11/6 お題「眠り」

 深夜零時のフロントは無人で、デスクに緊急用の電話だけが置かれている。


 辺りは静かで、仄明かりが天鵞絨色の闇を薄く染めていた。合皮の黒いソファや封鎖されたカウンター。準備中のウェルカムコーヒーのポットが立てるゴボゴボという音だけが響く。

 文明が滅んだ後の廃墟を訪れているようで少し気持ちが高揚した。



 俺は隅のランドリーに向かった。旧式の洗濯機にスーツとシャツを投げ込む。玉舎たまやが半開きのトランクから顔を出した。

「洗って大丈夫なやつ?」

「ああ、手入れが面倒だから洗濯できるのを買った」



 洗濯機が回る音が微かに聞こえる。

 自販機コーナーに向かうと、非常灯が緑色の聖域を作っていた。俺はトランクを持ち上げて玉舎に商品を見せる。


「早く選べよ。腕が重い」

「いいの? じゃあ、コーラで」

「飲むならトイレか洗面台の上だぞ」

「風情ないなー!」

「首から全部出るからだろ」

 俺は缶コーラを二本買い、玉舎のトランクに挿し込んだ。冷たいと騒ぐ声は無視する。


 踵を返すと、アメニティ専用の自販機が目に留まった。俺は少し迷ってから三本百円のヘアゴムを買い、部屋に向かった。



 洗面台に玉舎を置いて、自分はユニットバスの縁に腰掛け、買ったコーラを飲んだ。旅館の部屋の隅の談話スペースとはかけ離れた情緒のなさだ。


 昔、家族で旅行に行ったときのことを思い出す。

 無口な俺と母とは対照的に父はよく喋り、そういう行事も好きだった。

 父は「また行こう」と俺に約束した。果たされることはなかった。


 俺と玉舎にも「また」はない。あと、二十日ちょっとの付き合いだ。

 夜更けだからか、玉舎の口数はいつもより少なかった。



 浴室を出て気づいた。トランクの中がじっとりと濡れている。玉舎の髪が乾いていなかったせいだ。

 俺はトランクの底にアメニティのタオルを詰める。朝までには乾くだろう。


「玉舎、しょうがないから今日はベッドで寝ろよ」

「全然! ベッドのがいいよ!」

「トランクがお前の定位置だと思ってたのに」

「現住所だけどね! 別にすげえ好きって訳じゃないから! 普通に硬いし!」


 俺は片方のベッドに玉舎を置いた。黒髪が枕に広がり、生きた人間が寝転んでいるようだと思う。いや、それにしては布団が平たすぎる。

 俺は玉舎の下にトランクを押し込み、布団をかぶせた。これで身体があるように見える。もちろん何の意味もない。



 明かりを消して、自分もベッドに寝転んだ。

閑田かんだくん、おやすみ」

「ああ」

 おやすみ、とは返さなかった。玉舎も父のようにいなくなるなら、これ以上あまり入れ込むべきじゃない。そう思いつつ買ってしまったヘアゴムが俺の枕元にある。

 見ないように目を閉じると、いつの間にか眠りについていた。



 急に意識が覚醒した。

 カーテンから差し込む夜明けの藍色が部屋に満ちている。深海のような光景だ。

 その中に蠢く影があった。誰かが部屋にいる。


 俺は心臓が早鐘を打つ胸を抑え、枕の下を探った。この仕事を始める前に万一のため買ったナイフがある。

 俺の体温でぬるくなった鞘に触れた瞬間、影が俺に接近した。


「起きていますよね」

 男とも女ともつかない掠れた声だった。俺は答えることもできず硬直する。

 視界の隅に、ホテルマンらしい黒い制服がチラついた。


 影はボソボソと喋り始める。

「すみません、上の階で水漏れがあり、電気系統がショートしたら火災や感電死の恐れがあるため、恐れ入りますが入室させていただきました。スタッフは皆マスターキーを持っていますので、こうして入室した次第ですが今回のような有事の際しか使いませんのでご安心を。避難誘動に関してはお休みのお客様が多いので……」


 絶え間なく流れる言葉が俺に降りかかる。まずい。明らかに異常だ。不意打ちできればいいが、しくじったら何が起こるかわからない。


 そのとき、眠たげな声が響いた。

「どうしたんですかあ?」

 影が勢いよく振り返る。隣のベッドの玉舎が枕から身を乗り出していた。

「何でスタッフさんがおれらの部屋にいるんすか?」


 影はしばしの沈黙の後、俺に向き直った。

「あちらがお連れ様ですか?」

 俺は何とか頷いた。影が虚脱したように肩を落とす。

「失礼しました。ごゆっくりどうぞ。おやすみなさいませ」

 定型句を吐き出すと、影は一切の興味を失ったように扉を開けて去っていった。


 俺は胸を抑えながら隣のベッドを見つめる。

「過去イチやばかったね……」

 青い顔で笑う玉舎は、首から下を布団に入れて寝転んでいるように見える。


 だから助かったんだと直感で思った。奴は生首を探しに来たんだろう。これでトランクに玉舎を入れていたら助からなかったかもしれない。

 俺はほとんど気絶するように再び眠った。



 何事もなく朝が来た。

 俺はランドリーから回収したシャツとスーツを着て部屋を出る。


 チェックアウトのためフロントに立ち寄ると、緑の制服を着た中年の男が俺を迎えた。


 俺は鍵を返却しながら雑談のように聞いてみる。

「こちらのスタッフさんは夜もフロントにいるんですか? 大変ですね」

 男は完璧な営業スマイルで答えた。

「お気遣いありがとうございます。こちらは日勤と夜勤で交代制となっております」

「……夜勤のスタッフさんは制服が違うんですか」

「いえ、同じものですが」

 俺はそれ以上聞かずにホテルを後にした。


 朝の光が目に痛い。トランクを持ち上げると、玉舎が騒ぎ出した。

「やば、閑田くん! ホテルの備品のタオル入りっぱなしだよ! 返さないと!」

「いいんだよ。慰謝料代わりだ。お前もクッションができていいだろ」


 ホテルに罪がないことはわかっているが、腹いせだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る