11/13 お題「流行」
いつもの三分の一も喋らないし、自分で食べたいと言った焼きおにぎりも啄む程度にしか口に入れなかった。肩があったらがっくりと落としていただろう。
玉舎の歯を磨き終えて口を濯がせると、白い水がだばっと垂れて、死体で遊んでいるような嫌な気持ちになった。
「玉舎、お前どうしたんだよ」
「何でもないよ。急に寒くなったから頭鈍くなってんのかも? ほら、亀みたいな!」
玉舎はやつれた笑みを見せた。何でもなくないと一目でわかる。
だが、玉舎が隠したいなら俺に深入りする資格はない。たぶん、俺が父親のことで頭がいっぱいだったとき、玉舎も思っていたことだろう。
「でも、実際この立場になると苛つくよな……」
俺の独り言に玉舎は目を瞬かせた。
「え、おれ
「何でもねえよ」
スマートフォンの通知音が鳴り、画面を開くと「特別指令」の文字が踊った。
「インフルエンザ流行のため、ある団地の除染作業を行う。特別手当あり」。
特別手当がつくときはたいてい特別奇妙な仕事だ。きっとまたろくなことにならない。
案の定、団地はインフルエンザに悩む人間がいると思えない廃墟だった。
公園は荒れ果て、キリンを模した滑り台は泥水が溜まっている。配管には蔦が絡み、ピンク色のベランダや花や鳥を描いた階段の壁もひび割れて、かえって禍々しかった。
トランクを抱えて進むと、初老の男と、成人しているかも怪しい若い女がいた。
女はスーツを着ているものの、髪には黒と赤のメッシュが入って、耳朶が見えないほど大量のピアスを開けていた。
初老の男が会釈する。
「それでは、除染作業について説明しますね。閑田さんと
白いステッカーには「除染完了」と書かれていた。
男に導かれるまま団地に入ると、中は想像より荒れ果てていた。水滴の垂れる黒い天井が鍾乳洞のようだ。
「一〇一号室が荷物置き場となっていますので、使いたい方はご自由にどうぞ」
三島と呼ばれた女は、トランクを掲げて唇を押し当てると「いい子で待っててね」と囁いた。
男は三島のトランクを預かり、俺の方を見る。俺は少し迷ってから断った。万一のために玉舎と離れるのは得策じゃない。
俺と三島は手渡されたビニール手袋をつけ、消毒用アルコール入りのスプレーを持って階段を上がった。
最上階の角部屋、四〇一号室の扉を開けると、カビと埃の混じった風が押し寄せた。
中は案外綺麗だった。
老人が住んでいたのか、玄関の靴箱には木彫りの熊やペナントなど昭和の家屋にありそうな土産物が並んでいる。
言われた通りにスプレーを撒いていると、三島が寄ってきた。
「閑田さんってやっぱり生首運んでるんですか?」
俺はぎょっとして三島を見返す。三島は眼を歪めて笑った。
「私です。いいですよね。可愛くて」
「よくも可愛くはないですが……」
俺は曖昧に頷いた。一瞬トランクを覗かれたのかと思ったが、三島も同業者らしい。
俺は扉を閉めてステッカーを貼ると、トランクを持ってさっさと次の部屋に行った。
四〇二号室を消毒している間も、三島は話しかけてきた。
「女の子ひとりでこういう仕事してると不安なんですよ。でも、彼を運んでる間は安心っていうか、ひとりでもふたりっていうか」
「そうですか」
「ゆうくんっていうんですけど、私がいないと何にもできないのが可愛くって、守ってあげなきゃなって思うんです」
「三島さん、手も動かしてください」
三島は途端に不機嫌になった。俺ひとりでほとんど作業している状態だ。言う権利はある。
次の部屋に移ると、三島が仏頂面で言った。
「閑田さんって、生首と喋るときもそんな感じなんですか?」
「どういう意味ですか」
「もしそうなら、生首が可哀想だなって。コミュニケーション取ってあげてます?」
「まあ、話はしてますよ」
「自分の話ばっかりしてるんじゃないですか? ちゃんとその子が生きてた頃どうしてたかとか、好きなもの聞いてあげてます?」
俺は口を噤んだ。
俺は生前の玉舎をほとんど知らない。居酒屋やカラオケでバイトするフリーターで、家庭はまずくて、ほとんど祖母に育てられた。いつも一緒に行動する親友ふたりがいた。
それくらいだ。
好きなものだって食い物くらいしか知らない。
普段は甘い物や脂っこいジャンクフードを好む。そのくせ、急にサバの煮付けや菜花のおひたしなど、老人みたいなものを食べたがる。祖母の影響だろうか。
趣味や好きなアーティスト、休日に何をしていたかも知らない。
俺は除染作業に集中した。
トランクを抱えて三階に降り、角部屋を開けて玄関にスプレーを撒く。壁に貼られたアイドルのポスターが濡れた。三島が除染完了のステッカーを貼った。
次の扉を開くと、子どもが描いたであろうクリスマスツリーの絵が貼られていた。こんなに私物を残していくものだろうか。
三島はスプレーを撒きながら言った。
「やっぱりそんな感じなんですね」
俺は無視して壁紙にアルコールを噴射する。
「もっと自分のパートナーのこと知ってあげましょうよ」
「……知ったら別れが辛くなるだけじゃないですか」
思わずそう言うと、三島は理解できないという顔をした。俺は黙って除染作業を再開する。
三島は気まずさを隠すように喋り出した。
「ゆうくんは話すと面白いですよ。年間百冊は本読むんですって。小説じゃなく自己啓発とか心理学とか」
俺の嫌いなタイプだ。適当に相槌を返した。
「流行も必ずチェックしてて、毎朝新聞も三種類買わなきゃいけないから大変なんですけど、自分も勉強になるから……」
俺は手を止めた。流行という言葉が引っかかった。
さっきの部屋にあったポスターは、俺が子どもの頃流行ったアイドルじゃないか。
最初の部屋の古めかしい調度も全く汚れていなかった。まるでこの団地だけ時が止まったようだ。
俺は壁の絵に手を伸ばす。クレヨンで描かれたクリスマスツリーを捲ると、裏側に子どもの字があった。
「サンタさんへ 新発売のドラゴンクエスト3がほしいです」
俺は一歩後退る。いったい何年前の話だ。
「どうかしましたか?」
三島の問いを誤魔化し、俺はトランクを提げて部屋を出た。
一階に戻ってきた頃、どこからか声がした。
玉舎の声に似ていた。
俺はトランクを引き寄せる。
「玉舎、いるよな?」
中から明るい声が返った。
「ごめん、寝てたわ! どうしたの?」
「いや、いるならいい」
聞き間違いだと思うことにした。
一階の除染もほとんど終えたとき、三島が叫んだ。
「ゆうくん!?」
あまりの声量に唖然としていると、三島は何かを探すように彷徨き出した。
「どうしたの? 苦しいって何? 今行くから!」
三島は止める間もなく、荷物置き場の一〇一号室に飛び込んで行った。扉が閉まる重厚な音がした。
俺が立ち尽くしていると、団地の出入り口から担当の男が現れた。
「お疲れ様でした。今日はもう終わりでいいですよ」
俺はビニール手袋とアルコールスプレーと残りのステッカーを男に返しながら言う。
「三島さんがまだ……」
男は微笑を浮かべ、俺のトランクを指した。
「ちなみに、閑田さんが正解です」
言葉の意図がわからないまま、俺は一〇一号室の前を通り抜ける。
鉄の扉には「除染失敗」と書かれたステッカーが貼ってあった。
俺はトランクを抱きかかえ、逃げるように団地を後にした。
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