11/12 お題「湖」

 それからの数日の指令は穏やかなものだった。

 ショッピングモールで惣菜を買うだけのものから、廃病院の掃除まであったが、その間何も起きなかった。


 俺は早朝のビジネスホテルでネクタイを締めながら、ベッドに転がる玉舎たまやに言う。

「怪異より恐ろしいことに気づいた」

「マジ? どうしたの?」

「一度もお前の歯を磨いてない」


 洗面台に立てかけた玉舎の口を開け、アメニティの歯ブラシを恐る恐る入れる。歯磨き粉の泡が手を汚すのに耐えながら、ゆっくりと歯ブラシを動かした。

 他人の歯を磨いた経験なんてない。うっかり力を入れたら切断面から歯ブラシが突き抜けそうで恐ろしくなった。


「ひゃんだくん、ひゃんかほめんね。へんぶやらへひゃって」

「わかんねえよ。口濯いでから喋れ」

 俺は玉舎の口に水を流し込んで吐き出させる。切断面から泡の混じった水が溢れた。


閑田かんだくん、何かごめんね。全部やらせちゃって」

 玉舎は改めてそう言った。

 飯を食わせ、歯を磨き、髪を洗う。他人と深く関わるのが面倒な俺には信じられない行為だ。まだ俺は物の手入れと同じように捉えているんだろうか。


 俺は手を洗いながら、「今日の指令は湖に行けだとさ」とだけ答えた。



 目的の湖は、枯れた葦の色を映して茶色く澱んでいた。

 真夏に見れば美しいのかもしれないが今は十一月だ。冷たい風が水面を撫でて吹き渡り、裏返った木製のボートがカタカタと鳴った。

 数日前までの秋の気配を押し流し、暴力的な冬が訪れた。


 俺はスーツの腕を擦りながらトランクを開ける。

 玉舎は少し首を覗かせた。

「何もないね! 湖入ってみる?」

「馬鹿言え、五秒で凍死するぞ」


 水面には魚影ひとつない。釣り人すら来ない訳だ。

 湖に来て何をするかまでは指示されていない。

 俺は濡れた葦を蹴り避け、湖の周りを歩き始めた。



 少し進むと、腐りかけた木製の立て看板があった。

「友情の湖」と書いてある。説明によれば、ここは人工湖で、仲睦まじい村人が協力して水源を掘ったらしい。彼らは湖ができた記念に、周囲の白い石を持ち帰ったそうだ。


 足元を見下ろすと、ぬかんるだ泥の中に白い輝きがあった。俺は泥を掻いて石を拾い上げた。

 玉舎の声が半開きのトランクの中から聞こえた。


「懐かしいねー! ガキの頃、石拾ったりしたよね!」

「一番丸くて綺麗な石を持ってきた奴が優勝、みたいなやつか?」

 俺はポケットに石を入れる。


「そうそう! おれの地元だとたまに色のついてる石があってさ。小学生の頃、一番色が綺麗な石を探せって競争したんだけど、めちゃくちゃ見つけるのうまい奴がいたんだよね」

「それで?」

 少し進んだ場所にまた石が埋まっていて、俺は泥に指を突っ込む。


「勝ったら他の奴らに宿題押し付けていいってルールだったからみんな張り切っちゃってさー」

「宿題は自分でやれよ」

 ポケットに二つ目の石を入れる。ずしりと重みが伝わった。


「おれは幼馴染ふたりと一緒に石持ち帰って、クレヨンで塗ったんだ」

「それで?」

 よく見ればそこら中に石が落ちている。俺は屈み込んで、泥土を穿り出した。


「結局バレてぼこられかけたんだよね!」

「馬鹿すぎるだろ」



 俺は石でポケットをいっぱいにして立ち上がった。葦に囲まれた湖面に何かが浮かんでいる。黒い藻の塊のようだった。玉舎の髪を洗っているときを思い出す。

 浮かんでいるのは人間の頭だ。


 俺は我に返り、スーツを脱ぎ捨てて裏返した。泥まみれのポケットから石がボトボトと落ちる。

 俺は爪に土が入り込んだ指先を見つめた。何で俺は必死で石を掻き集めていたんだ。手に提げたスーツの上着が湖に入ったように濡れていた。



 湖から舌打ちのような音が聞こえた。

 水面の頭がぼこぼこと泡を立てて沈んでいく。

 俺はふと思う。ポケットに石を大量に詰めたまま湖に入ったら、重みで浮かび上がれずにそのまま溺れるだろう。


 死人の肌の温度の風が容赦なく吹きつけた。俺はびしょ濡れのスーツを絞って、トランクを抱えた。

「閑田くん、どうしたの?」

「最近何も起きてなかったから油断してた。帰るぞ」


 俺は足早に湖から離れる。

 裏返ったボートの前を横切ったとき、玉舎がひゅっと息を呑む音が聞こえた。


「何かあったか?」

 玉舎は半開きのトランクから頭を出して、水面を凝視していた。視線の先を見ると、茶色い湖に何かが浮かんでいた。


 派手な髪の色をした女と、肩に翼の刺青のある男だった。水に顔をつけてうつ伏せに浮かぶ水死体だ。肌は膨れて、所々血が滲んでいた。

 服装で玉舎と同じくらい若いとわかる。


 水面が泡立ち、男女の死体が同時に沈んだ。俺は目を擦る。湖は啼いで、波紋ひとつない。

 玉舎は死人のような蒼白な顔で湖面を見つめていた。

「玉舎?」

 玉舎は頭を振り、トランクの中に潜った。

「……何でもない。見間違いかな」


 ひどくか細い声だった。俺はトランクを抱きかかえて、湖から去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る