかるかもしれない。
俺は検索画面に「鍵谷健太 彫り師」と打ち込む。
無関係な広告や同じ名字の法律相談事務所などをスクロールすると、「tattoo kagiya」の文字が現れた。
刺青の彫り師のホームページだ。俺は一心不乱にタップする。
ホームページと銘打っているが、無料のブログサイトを使った日記のようなものだった。
固定された記事には使う道具の紹介やおおよその費用などが並んでいる。開設は五年前だ。
俺は最初のページを開いた。
見出しは「お客第一号!」だった。
「記念すべきお客第一号は大親友のヒロトでした!
練習台になってやるなんて舐めたこと言ったから、絶対驚かせてやろうと思って全力で彫りました。
結果は大成功!
これは干支梵字のキリークで、意味は阿弥陀如来にちなんだ、永遠の命や来世の救い。ヒロトと俺の生まれた亥年の守護梵字でもあります。
同じ年、同じ町に生まれて始まった友情がこれからも不滅でありますように!
もちろん店も不滅で 笑
これから頑張って行きます!
since 1995〜forever」
ページの最後には写真が掲載されていた。
俺は息を呑む。
写真の中の男は、黒いタンクトップの肩越しにピースサインを見せていた。彫りたての刺青は赤く盛り上がって痛々しい。
くっきりと浮いた鎖骨や筋肉のついた上腕は肉体労働を経験した若者のそれだと思った。この身体に見覚えはない。
だが、見切れた横顔に散る黒子、浅黒い肌、耳のピアスには見覚えがある。
玉舎だ。
玉舎の名前がヒロトなら、あの猫の言った言葉は何だ。
俺はブログを次々と見る。客の難しい要望に応えた話や、一周年記念のバーベキュー。取り止めのない日常にミユという女もいた。玉舎といつも一緒にいたという親友の
最後のページは手短に諸般の事情で無期限休業を伝えていた。
そのとき、ブラウザに通知が現れた。ご覧のブログが更新されました。
「嘘だろ……」
震える指で通知を押した。
更新日は今さっきだ。タイトルは「ごめんなさい」だった。
記事には本文がなく、写真だけが貼られていた。夜空を映したような画面に俺の顔が反射する。目を凝らすと、小さな白い泡と藻のような細い線が見えた。水底だ。
急にホームページがダウンして、ホーム画面に戻った。
俺は早鐘を打つ胸を抑える。
通知音が響いて心臓が止まりそうになった。
届いたのは仕事の指令だ。簡潔な文字で「美術館に行け」と記されていた。以前の美術館と同じ場所だった。
「前も行っただろうが……」
俺は枕に突っ伏した。
翌朝、俺はトランクを提げて美術館に向かった。
俺も玉舎もろくに喋らない。
寒風吹き荒ぶ中、統一感のない美術館に入る。この前の浮世絵展は終わり、今は「思い出展」という特別企画が開かれているらしい。
字面だけでは内容が想像できない展示だ。
俺は少し迷いながら、トランクを半開きにして展示会場に踏み入った。
中は以前より証明を落として仄暗い。
冒頭の謝辞には作品の持ち主や美術館への挨拶もなく、来客への礼だけが記されていた。
足を進めると、正面に掲げられた木彫りの面が目に飛び込んできた。
能楽の面だ。
虚ろな表情を浮かべた、顔色の悪い老人のような面だった。半開きの口は真っ暗な空洞で、額には濡れたような髪が細く貼りついている。
学生時代に見たことがある。これは溺死者を模した面、
湖や昨夜の出来事を思い出して、俺は後退る。
能面につけれらたタイトルが目に入り、俺は絶句した。
「鍵谷健太」
玉舎の呻きがトランクから漏れた。俺は咄嗟にトランクを抱きしめて開いたファスナーを塞ぐ。
どうなってるんだ。
この美術館は何かがおかしい。それに、一度行った場所に再び赴くような指令は今までなかった。
俺はスマートフォンを開き、昨日のメールを確かめる。
声が出なくなった。
いつもの指令の送り主じゃない。メールアドレスには「ken.hiro.miyu-since1995」と記されていた。
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