11/5 お題「旅」
生首との旅を始めてから五日。今まではネットカフェや夜行バスで寝泊まりを済ませていたが、初めてまともな宿を取ることにした。
古びた緑の外観にゴシック体の看板でホテル名が書かれている。
ビジネスホテルというには所帯じみていて、リゾートホテルというには情緒の欠片もない宿だった。
指令には「二名分の予約を取れ」とあった。ガタガタいうエレベーターを上がり、ツインベッドの部屋に入る。クリーム色の壁に安っぽい花の油絵がかかっていた。
俺は自分で選んだ銘柄の煙草を机に置いてから、トランクを開ける。
「
俺はゴロゴロと揺れる玉舎を掴んで持ち上げた。
宿を取った理由のひとつは指令を受けたから。もうひとつはそろそろ玉舎を洗わなきゃいけないからだ。
狭苦しいユニットバスに入り、洗面台に栓をしてお湯を張る。
最初は風呂で洗おうと思ったが、どう頑張っても浴槽の縁から玉屋が転げ落ちるし、湯船に入ると俺がずぶ濡れになる。
湯気がピンクとオレンジの中間の明かりを滲ませ、シャワーカーテンが熱気で曇った。
トイレの蓋に置いた玉舎は困った顔をした。
「そんな気遣わなくていいって」
「お前の髪ベタついてんだよ。俺が食わせたもんが首から落ちるたびにへばりついてんだ」
玉舎の毛先はあんぱんのカスや蕎麦の汁、食パンのジャムやチーズの欠片が固まっていた。そして、俺のシャツの袖もだ。
「気にしないよ?」
「トランクに蟻が集って齧られてもいいならやめる」
「それは嫌! お願いします!」
俺は洗面台に張った湯に、慎重に玉舎を下ろす。洗礼の儀式のようだ。目や鼻が浸からないよう片手で支えると、黒髪が湯に広がる。黒い藻が張った底なし沼を創造させた。
俺は薄黄色のリンスインシャンプーを手に受け、玉舎のつむじに滑らせる。長いこと洗っていなかったのか、なかなか泡立たず、湯の花のような石鹸カスが水面に浮かんだ。
玉舎はシャンプーが口に入らないように黙り込んでいる。やっと泡立ち始めた髪をかき混ぜながら、無言の玉舎を見下ろしていると、湯灌という言葉が浮かんだ。
首の切断面から目を背けても、薄く日に焼けて黒子の散った顔の下に続く身体がないことが異様さを際立たせる。湯の熱で、左目蓋の青痣が鮮やかになった。
「この痣も、死んだときやられたのか」
玉舎は目を閉じたまま言った。
「違うよー。これはイカれちゃったきみの前任。自分の顔を削る前におれを壁に投げつけたの」
「苦労してんだな」
「マジでこの状態だと何されても逃げらんないからね。次に来たのが閑田くんでよかったよ」
俺は玉舎を湯から引き上げ、タオルで包む。髪を擦って、耳の穴に布ごと指を入れ、残った水を掻き出す。玉舎が小さく笑った。
「婆ちゃんと風呂入ったときやってもらったやつだ」
「うるせえな」
「褒めてる褒めてる! おれお婆ちゃん子だもん! 家がグチャグチャだったから婆ちゃんが親代わりだったんだよね」
俺は答えずに風呂場を出た。これ以上玉舎の悲惨な人生は聞きたくない。
俺はドライヤーが備え付けられた机に玉舎を置く。
濡れた硬い髪は雨上がりの芝生を触っているようだ。玉舎は俺に後頭部を見せたまま聞いた。
「閑田くんってさ、何でそんなに優しくしてくれんの?」
俺はドライヤーのスイッチを入れた。吐息の方がまだマシな風量だ。
「クズなこと言っていいか?」
「うーん、いいよ!」
「考えてたんだ。俺は知り合いが半身不随になっても髪を洗ってやろうなんて思わない」
「そっかー」
「たぶん、お前は生首だから人間っていうより物の手入れをする気でやれるんだと思う」
「マジ? まあ、動機より行動だよね!」
玉舎は弱い風を掻き消す声で笑った。
俺は玉舎を片方のベッドに転がした。
スーツもシャツもずぶ濡れで冷えてきた。俺はトランクとは別に自分の荷物を詰めたリュックを開ける。
着替えを探して中身を投げ出していると、そのひとつに玉舎が目を留めた。
「その本何?」
俺はリュックのファスナーに引っかかったシャツを引きながら答える。
「ジャック・ケルアックの『路上』」
「海外小説? 頭良さそうだね!」
「やめろ、余計馬鹿に聞こえる」
やっとシャツが取れた。俺は毟るように服を脱いだ。
「セクシー!」も騒ぐ玉舎に濡れたシャツを投げつけたが、濡れた布が張りついてもがいていたから取ってやった。
玉舎は布団にゴロリと転がる。
「それどんな話?」
「シャブ中の作家の本だ。仕事も結婚も駄目な少年院上がりの奴と一緒に、酒飲んで女と会って現実に打ちのめされて、アメリカ大陸を横断する」
「アウトローだね! 結構凶暴な本読むんだ!」
玉舎は目を細めて笑った。いい言い方だと思った。
「何でその本を持ってこようと思ったの? 一番好きだから?」
「一番かはわからないけど……ロードムービーを観ると旅に出たくなるだろ」
「わかるー!」
「この仕事を始めるとき、きっと最悪なことが何度も起こると思ったんだ。だから、その度読み返して『俺は念願の旅に出てるんだ。満足だろ』って言い聞かせるために持ってきた」
玉舎は何度も頷いた。
「おれと会ってから何回読み返した?」
「五回」
「毎日じゃん! めっちゃ毎日嫌じゃん!」
ゲラゲラと騒がしい笑い声が、室外機の音に重なる。カーテンの向こうのネオンがチラついた。
俺は煙草に火をつけ、玉舎にも吸わせる。
玉舎は煙に目を瞬かせた。
「いいね、旅だね」
「安上がりだな。夕飯も大浴場もねえぞ」
「何か旅っぽいことできないかな?」
俺は少し考えてから言った。友人と旅行に言ったときも言わなかったことだ。
「フロントの明かりが消えた後の、ロビーの隅の自販機コーナーが好きなんだよな」
「行こうぜ、閑田くん! 夜なら生首連れてても気づかれないって!」
「そんなはしゃぐ場所でもねえよ」
俺は煙草を灰皿に押しつけた。夜更けはまだ遠い。
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