想いは距離を越えるのか 前編
まだ一月の後半戦だけれど、この頃くらいから、ちらちらと年度末の話が出てくる。
その中で、私は上司に呼び出された。
「神奈さん、君付き合っている人とか結婚の話とかあるかな?」
最近だったら、この手の話題はすぐにセクハラ案件となってデリケートになっている。
でもうちの上司がその手の話を、ただのセクハラでする人でもないから、私は困った顔で答えてみた。
「いえ」
「そうか……大変申し訳ないんだけれど、四月から、東京に出てくれないかな?」
「え、ええ……?」
普通に考えたら、栄転なんだけれど。私からしてみたら寝耳に水だし、そもそも大阪の梅田から遠ざかってしまうのがすごく嫌だった。
「これって、私の意思は関係あるんでしょうか……?」
「誰かひとりを東京の本社に配属できればそれでかまわないんだけれど。替えの人材がいないんだったら、神奈さんのままだよ」
「……わかりました」
栄転だから、普通に考えたら探せばいるだろうと気楽に考えていたものの、そうもいかないことが多過ぎた。
「……東京だと、ソースがないから」
「そっち?」
多岐川さんに、東京に行きたい人を探すついでに聞いてみたら、意外過ぎる回答が来た。
私の言葉に、多岐川さんは「ええ、そう!」と力説した。
「たこ焼きを焼きたくっても、東京だとたこ焼きの粉売ってるの? 天かすは? それにお好み焼きソースは?」
「な、なくても生きていけるんじゃ……」
「たこ焼きは! 自宅でつくるもの! たこ焼きの粉、天かす、お好み焼きソースがなくて、どうしてつくれるというの……!」
関西に来て驚いたのは、関東だと信じられないくらいに、用途多数のソースが売られていたことだ。
まだフランス料理とかイタリア料理専用のものだったらわかるんだけれど、焼きそば用ソース、お好み焼き用ソース、とんかつ用ソースと、どう違うのかよくわからないソースが乱立していて、それを使い分けているのを見て驚いた記憶がある。
そして、そういう文化に慣れ親しんでいる多岐川さんからしてみれば、離れるのが嫌らしい。
「通販で買うっていうのは……?」
「通販で買えたらいいんですけどね! 通販でも買える有名店のって、すぐに品切れになるから、ひと月とかふた月、最悪うん年待ちとかありますからね! その間たこ焼きを食べるなと?」
「いや、ごめん……他の人いないのかな……」
「ああ、やっぱりあの例の店長さんと離れ離れが嫌なんですか、普通に考えたら栄転だから喜ぶべきところなんですけどねえ……」
今時、転属命令って下手したらパワハラになって会社を辞められかねないから相当デリケートなんだけれど、その分だけ人を選んでいるように思える。
なるべく転属しても、周りに迷惑をかけない人で、本人も栄転を喜べる人と。
上司は相当気を使ったんだろうなとはわかっているものの。
私も泉さんと会えなくなるのは困るなと思ってしまっている訳だ。
「さすがに東京から迷子になって辿り着くことはないと思うし……」
「はあ……? そりゃ東京と大阪だったら距離が離れているから、なかなか会いに行けないとは思いますけど」
まさか多岐川さんに、狭間は繋がっていなくっても条件が揃ったら紛れ込むことができるなんて、言っても仕方がないしなあ。
しかも泉さんは、狭間が必ずしも安全だとは言っていなかったし、私が泉の広場で迷い込めるのは、単純に運がいいからとまで言っている。
会いたいからとわがまま言えば、会いに行ける訳ではないんだ。
多岐川さんはわからないなりに「そうねえ……」と言う。
「とりあえず、転勤の話は店長さんに言ったほうがいいと思いますよ? ずっと電話でやり取りはできているんでしょう? 会いに行ける頻度が短くなっても、電話でやり取りしたいって、ちゃんと伝えないと」
「う、うん……そうですよね」
居心地が良すぎて、ふたりの関係に名前を付けたがらなかった。でもそれが、今はなんて軽い関係なんだと思い知らされてしまう。
付き合っていないと、拘束力がないんだなと、つくづく実感している。
****
午後の仕事を終えて、私が帰ろうとしたとき。
廊下に出て早々、大声が響いた。
「ちょっと……! そんなの聞いてない! 困るよ! 待って、切らないで……!」
同期で、隣の部署の
なんか聞いちゃいけないことを聞いてしまったな。私はなんにも聞いてませんし、なんだったらネットにも上げません。そう思いながらやり過ごそうとしたものの、泣きそうな顔の彼女と目が合ってしまった。
「神奈さん……すみません。恥ずかしいとこ見せてしまって」
「いえいえ」
気まずい。
多岐川さんだったら、もっと気の利いたことを言ってその場を治めるんだろうけど、私にそんなスキルはなく、なにを言えばいいのかと探してみるけれど、上手いこと思いつかない。
ただ、関口さんはちらちらと廊下を見ている。
さっきのスマホ越しの修羅場を、なんとか素知らぬ顔でやり過ごそうとしているものの、気になってこちらのほうをさりげなさを装いつつ見てくる気配がある。
さすがに見世物にするものじゃないよね。私は思い切って言ってみた。
「話、よかったら聞きましょうか?」
途端に関口さんも心底ほっとしたような顔をした。
友達だったら、どこにどう話が回るかわからない。知り合いにどういう形で伝わるかわからないからネットに書き込めない。
そういうとき必要なのは、ネットに書き込まなくって言いふらしたりしない口の堅い友人や、そっとその場限りの話に治めてくれる店だ。
私たちは地下道に入り、少しばかり歩く。相変わらず工事で締め切られた道が多く、退勤時刻になったら人通りも活発になって閉鎖されて狭くなった道が余計に狭く感じる。
いい加減会社の人たちが見えなくなったのを見計らってから、ようやく関口さんから口を開いた。
「……いきなり、彼氏から東京に来てくれないかって誘われたんです」
「はあ……?」
「彼氏、自営業なんですけど、東京でチャンスを掴んだから、東京で仕事をしたい。できれば私と一緒に行きたい。一緒に行かないかって誘われちゃったんです……私の都合とか一切聞かないで」
「それは……」
一応関口さんは、私と同じで関東から会社命令で関西に赴任してきた口だけれど、新しく引っ越す先に仕事はあるのかとか、引っ越す家はどうするんだとか、今住んでいる家の解約とかどうするんだとか思ったら、即答はなかなかできない。
そもそも上司も、こういうことがあるから、独身で恋人も結婚相手もいない相手から転勤させる相手を探す訳で。
私はおずおずと尋ねてみる。
「そのこと、彼氏さんに言えたの?」
「話す前に切られちゃって……でも私も彼と会ったときに、ちゃんと話ができるのかなと心配で……」
たしかにこれは由々しき事態か。腰を据えて話し合わないと、遺恨が残るから。
そうこう話を聞いている間に、だんだん見慣れた電光色の道へと変わり、退社ラッシュとは思えないほどに、人がいなくなってしまった。
これは……私が迷ったというよりも、関口さんの迷っているのに私が引きずられたというところだろうか。
既に迷宮喫茶に行くことに、なんの躊躇も困惑もなくなってしまったことに、我ながらおかしくなるけれど。
一生懸命話をしていた関口さんも、辺りを見回して首を傾げはじめた。
「あ、あれ……? 梅田地下って、こんな場所ありましたっけ?」
「ええっと……あるような、ないような……」
噴水が見えて、それを関口さんはきょとんとした顔で見ている。
泉の広場が有名なだけで、噴水や水の造形が有名な場所は、梅田地下にはいくらでもあるせいか、彼女はここが異界とか狭間とかに紛れ込んだという自覚はなさそうだった。
そして、泉の広場の噴水の近くに、相変わらずブリキの看板で【迷宮喫茶】と出ていた。
私は困惑したまま、辺りを見回している関口さんにそっと促してみた。
「あそこに喫茶店ありますし、飲みながら話しましょうよ。さすがにお酒が入ったら、彼氏さんとの話し合いも支障があるでしょうし」
「……そうですね。行きましょう」
関口さんは意を決したように、のっしのっしと向かっていった。
相変わらずコーヒーの匂いの漂う中、その日は珍しく喫茶店には人が数人ばかり入っているのを見かけた。
不思議なことに、今日は会社帰りらしい男性連れや女性連れが多いようだった。
並行世界から迷い込んできた人たちは、ときどき違う時系列からやって来るとは泉さんも言っていたけど、そういう人たちなんだろうかと私はぼんやりと思う。
他の人たちにも、お冷や注文のコーヒーを配りつつ、泉さんは私たちのほうにもやって来た。
「いらっしゃい。席は今空いてるのはカウンターだけになるんやけどかまへんか?」
「あ、はい。ふたりです」
「かしこまりました。はい、飲み物メニューはこっち、喫茶メニューはこっち」
お冷とメニューを渡して、他のお客さんたちの接客へとくるくる動き回る泉さんを見つつ、私は関口さんを見た。
「なにか食べますか? それともコーヒーだけで……」
「……なんか食べたいです。甘いものをちょっとでも口にしないとやってられないんで」
気が立っているのを鎮められて、軽く食べられて、甘いもの……。
彼氏さんと話し合いするんだから、あんまりお腹いっぱいになって眠くならないもの……。
なかなか難しい注文だなと思ってメニューを探していたところで、ふと目に留まった。
「……コーヒーゼリーでもいただきますか?」
「あー……小さい頃喫茶店で、隣の人が食べていたのを羨ましく思ってたことがあります。コーヒーを口にするのはまだ早いって親の方針があったんで、子供の頃はコーヒーゼリーって食べられなかったんですよ」
「なるほど。じゃあコーヒーゼリーと……飲み物どうしましょうか」
「コーヒーゼリーとコーヒーって、なんかバランス悪いですもんね」
私たちがそう話していたら、接客をある程度終えてカウンターに戻ってきた泉さんが口を挟んできた。
「カプチーノ」
「はい?」
「コーヒーゼリーに合う飲み物やったら、カプチーノやったら合うと思うけど、どうするー?」
そういえば。カプチーノは基本的にイタリアの深煎りコーヒーのエスプレッソを使うのが定番だ。かなり苦いコーヒーに泡立てたミルクを注いで飲むのが定番。
たしかにコーヒーゼリーの味とは趣が異なるから、互いの味を殺さないかも。
「それにしますか?」
「……店長さんすごいんですね? では、コーヒーゼリーとカプチーノをお願いします。神奈さんは?」
「あ、私も同じものを」
「おおきに」
さっさと奥に向かって、コーヒーゼリーとカプチーノの準備をはじめてくれた。
そういえば。私も関口さんの話で棚上げしているだけで、泉さんにまだなんにも言えていない。
どうしよう。気持ちを鎮めるために、ひとまずお冷を口に含んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます