迷宮喫茶は本日も営業中

 二月に入ってからは年度末で忙しく働き、三月は残業も相まって会社にコンビニおにぎりとコンビニスープでどうにかやり過ごすことが増えた。


「結局栄転は人に譲ったのはいいとして、例の店長さんとはどうなったの?」


 最近は多岐川さんも私が泉さんに習ったコンビニご飯を真似て、高菜おにぎりとコンビニのきのこの味噌汁をすすりながら尋ねてきた。

 私はいくらおにぎりとコンビニの豚汁をすすりながら、軽く首を振った。


「電話は続けられてますけど、忙し過ぎて会えていません。向こうも年度末になったらお客さんが増えて大変みたいですから、大丈夫なんでしょうけど」

「ふーん。年度末にお客さんって増えるもんだっけ? まあ、ふたりがいいんだったらいいけど」


 進路問題や就職問題。私のときみたいに転勤問題。それで迷い込んでしまって、泉さんに人生相談するケースが増えているらしい。

 新年度は新年度で、梅田地下道を物理的に迷子になる人が増えるからお客さんは増えるんだろうけど、人生相談は聞かなくていいのだから、どちらが大変なのかは私にはよくわからない。

 ……忙し過ぎて、バレンタインデーもホワイトデーも会えていないんだ。一応休みの日にバレンタインチョコを買ったのはいいとして、未だに渡せないまま、ホワイトデーも過ぎてしまった。

 私が豚汁をすすりつつ、いくらおにぎりに齧り付いているのを見ながら、多岐川さんは「ふーん」とだけ言った。


「なんというか、歩調が合っているよね」

「へえ?」

「忙しいから会えないけど、互いが頑張っているんだっていう信頼関係。仕事と恋とどっちが大事なのみたいな神経でいられるのって、正直大学生までだし、そんなもんなんだろうなとは思うけど、さばけているというか」

「うーん、どうなんでしょうね? 未だになんなのかわかんない関係ですし」

「……付き合ってなかったの?」

「私は告白したけど、向こうからなんの返事ももらってないので、未だに付き合っているのかどうなのかわかんないです」


 私の言葉に、多岐川さんはがっくりと肩を落とした。


「……海外では、何度も一緒に食事を摂ったら普通にお付き合い判定されるらしいよ?」

「そもそも客が喫茶店に通って、どうしてお付き合い判定にされるんですか」

「それもそうか」


 それでそのまま食事は終わり、早めに昼休みを切り上げて仕事に戻る。

 今日で修羅場は終わるから、今日こそ定時に会社を出て、迷宮喫茶に行こう。いい加減鞄の中からバレンタインチョコを出したくて仕方がなかった。


****


 地下道は今日も人が多い。

 それでも冬の間は白黒のモノトーンで溢れて、寒々しい雰囲気の漂っていた人波は一転、スプリングコートに切り替わって、気のせいかうきうきした雰囲気で溢れていた。


「とは言っても……」


 迷子にならないと辿り着かないのが、迷宮喫茶だ。

 もう梅田地下道がいくらあちこち改装工事されていても、既に道に迷わなくなりつつ私にとって、わざと迷子になるのは難しい。

 だからと言って、栄転を断ってきた私は、今のところ迷っていることなんてないから、自力では本当に迷宮喫茶に辿り着きようがなかった。

 接客中に電話するのもなあ……そう思って、いつも夜に明日の仕込みをしている最中の泉さんにしか電話をかけられないし、迷子になれないから迎えに来てというのも間抜け過ぎる。店どうするんだ。

 そう思って、腕を組んでいたら。


「すみません、道に迷ったんですけど」

「はい?」


 声をかけられ、私は目が点になってしまった。

 いつもベストにシャツ、カフェエプロンという出で立ちだったから、一瞬誰かはわからなかったけれど。今日はパーカーにデニムという、大学生の中に混ざったらもう見分けが付かなくなりそうなラフな出で立ちで、泉さんが立っていたのだ。


「……泉さん、どうしてこんなところにいるんですか?」

「あれ? 俺が店の外出てたらおかしい?」

「というより、私の世界には泉さんいないんじゃ……あれ?」

「んー……そりゃ、包丁を研ぎに出そうと思たら、すぐ手前の世界に出て研ぎ屋に行くしかあらへんやろう? そこがたまたま神奈さんの世界やったんやろうね」


 よくよく見たら、泉さんの手元には無骨なケースを手に提げていた。多分それが研ぎに出していた包丁なんだろう。

 並行世界がくんずほぐれつになっている場所にある迷宮喫茶だったら、こういうこともあるんだろう。それにしても。

 私は泉さんの格好を、上から下まで見た。


「……大学生みたいな格好ですね?」

「へえ? 男前に見える?」

「服、買いましょう。ラフ過ぎですよ」

「あー……普段店長の格好しとるからー、そういう格好してるほうが似合うとか言う奴やろー?」

「いや……というより、なんかもったいないような気がしただけですよー。泉さん格好よくしたら似合うと思いますんで」

「んー、じゃあデート行く?」

「というより、店は大丈夫なんですか!?」

「店帰ったら仕事せなあかんやろ。まあ、もう年度末も年度末、明日から新年度やから、今日は閉店ガラガラでそこまで迷子はおらんから、ええやろ」

「そんなアバウトな……まあ、でもそうですよね」


 久しぶりに会えたというのに、なんだかさっきから、話があっちこっちに飛びまくる上に、脈絡がない。

 泉さんに「ん」と手を出されて、私はとまどう。


「ええっと……?」

「人多いし、店帰りがてら、手でも繋がへん? それとも、そういうのは恥ずかしいタイプやったっけ?」

「へあ!? つ、繋ぎます……」


 ふたりで手を繋ぐ。手を繋いで私はようやく泉さんの手が大きいことに気付いた。そして、手は思っている以上にボコボコしている。これは……普段から火を使っているせいで、火傷とか水ぶくれ痕とかが混ざっている? なによりも私の指よりも長いし、指だって思っているより太い……。

 手を繋がないとわからないことって結構あるんだなあと思っていたら、泉さんは「つめたっ!?」と悲鳴を上げた。


「あ、すみません。私、末端冷え性で」

「あかんよ、この手は。むっちゃ体に悪いし! ほら、体温吸いぃ」

「いや、悪いですよ」

「なら手ぇ離すか?」

「嫌です。離しません」


 ふたりでぐだぐだしゃべっている間に、気付けば明るい電光に代わり、目の前には泉の広場の噴水が今日も水しぶきを立てているのが飛び込んできた。

 いつものブリキの看板には【CLAUSE】の札がかけられていたけれど、泉さんはそれを取り払って、鍵を回して扉を開けた。


「ほら、入りぃ。最近急がしかったんやろう? なにかリクエストあるか?」

「ええっとですね……私。バレンタインデーチョコ持ってきたんですよ。ひと月遅れになってしまってすみません」

「ほお」


 泉さんは包丁を置くと、カウンター奥に入る。客からは見えない場所で着替えを済ませた泉さんは、いつものベストにカフェエプロン姿になると、今日はメニューを出さずにカウンター越しに私に寄ってきた。


「なんや悪いね」

「まあ……私も遅れてしまってすみません」

「いやいや。なら、ホワイトデーは今やらなあかんね。ちょう待って」

「あの、別に催促するつもりは」

「……彼女からただもらうわけにはいかんやろ」


 その言葉に、私は心臓が口から出るんじゃないかと思った。

 勝手に電話番号を押しつけて、勝手にクリスマスプレゼントを押しつけ、勝手に告白して、勝手にバレンタインデーチョコを渡す。全部一方通行だと思っていた。

 ……この人は、付き合っているつもりだったんだと、今更ながら胸いっぱいになった。


「はい」

「……神奈さん神奈さん。なんで泣くん? 俺、なんか変なこと言うたか?」

「いえ……なんでもありません」

「ならええんやけど……なんでも食べるけど、神奈さんは今からは甘いもん食べれる?」

「ええっと。はい。大丈夫です」

「そかそか」


 そう言いながら、冷蔵庫からなにかを取り出した。

 プリンだった。そういえば前に食べたプリン、ものすごくおいしかったなあ……。そう思っていたら、前に入れていたグラスよりもひときわ大きなグラスにプリンを移した……ん? 缶詰のみかん、パインを添え、いちごを飾り、生クリームを上にトッピングしたあとに、さくらんぼのシロップ漬けを添え……プリン・ア・ラ・モードが完成した。


「え? え? そりゃ、プリン大好きですけど……どうしてアラモード?」

「ホワイトデーをこんなことで誤魔化してって思うかもしれんけどな。プリンはこれでも完全栄養食やから、年度末で忙しかった神奈さんは食べたほうがええと思ったのがひとつ、あんまり冷え性やからカロリー摂らさなあかんと思ったのがひとつ、あと生の果物あげなあかんと思ったのがひとつやねえ。ほんまは缶詰の果物以外をあげたほうがええんやけど、予算がなあ……」

「いえ、いえ! 心配させてしまってすみません! ありがとうございます、いただきます!」


 よくよく考えたら、プリンは卵と牛乳と砂糖なんだから、栄養面としても果物でビタミンを付け加えたら、炭水化物、タンパク質、脂質、カルシウムが摂れる完全栄養食なんだよなあと、今更ながら気付いた。

 前々から卵の味が濃い昔ながらの固めのプリンはおいしく、果物と生クリームもプリンの味を壊さないどころか、おいしさを分け与えている感じがする。おいしい。

 私が「おいしいです!」と感想を伝えると、泉さんはぱっと笑った。


「そかそか。コーヒーはどうする?」

「さすがにコーヒー代は支払いますよ……ええっと、泉さんの今日のおすすめは?」

「プリン・ア・ラ・モードに合わせるんやったら、コーヒーは苦めのほうが合うかもなあ。ブラジルコーヒーでブレンドしようか」

「はい、お願いします!」


 私はそう言ってから、スプーンでまたプリンをすくった。


 梅田の地下は迷宮だ。

 あちこちの改装工事は終わる兆しを見せず、覚えた道が役に立たなくなることもざら。

 そんな中、迷い込んだ迷宮喫茶。

 コーヒーに喫茶メニュー、店長との語らい。

 ひと息ついたらまた歩き出せる。

 またのご来店をお待ちしております。


<了>

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大阪うめだ迷宮喫茶 石田空 @soraisida

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