11/10 お題「来る」
翌朝ホテルを後にしてから、朝食を取っていなことに気づいた。
俺を気遣っているのか、そもそも首から抜け落ちるだけだからなくても構わないのか。
俺はトランクを抱えて、枯枝が針でできた天蓋のように覆う坂道を登った。
玉舎は何も言わない。生首だから本来それが当然だ。
しばらく待ったが、誰も来ない手持ち無沙汰で俺は煙草を取り出した。携帯灰皿を開きながら、玉舎にもせめて飯代わりに吸わせてやるかと思う。
咥え煙草で地面に置いたトランクのファスナーを開けたとき、後ろから米村の声がした。
「お待たせしました。では、始めましょうか」
俺は振り返り、火をつけたばかりの煙草を手から落とした。米村の後ろにスーツを着た男がいる。
父だった。
全ての思考が停止した。唖然とする俺に父は言った。
「久しぶり。元気だったか?」
父はいなくなった日と何も変わらない姿で手を挙げた。左手にはユーラシア大陸の形の火傷痕があった。
思考が追いつかない。父は坂道を下って俺に歩み寄り、俺が落とした煙草を踏んで火を揉み消した。
「何で……父さんが……」
そう言うのが精一杯だった。父は懐かしい苦笑を浮かべる。
「ごめんな。いろいろあって連絡できない状況だった。母さんは元気か?」
死んだよ。あんたの残した借金のせいで、心労が祟って。そう言いたかったが、喉から言葉が出てこなかった。父は全てを察したように俯いた。
「苦労をかけたなあ。お前も少し痩せたよな。ちゃんと食べてるか? 昔から朝飯抜いたりしてたから心配だったんだよ」
姿も声も話す言葉も全てが父そのものだった。
父は俺の横に並んで薄く笑う。いつの間にか米村は消えていた。
「父さん、今まで何してたんだよ……」
「借金を返せるようにいろんな仕事をしていたんだ。危険なこともあったから、巻き込みたくなくて連絡しないようにしてた」
「借金は俺がもう返した」
父は目を丸くし、バツが悪そうにかぶりを振った。母と喧嘩したとき、よく見た仕草だった。
「そうか、本当にごめんな……」
木枯らしが吹き、父は身を震わせた。
「でも、まさかお前も同じ仕事をするなんてなあ」
「借金を返すためだ」
「そうだよなあ……あ、お前あの美術館行ったんだって? 父さんも昔仕事で通ったんだよ」
一昨日、美術館であの学芸員から聞いた話だ。
「一ヶ月間通えって指令で、終わる頃には学芸員さんとも顔見知りになったよ。そうだ、ちょうどお前の好きな画家の特別展をやってたんだ。グラスホッパーみたいな名前の」
「エドワード・ホッパー?」
「そう、それ。お前の十六歳の誕生日に頼まれて画集を贈ったよな。父さんに似ないで随分賢い息子になっちゃったなと思ったよ。父さんが同い年の頃なんかグラビア雑誌しか見なかったもんな」
気の抜けた冗談も笑い方も、全く変わらない。三年の空白なんてなかったような、実家の居間で話しているような気分だった。
「たくさん迷惑も心配もかけちゃったけど、いつかまた家族で暮らしたいと思ってなあ」
父はいつの間にか上り坂に向けて歩き出していた。俺も無意識に歩調を合わせて坂を登り出す。
足元で玉舎が俺の名前を呼んでいる。「
父は急に足を止めて、俺に向き直った。
「お前、まさかあの生首に下の名前を教えてないのか?」
シャツの襟から放り込まれた氷が背筋を伝い落ちたような気分になった。何の脈絡もない言葉を吐き、父は懐かしい笑みを貼りつけたまま俺を見ている。
何かがおかしい。
俺は唇を震わせた。
「父さん。俺の名前、言えるか……?」
父は眉を下げて笑った。
「何を言い出すんだよ。当たり前だろ」
「だよな。自分でつけた名前だもんな」
俺は一歩後退る。アスファルトが靴底に噛みつき、嫌な音を立てた。俺ににじり寄る父の目は光がなかった。
「俺の名前、呼んでみろよ」
父が獣のように素早く動き、左腕で俺の手首を掴んだ。
俺は咄嗟にスーツのポケットの下から護身用のナイフを取り出す。刃を向けると同時に、玉舎の声がした。
「閑田!」
俺がナイフを振り抜くより早く、父は俺の手を離して、自分の左手首を刃に滑らせた。
あっという間に父の左手首が飛んだ。一滴の血も流れなかった。ユーラシア大陸に似た火傷痕のある手首が宙を待った。
父はバツが悪そうな苦笑を浮かべながら、よかったと唇を動かした。
「閑田ぁー!」
玉舎の叫び声が絡んだ寒風が吹きつけ、俺は我に返った。いつの間にか坂道を半分登っていた。
俺の背に、喉を破るような悲痛な声が降りかかる。
「閑田、戻って来い! 行くんじゃねえよ!」
俺は坂道の斜面に向き直った。トランクからはみ出た玉舎が、聞いたこともないような声と口調で俺を呼び続けていた。
「行ったら死ぬぞ! いいから早く戻れって言ってんだよ!」
俺は転げ落ちるように斜面を駆け降りた。玉舎は喉も肺もないのに息を切らせていた。
「急にふらふら行っちゃったからさ……気になって覗いたら、ずっとひとりで喋ってるし……坂登り切ったら戻って来ない気がして……」
叫びすぎたからか、玉舎の目の端には涙が滲んでいた。俺は玉舎を拾い上げる。安いシャンプーの匂いの髪が俺の手の甲を撫でた。
「ごめんな……」
呟いた瞬間、俺の背後に黒い影が挿した。俺はナイフを忍ばせて振り返る。
鼻に歪な縫合痕のある米村が俺を見下ろしていた。
「お疲れ様でした」
米村は平然と言った。俺は玉舎を引き寄せ、スーツのジャケットに隠す。米村は俺たちを眺めて一礼した。
「閑田さんにはそのままお仕事を続けていただきます。あと二十日間頑張ってください」
米村は踵を返し、左手を振った。手の甲に火傷痕はなかった。コートの袖から覗いていたのはマニキュアを塗った女の手だった。
俺は背後の大木を省みる。
表面を覆うこぶは人頭のようだ。特にふたつの真新しいこぶは、皺が寄って人間の顔に見える。昨日ここに集まった男女に似ていた。
俺はトランクに玉舎を入れ、逃げるように大木から離れた。
半開きのトランクから玉舎が俺を見上げた。俺は胸の前でトランクを抱える。
「美術館で、失踪した親父に会ったって奴がいたんだ……」
「だから、ずっと考え込んでたんだ?」
「ああ、トランクを抱えて、俺と同じような仕事をしてたって……」
玉舎は一度目を伏せてから、気の抜けた笑顔を返した。
「大丈夫、大丈夫! 閑田くん悪運強いじゃん! お父さんも無事だって!」
「何が根拠だよ……」
「ほら、おれなんか生首になっても大丈夫だし? お父さんも何とかなってるでしょ!」
「逆に不安になるんだよ……」
風の冷たさに涙と鼻水が滲んで、俺は腕で拭った。元々シャツの袖は汚れだらけだ。
「玉舎、今日飯食わすの忘れてごめんな」
「いいよ、全然いいよ!」
「お前さ、俺を呼んだとき……」
「何?」
玉舎が目を瞬かせる。
「すげえガラ悪かったな。お前昔はヤンキーだっただろ」
「マジ? まあ、馬鹿ばっかりの高校だったからね! 不良も多かったし、多少はね! でも、悪いことやってないよ!」
「煙草いつから吸ってた?」
「十四歳とか……?」
「やっぱりヤンキーじゃねえか」
玉舎の笑い声が木枯らしを掻き消す。
俺が運ぶのが、手や肝臓じゃなく、生首でよかった。
玉舎でよかった。
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