11/8 お題「鶺鴒」

 今日の宿には朝食がついていた。三種類のパンから好きなものを選べるらしい。


 俺はパンケーキを部屋に持ち帰ってメープルバターを塗った。朝から甘いものを食うと胃がもたれるが、玉舎たまやに選ばせた俺が悪い。



 ベッドに転がした玉舎が言う。

閑田かんだくんさあ、いつもおれにトイレの上で飯食わせてくれるじゃん?」

「しょうがねえだろ。首から出るんだから」

「食事から消化までのショートカットって感じだよね!」


 俺は枕に広がった玉舎の黒髪を見下ろした。

「飯食う前に髪結ぶぞ。メープルバターがついたら悲惨だ」

 俺は三日前のホテルで買ったヘアゴムを出す。

「あ、買っといてくれたんだ! ありがとう」


 玉舎は倒れるように首をもたげて俺に頸を差し出した。首の切断面は赤く盛り上がって瘡蓋のようになっていた。そういえば、いつの間にか目蓋の青痣も消えている。


「玉舎、今日の指令は『美術館に行け』だとさ」

「マジ? おれ学校の遠足で行ったきりかもなー。閑田くんはよく行きそうだよね!」

「都内で働いてた頃はな」

 玉舎の頸が震えた。笑ったんだろう。

「おれさー、生首になってよかったかもね! 自分じゃ行かないとこ連れてってもらえるし! ほら、入館料もタダだし」


 そんな訳はないだろとは言わなかった。玉舎に他の選択肢はない。俺は安いシャンプーの匂いが漂う髪を無心で手繰り寄せた。



 美術館は砂色の壁の直方体で、刑務所のようだった。

 中に入ると寒色のステンドグラスが張り巡らされた天井が広がっている。現代アート風の歪な立像が俺を出迎えた。中で行われているのは浮世絵展らしい。統一感がない、田舎の美術館だ。


 チケットはひとり分買った。受付の人間が手荷物を預ろうとするのを断り、俺はトランクを抱えて特別展に向かった。



 今回も俺以外の客はいない。寂れた街だ。

 日本語と英語で書かれた謝辞を眺め、俺は順路に沿って進む。トランクを半分開けて、玉舎にも絵が見えるように掲げた。


 美術館の印象と同じく、展示にも統一感がない。

 菱川師宣の見返り美人図から河鍋暁斎の妖怪絵からまである。


 他人と美術館に行くのは嫌いだった。歩調を合わせるのも面倒だが、好き勝手に見るのも気が引ける。自分が足を止めて眺めたいところで相手がさっさと去っていったら、美術館を出た後の会話に困りそうだと思う。


 玉舎といてその不安がないのは、人間より物に近いと思っているからか、それとも玉舎だからだろうか。

 あいつは俺が何を言っても否定しない。当然だ。俺に頼らなければ何処にも行けないから。非対称な関係だと思う。玉屋は俺の機嫌を取っているだけだと心しておくくらいがちょうどいい。

 俺はなるべく均等に時間をかけて絵の前を歩いた。



 葛飾北斎の描いた、殺された女の顔が提灯に化けて現れる絵があった。俺はトランクを掲げて玉舎に見せる。

「お前の親戚だな」

「おれこんな怖い!?」

 玉舎は笑う。美術館だから声量を必死で落としているのがわかって少し笑えた。


「これ北斎の絵なんだね。おれ海の絵だけしか知らないわ」

「東海道五十三次か。どっかにあるだろ。探してみるか」


 俺はトランクを抱えてゆっくりと歩いて回ったが、玉舎の言った絵はなかった。

 順路の最後にあったのは『藤に鶺鴒』だった。

 淡い紫の藤が垂れ下がり、薄水色の鶺鴒が長い尾を立てた、荒々しい波の筆致とは全く違う花鳥画だ。


 玉舎が小さな声で囁く。

「このショボいインコみたいな鳥何?」

「愛鳥家が聞いたらぶん殴られるぞ。鶺鴒だよ」

「別名、恋教え鳥って書いてあるね。何で?」


 玉舎は目を細めて展示の説明を読んでいる。

 美術館で興味のない奴に蘊蓄を開示するようなカスにはなりたくない。俺は努めて簡潔に答える。


「日本神話で神に子作りのやり方を教えたのがこの鳥なんだよ」

 玉舎はぶはっと噴き出してから慌ててトランクの中で突っ伏した。手があれば自分の口元を押さえたんだろう。


「神話ってそんなエロい話出てくんの?」

「まあな。鶺鴒は神以上に人間含めた万物の師みたいなもんだって話もある」

 展示のガラスが生首入りのトランクを掲げる俺を反射した。絵よりも余程作り物じみた絵面だ。俺は吐き捨てる。


「全部の不幸が生まれた原因でもあるってことだな」

「そう? じゃあ、全部のいいことも生まれてるんじゃない?」

 玉舎はこれっぽっちも不幸なんかないという顔で笑う。



「おれ生きてたら美術館でこういう話聞いたりしなかっただろうなー」

「そうかよ。連れ回されて大変だな」

 玉舎は左右に揺れて否定を示す。


「逆だよ。おれ普通に馬鹿だったから、学生の頃から大騒ぎして馬鹿やる奴ばっかりと遊んでてさ。それも楽しかったからいいんだけど。図書室とか行くと友だちに揶揄われんだよね」

「そういうのあるんだな」

「うん。でも、本当は昼休みにひとりで静かに本読んでる賢い子とかと話したり画集とか読んでみたかったんだよね」


 玉舎の瞳に極小サイズの『藤と鶺鴒』が写り込んでいた。

「だから、こうして閑田くんと話せてよかったなあって」

 俺は何も答えられずにただ頷いた。玉舎から見えたかはわからない。



 特別展を出ると、学芸員らしいモノトーンの服を着た白髪混じりの女がいた。

 次の特別展のチラシを貼っていた女は、俺を見るなり言った。


「閑田さん?」

 俺は身構える。蕎麦屋の女や青木やホテルマンのような、得体の知れない存在がまた来たと思った。

 だが、学芸員は慌てて苦笑を浮かべただけだった。


「ごめんなさいね。でも、やっぱりそうよね。お父さんにそっくりだったから」

 心臓を冷たい手で掴まれたような気分だった。俺は考えるより早く馬鹿正直に口を開いていた。


「父をご存知ですか?」

「ええ、一時期よくいらっしゃったんですよ。お仕事って仰ってて、貴方みたいにトランクを持って。一ヶ月間ぐらいいらしてましたけど、また別のお仕事だからってそれっきり」

「それはいつ頃ですか?」

「三年前ですかね。よくお話しさせていただいてましたよ」



 俺は絶句した。父が失踪した頃だ。

 父は俺と同じような仕事に手を出していたのか。


 学芸員が去り、エントランスに静寂が満ちる。俺を心配する玉舎の声も耳に届かなかった。

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