11/11 お題「坂道」

 俺はトランクを抱えて坂道を下る。

 蜘蛛の巣状の枯れ枝が覆う山道は薄暗く、此岸と彼岸の坂のようだ。


 米村よねむらはきっと玉舎たまやのような動く死体の一部を掻き集めて自分に組み込んでいるんだろう。もしそうなら、奴が俺の父の手首を持っていたのはどういうことか。

 俺は努めて考えないことにした。俺を惑わすためのただの幻覚かもしれないし、今考えても何もできない。

 大事なのは俺と玉舎は見逃されて、無事坂道を下っているということだ。



 ひどく疲れて今すぐにでも倒れ込みたかったが、この辺りに宿があるとは思えない。

「玉舎、バス停まで歩いて何分あったっけ……」

「おれトランク入ってたからわかんないなー」


 足を引き摺りながら進むと、木々の隙間から廃墟と見紛うほど薄汚れた灰色の建物が現れた。


 壁には微かにピンクと水色の線があり、入り口には赤いゴムののれんがかかっている。電飾が壊れた料金表には休憩三千円、宿泊五千五百円と書かれていた。

 HOTEL坂の下。

 看板には手書きで「おひとり様、同性歓迎」と記されている。どちらも兼ね備えている俺たちなら大歓迎だろう。とにかく横になれれば充分だ。



 ゴムのれんを潜ると、石像のように無表情な老人が受付にいた。俺は金を払って棒付きの鍵を受け取る。薄黄色のプラスティックには白地で三百六十度マウンテンビューと彫られていた。物は言いようだ。



 部屋はくすんだ真紅の壁紙で、狭苦しい室内をダブルベッドが圧迫していた。ラブホテルらしすぎない景観でよかったと思った。


 俺はトランクをベッドに投げ、自分も横たわる。この二、三日張り詰めていた緊張が泥となって血中に溶け出したようだ。

 トランクを開けると、玉舎がごろりと転げ出た。

「昭和のラブホだね! 泡風呂あるかな?」

「蛇口からお湯が出るか心配した方がいいレベルだろ……」


 冷たいベッドの弾力に後頭部と背骨を押されていると、肥満体の死人の上に横たわっている気分になる。玉舎は俺を見下ろして言った。

「閑田くん、死んでる?」

「お前に言われたかねえよ」


 玉舎は笑った後、少し目を伏せた。

「おれ、今日は身体がないの嫌だなって思ったよ。閑田くんがヤバいことになっても怒鳴るしかできないもんね」

「ヤバいことにならねえように俺がしっかりすればいただけだ」

「閑田くんは今でも結構しっかりしてるよ?」

「生首よりしっかりしてなきゃ終わりなんだよ」

「厳しー!」

 俺はベッドから起き上がった。

「飯でも食うか。出前くらい頼めるだろ」


 セピアカラーのメニュー表から玉舎に選ばせ、辛いカツ丼を頼んだら、先程の老人が持ってきた。まさか彼が作ったんだろうか。

 断食明けの意にベタついた衣と卵が辛く、玉舎に半分食わせた。

 案の定玉舎の髪はカツ丼の一部のようにベタベタになった。玉舎を洗ってから改めて風呂に入る元気はない。



 浴室はひどく狭く、田舎の老人宅のようだった。ラブホテルの浴槽にあるとは思えない、風呂蓋まで備え付けてある。

 花が印刷された緑のタイルにはヒビが入っていた。熱湯が出たのは救いだった。


 俺は浴槽に半分かけた風呂蓋に玉舎を後ろ向きに置き、湯に浸かりながら髪を洗う。

「何でおれ後ろ向きなの?」

「それにこっちのが洗いやすい」

「そっかー」


 玉舎の髪につけた泡が全て湯に流れ込む。本当は洗いにくいが、向かい合って風呂に入るのは何となく気が退けた。


 髪を濯ぎ終えると、玉舎が言った。

「閑田くんってさ、何でいつもおれに飯食わせてくれるの。洗うの大変じゃない?」

 俺は湯船から泡を掻き出して答える。

「お前、生首でも喋って動くだろ」

「そうだね!」

「お前の首から下が同じ状況でも不思議はない。でも、口がないから飯は食えないだろ。お前を通せば胃に入るんじゃないかと思ってたんだよ。全部ろくでもない空想だけどな」


 大笑いされると思ったが、玉舎は黙り込んだ。後頭部からは表情が読めない。天井の結露が湯船に落ちる音だけが響いた。

「本当にありがとうね」

 湯気の中で玉舎の声が反響した。



 風呂から上がり、俺は再びベッドに倒れ込む。

 体温が上がって更に身体中に疲労が回った気がした。

 俺はダブルベッドの枕の片方に、俺との距離を最大限空けて玉舎を置いた。ベッドから転げ落ちそうだったので少し自分の方に寄せた。


 部屋は静まり返って、外の音は何も聞こえない。蜜蝋のような照明が俺と玉舎の影を伸ばした。



 俺はわざと音を立てて起き上がり、ベッドボードのリモコンに手を伸ばす。

「テレビでも見るか」

「いいね! こういうところでAV観るカップルより普通の地上波観てるカップルの方が仲が深そうな感じするよね。仲良いんじゃなく、深い」

「わかんねえよ」


 俺は闇雲にボタンを押した。

 ダイエット器具を売る海外の通販番組や、地方テレビの見たこともないアナウンサーの顔が次々切り替わる。

 ざらついた液晶に、先程の俺たちのように狭い浴槽に並ぶ男女の姿が映った。違うのは向かい合っていることだ。


「これ洋画かな?」

「ああ、たぶんバッファロー'66だ」

「やっぱ詳しいね! どういう話?」

「出所したばっかりの男がいて、服役してる間家族に海外出張だって嘘ついてたから、街で会った女に妻のふりしてくれって誘拐する映画だよ」

「面白い?」

「ひとによる」

 玉舎が難しい顔をしたのを見て、「俺は好きだけど」と付け加えた。玉舎は破顔する。


「じゃあ、観ようか!」

「もうほとんど終わりだけどな」


 画面は玉舎の頭で遮られて半分しか見えなかった。青白い光が部屋を染め、玉舎の横顔と髪も薄ら寒い色に変えた。


 俺たちの関係は何だろう。

 大学の卒業旅行で台湾に行ったときも、友人と入浴したり、ダブルベッドで寝たりなんかしなかった。


 玉舎とはホテルで一緒に風呂に入って、同じベッドにいる。だが、友だちですらない。

 運ぶ方と運ばれる方。それだけは確かだ。



 エンドロールが流れる頃、玉舎の寝息が聞こえた。

 テレビからの波状の光が目を閉じた横顔を青く光らせていた。


 俺は玉舎の頭を枕に横たわらせてから、テレビの電源を消した。

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