11/7 お題「まわる」
錆びたフェンスの向こうに、洗いざらしのジーンズ色の海が広がっていた。
「
トランクから半分身を乗り出して
「見りゃわかるよ」
「すごくない?」
「はしゃぐほどでもねえだろ。寒いし汚ねえぞ」
「もっと人生楽しもうぜー! 生首に言われちゃ終わりだよ!」
目下に広がる海は寒々しい空を映して、夏の明るさの欠片もない。
砂浜を彷徨くのは地元の人間らしいサーファーひとりだけだ。海の周りは廃墟同然のホテル街と民家がひしめいて情緒もない。
今日の指令は「展望台に行け」だった。幸い俺以外の客はなく、玉舎を連れ回すことができた。
植物園といい宿といい、依頼人は俺と玉舎に普通の旅をさせるつもりなのか。
「生首連れて普通もねえよなあ……」
冷たい海風が吹き付けた。
トランクの端から玉舎の髪が舞い上がる。俺がホテルに輪ゴムを置き忘れたせいで、髪はざんばらのままだ。
一昨日洗っているときに気づいた。玉舎の髪は毛先が相当雑に切られている。自分でやったにしてもひどい。首を切断するときに邪魔だからと、凶器と同じ刃物でやられたんだろう。
俺は雑念を振り払い、トランク片手に展望台を歩き出した。
緑の床はペンキに気泡が立ったまま固まってふわふわする。薄汚れた白のテーブルと椅子には落ち葉が乗っていた。非常階段付近には自販機と並んでフェルトの人形のUFOキャッチャーがある。
「閑田くん、望遠鏡があるよ!」
玉舎の声に顔を上げると、フェンスが低くなった部分に望遠鏡が取り付けられていた。
「ここで見るもんなんか何もねえだろ」
「こういうのはやったもん勝ちっすよ!」
「何の勝負だよ」
俺はぼやきつつ、望遠鏡に硬貨を入れた。一分半で百円だが、十秒で見飽きそうだ。
俺はトランクを持ち上げ、レンズの位置に合わせて玉屋の頭を押し付ける。
「何が見える?」
「木の枝!」
「くそつまんねえな」
「もうちょっと左いいっすか!」
玉舎ごと望遠鏡を操縦するのはくたびれるが仕方ない。俺は片手で筒を押さえ、もう片手で玉舎の入ったトランクを横に動かす。玉舎が歓声を上げた。
「おおー、海だ!」
「さっき見ただろ」
「サーフィンしてるひとの顔まで見える! あとラブホの看板も! 『純情』だって!」
「ラブホにつける名前じゃねえだろ」
無心で生首と望遠鏡を左右に動かしていると、玉舎が言った。
「閑田くんも見る?」
「飽きたならそう言えよ」
俺は呆れながら玉舎を下ろしてトランクの蓋を閉める。
まだ四十五秒しか経っていない。金を無駄にするのも何だ。
レンズを覗くと、黒い塵と油汚れが拡大されて、目にゴミが入ったかと錯覚した。
足元で玉舎の声がした。
「望遠鏡ってたまにひっくり返って見えるやつあるよね」
「それは天体望遠鏡だろ」
レンズのピントを合わせたとき、茫洋とした海面の絵が急に切り替わった。
真緑の床と寒々しい空、白いフェンス。一瞬何が起きてるのかわからなかったが、俺が今いる展望台だと気づいた。
非常階段がある。本来なら俺の背後にあるはずの光景だ。
非常階段から何かが駆け上がってくるのが見えた。肌色をした人型の何かが手を振りながら向かってくる。
息を呑む間に、レンズにいっぱいの肌色が広がった。ガタンと視界が回り、世界が反転した。
俺は咄嗟に望遠鏡を手放す。
辺りが静寂に満ちていた。何かが違う。展望台の床が血のような赤になっている。フェンスの外に広がる空と海は鼻水に似た薄黄色だった。
何が起こってる。混乱する間もなく、足元のトランクがふわりと浮いた。俺は慌ててトランクを抱きかかえた。今度は俺の足が宙に浮いた。
まずい。今までの中で一番。
俺は頭を高速で回転させた。何が起こってる。周囲の色が全て補色になった。トランクから伸びる玉舎の髪が糸で吊り下げられたように逆立った。
そうか。
俺は宙に浮く身体を望遠鏡に引き寄せ、百円硬貨を捩じ込もうとした。焦りで手が滑り、コインが宙に飛ぶ。くそ。
もう身体が床と水平になっている。俺はポケットから最後の百円玉を出し、望遠鏡に投げ込んだ。
筒に縋ってレンズを覗き込む。ガタンと視界が回り、世界が反転した。
「見るものないって言ってたのにめっちゃ見てるじゃん!」
足元から呑気な声が聞こえた。望遠鏡から離れると、緑の床が広がっていた。薄ら呆けた空と海の色。俺の知る世界だ。
俺はトランクに向けて怒鳴った。
「お前が逆さまとか変なこと言うから!」
「え、何、何かあった?」
玉舎が慌てふためく。俺は冷汗を拭って呼吸を整えた。逆の世界の逆は正常な世界だ。戻ってこられた。
「何かわかんないけどごめんってー」
玉舎の悲痛な声が聞こえた。俺はかぶりを振ってトランクを持ち上げる。
風には潮の匂いが絡んでいた。生首との旅も一週間が過ぎた。今月の終わりには玉舎はあの海を渡るんだろう。
そう思うと、怒る気にもなれなかった。
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