想いは距離を越えるのか 後編

 私たちが待っていたら、濃くつくったエスプレッソの香りが漂ってきた。

 やがてエスプレッソに泡立てたミルクを注いだカプチーノに、真っ黒なコーヒーに生クリームを少しだけ垂らしたコーヒーゼリーが運ばれてきた。


「はい、お待たせ。コーヒーゼリーとカプチーノふたつ」

「ありがとうございます……」


 コーヒーゼリーを生クリームと混ぜながらスプーンでつるんとすくってみると、結構弾力がある。それを口に含んでみると、ねっとりとした生クリームの感触と一緒にコーヒーの風味が広がった。

 コーヒーはよく飲むし、迷宮喫茶でもしょっちゅう注文しているけれど、コーヒーゼリーとして食べると別格のおいしさがある。


「おいしい……」

「エスプレッソもおいしい……どちらもコーヒーのはずなのに……」

「ゼリーのほうは酸味を優先した味付けなのに対して、エスプレッソは深煎り豆でつくったコーヒーやから、似た味でも風味はちゃうと思うよ?」


 そうやんわりと解説を加えてくれた中、関口さんはぽつんぽつんと私に吐露しはじめた。


「似た味でも風味は違う……かあ。私たち、東京に行っても同じようになれるのかな?」

「もしかして関口さん……彼氏さんに着いていって、会社辞める気?」


 私の問いに、彼女は小さく首を振った。


「まだ迷ってるんです。私たち、大阪に来てから付き合いはじめたから。今楽しいのは、大阪でそれぞれの仕事をしているから。まだ互いに対してなんの責任感もないからで……もし今の生活を捨てて東京に行くだったら、そのままでいられるのか不安なんです」

「そうですね……」

「あのう……店長さん?」

「はい?」


 関口さんはゼリーを食べながら、話を泉さんにまで向けた。泉さんはいつものように屈託ない笑みを浮かべてカウンター越しにこちらを見る。


「……男の人が一緒に来てって言うのは、女の人のことを考えてなんでしょうか?」

「うーん、むっちゃ難しい質問やねえ……」


 そう言って泉さんは腕を組んだ。


「大昔やったら、自分のために専業主婦になってって言うて、それが成立してた。でも今はそんな時代ちゃうもんなあ?」

「だったら……」

「でもこれ、多分問題が混ざっとるんちゃう?」

「え……?」


 そうだったっけ。

 私は愚痴られた内容を思い返して、首を捻った。

 泉さんはのんびりと続けた。


「これ、俺からやとプロポーズに聞こえんのに、自分に全く通じとらへん。相手が滑っとるんちゃうのん?」

「え……ええ……?」


 それに関口さんは困惑した顔をした。それに私は「あっ」とようやく気が付いた。

 大阪に赴任したときからの付き合いだったら、たしかに三年以上だし、いい加減結婚も視野に入れる時期だ。そのときに一緒に東京に行こうだったら、普通にそういう話になるんだ。

 多分、彼氏さん。付き合いが長い関口さんならわかってくれると思って、はしょり過ぎたんだなあ……。


「『結婚する』『しない』の問題と、結婚生活の拠点を『東京にする』『大阪のまま』の問題と、『自分が仕事を辞める』『辞めない』が混在しとるから、これ一緒くたにせんと、ひとつずつ解決せんかったら、こじれるんちゃうのん?」

「私……そこまで考えてませんでした。ますます……彼氏ときちんと膝を交えて話をしないと……」


 彼女は急いでコーヒーゼリーを食べ終え、カプチーノも勢い付けて飲み干すと「ごちそうさまです!」と言って会計を済ませた。

 彼女は普通に現金を持ってきていた……よくよく考えると、大阪の一部の駅には未だに無人駅だって存在する。トラブルが発生した場合、現金の予備を持っていないとあとあと困るのだから、完全電子マネー化は無理なんだ。


「神奈さん、お話聞いてくれてありがとうございます! 私も急いで彼氏と話をしてくるから!」

「ええっと……頑張ってください! 私、本当になにもできてないですけど!」

「愚痴聞いてくれてありがとうございます!」


 関口さんは勢いよく迷宮喫茶を後にしてしまった。

 ……きっとものすごい勢い付けて帰ってしまったから、彼女はこの店のこと一瞬で忘れてしまうんじゃないかなと思う。

 残された私は、気付けば客足もまばらになってきたのを見計らってから、泉さんに声をかけた。


「今日、珍しくお客さんが多かったですね? 出張シーズンじゃないですし……」

「皆、転勤やら昇進やらで来年度に向けての悩みで来たんやろうねえ」

「来年度、ですか……」

「さっきの神奈さんの友達? あの子みたいに、人生の岐路に立たされて、途方に暮れる子もおるしねえ」

「……そうかもしれませんね」


 私はそう言いながら、残ったカプチーノを飲み干した。

 ……この人の中では、当たり前な話になってしまうかもしれないけど。私は意を決して口を開いた。


「私も……上司から話が来ちゃったんですよ。転勤。東京行きです」

「……あらまあ。おめでとう……と言ったほうがええんか?」


 そう言われてしまうと、私は少し胸が痛い。それでもなんとか勇気を振り絞って言葉を続ける。


「正直、行きたくないんですよ。今行ったら、もう二度と会えなくなりそうで……怖くって……私」


 泉さんは、いつもの笑みを消して、こちらをじぃーっと見つめてきた。

 この人はいい人なのか悪い人なのかよくわからないし、大阪弁でいろんな感情を煙に巻いてしまって底が読めないけれど。

 ただこの人と二度と会えなくなるのだけは嫌だった。


「……泉さんが、好きなんですよ」

「んー……んーんーんーんーんーんーんーんーんー……」

「あの、泉さん?」


 まるで回線の切れた電話のように、間延びした返事をしながら、泉さんは落ち着きなくカウンターの中をうろうろしはじめた。

 これは、どういう意味だろう。断る言葉を探している? とてもじゃないけれど、甘い雰囲気の言葉はもらえそうもない。

 しばらくカウンターを右往左往している泉さんを眺めていたが、やっとのことでこっちのほうにスタスタと歩いてきた。


「堪忍なあ」

「……ええ?」


 ああ、フラれた。呆気なく。

 ポロリと涙が零れた中、泉さんは言葉を続けた。


「中途半端な態度ばっかり取って」

「……はい?」

「迷宮喫茶は、けったいな場所やろう? 狭間でようさん迷子が出るから、元の世界に帰れるようにってしている店や。一期一会が基本やから、どうせここでおいしいおいしいと絶賛した客も、うちの店忘れるんやろうなあと、そう思っとった」

「……まあ、まあ。私も未だにここが並行世界の狭間とか、パラレルワールドとか言われてもピンと来てませんけど、もうそういう店なんですよねで、割り切ってます。はい」

「せやから、常連客ができるとは思ってなかってんな」

「は、はあ……」


 泉さんはしみじみと続ける。

 じわじわと、自分の体温が上がってきているような気がしている。これは。少しは期待してもいいんだろうか。


「まさか、電話番号交換しょうなんて言われるとは思わんかったし」

「すみませんすみませんっ、こちらもいろいろとテンパッてて……!」

「いやな、嬉しかってん」


 泉さんはのんびりと言う。


「東京やったら、池袋。新宿、渋谷……」

「あの?」

「狭間の現れる場所やけど、どこもたしかに迷宮喫茶に直結する場所はあらへんなあ……狭間におるんが、誰でも平和的な奴ちゃうし、もしそこに神奈さんが迷い込んでもうたら、俺もちょっと困るなあ……神奈さん、狭間に迷い込みやすい体質みたいやし。せやけど、俺のわがままで東京に行くなとも言われへんし」

「……ひとつだけ、方法はあるんです」

「おう?」

「明日まで待ってください。明日どうにもならなかったら……私も自分の恋は諦めますから」


 そう言うと、泉さんはわかりやすいくらいにしょんぼりとした。


「俺は、諦めて欲しくないんやけどな」


****


 翌朝、私は人が少ない時間に急いで出勤し、関口さんにアプリで連絡を入れた。


【彼氏さんとはどうなりましたか?】

【店長さんの言ってた通りだった。プロポーズでした】


 彼女は本気で焦って気付かなかったらしく、がっくりとした絵のスタンプが流れてくる。


【それはおめでとうございます】

【嬉しいけど、私も仕事を辞められないから考えさせて欲しいと頼んでいる】

【そのことなんですけど】


 しばらくアプリでやり取りをしてから、私は急いで上司の元に向かった。


「すみません、先程関口さんから許可をいただいたんですけど、東京行きの件、私じゃなくって関口さんでは駄目ですか?」


 一応隣の部署なだけで、している仕事は同じなのだ。だから、行くのは私でも関口さんでもかまわないはずなんだ。

 それに上司は「あれ」と首を捻った。


「関口さん、たしか外部の人とお付き合いが」

「お付き合いしている方と東京に行きたいらしいんで。あの、大丈夫ですか?」

「ひとり、向こうが人材募集しているから、ひとり行ってくれればそれでいいよ」

「ありがとうございます!」


 私は上司に何度も何度もお礼を言い、仕事の合間に直接関口さんにもお礼を言って、仕事を切り抜けた。

 全部終わってすっきりしながら地下道の食堂でパスタを食べていたら、私が機嫌いいのに多岐川さんが目を瞬かせた。


「神奈さん? 栄転の話は結局は?」

「同期が東京に行きたいけど、いきなりの転職に困っていたので、譲りました」

「なるほどぉー……これって、私おめでとうって言うべき?」

「なっ、なんでなんですか!?」

「だって、店長さんと離ればなれにならなくって済んだし?」


 思わず喉にパスタを詰める……手作りらしいパスタは、もちもちしていて喉に詰まりやすい。


「ゲッホ……そうなんですけど、そうじゃなく!?」

「いやいや。私はそういうの全く興味ないけど、人の話を聞くのが好きなだけだから」

「多岐川さん!?」


 私の悲鳴に、食堂で食事を食べていたあちこちの社員さんたちが視線を送ってくるので、小さくなって皿の上のパスタに集中する。

 そうだ。泉さんと離ればなれにならなかったし。きちんと告白したけれど。


 ……まだあの人から、肝心な言葉を聞き出せてはいなかった。

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