迷宮喫茶の秘密 後編
私たちが店の扉をカランと開けると、グラスを拭いていた泉さんが顔を開けた。
「いらっしゃい。あれ、神奈さん。その人は?」
「ええっと、東京からいらっしゃった雑誌編集者さんです」
「はあ……もしかして、取材とかですかねえ。好きな席どうぞー」
泉さんにそう言われ、私たちはカウンター席へと座る。
「はい、どうぞ。コーヒーメニューはこっち、喫茶メニューはこっち」
泉さんはお冷とメニューを出したものの、暮春さんはなかなかそれに手を出さなかった。
オカルト雑誌の編集さんだし、余計にこの迷宮喫茶の不思議現象が気になって、口にするのを警戒するらしい。
今まで口にしていても、普通に家に帰れていた私は、とりあえず暮春さんに声をかける。
「あのう……取材でしたら、なにか頼んだほうがいいんじゃ」
「そ、そうなんですけど……あの、店長さんは……」
「はあ、普通の人だと思いますけど」
「……普通、なんですかね?」
暮春さんが声を窄めて言うので、私ははてと思っていたら。
泉さんは苦笑する。
「あー……自分もしかして、目ぇいい人?」
「へ? 目? さっき霊感あるみたいなことはおっしゃってましたが……ええっと、なにか見えるんですか?」
私が暮春さんに振り返って尋ねると、暮春さんはガタガタ震えながら頷いた。
「今は見えるというより、変な気配がするというだけで……ここって結局なんなんですか? 食べても無事、みたいなことは神奈さんから伺いましたけど」
「うーん、せやねえ……どう説明しょうか。神奈さんには、かいつまんで説明したことは一度あったと思うけど」
泉さんは、そう言って背筋を伸ばした。
はて、なにかあったっけ。
ここが工事が頻繁に続いているせいで、並行世界同士の隙間にできた狭間だっていうことは、前にも聞いたけど。
それに暮春さんはおずおずとメモを取り出した。これだけ脅えているのに、この人仕事は忘れないんだなあと、私は思わず笑った。
それを見守りながら、泉さんは口を開いた。
「ここに着くまでに、大阪来てどうでした?」
泉さんは大阪弁混じりの丁寧語で暮春さんに尋ねる。
「ええっと……以前も出張で来たことはあったんですけど、前よりもずいぶんと綺麗になりましたね?」
「せやねえ。全体的に老朽化してるんで、それ対策で建て直したり修繕工事を繰り返してます。再開発の真っ只中ですよここは。まあ、こんな工事続いてたら、ときどき隙間ができたりするんですよ」
「隙間……それって、あの世とこの世の境というか、異界というか……そういうものでしょうか? 昔たまに聞いた、神隠しみたいな」
「せやねえ。そういう考えが妥当です」
私だとちょっとわかりづらい話だけれど、暮春さんはいやいやでもオカルト雑誌編集部に勤めているだけあり、泉さんの説明でも納得がいっているようだった。
……というより、私に説明するときに、いかに怖くないように説明するかって考えてくれてたんだなあと、今更のようにこの人が気を利かせてくれていたことに気付いた。
泉さんはにこやかに続ける。
「まあ……そんな理由で、ここにたまぁーに迷い込んでくる人がいるんです。せやから、その人らを元の世界に送り返すのが、自分の仕事です。もちろんお金はいただきますけど」
「なるほど……ここでの食事は異界に縛り付けるための枷ではなく、送り返すための対価……と言ったところだったんですね」
「まあ、そうなりますね。なにぶん、自分はそんなんしませんけど、迷い込んだんを好き勝手するような連中もたまぁにいますから……繋がってしまっている世界の連中が、必ずしも善人ではありませんから、その保護もあります」
そうだったの?
私は思わず泉さんを見ると、泉さんは小さくウィンクしてくれた……本当に。
本当に私、運がよかったんだなあと、思わずズルーッとカウンターに突っ伏してしまった。
泉さんの説明をメモに取り、暮春さんは「なるほど」と一旦ペンを置いてから、カウンターに顔を上げた。
「最後になりますけど、だとしたら泉の広場にいた、赤いコートの女は、その異界の生き物だったんでしょうか?」
「せやねえ。なにぶん大阪は昔から工事が多いですから。そのせいで狭間が生まれやすく、その狭間を彷徨っていたのが、たまに外に出ていたようですよ……もっとも、泉の広場がなくなってからは、やる気がなくなったのか、あまり外には出なくなったかと思いますけど」
「なるほど……ありがとうございます。これで記事ができるかと思います。ただ……取材させていただいたのに、雑誌を送りたくてもできないんですけど、どうしましょう?」
暮春さん、オカルト怖いって言いながらも、迷宮喫茶への適応が早過ぎないかな。
私の心の中の突っ込みはさておいて、泉さんは苦笑する。
「ここでなんか喫茶メニューでも頼んでくれたらそれでええよ」
「いや、それじゃ俺が帰れるだけで悪いんで……」
「ん-……なら、彼女にでも雑誌を送ってください。それを自分がいただきますんで」
「え?」
暮春さんは驚いて私を見たあと、申し訳なさそうに何度も私たちに頭を下げました。
「す、すみません! まさかおふたりがお付き合いしていると思っていませんでしたので! いや、彼女には道案内してもらってただけで、なにもやましいことはしてないです! 本当に!」
「わ、わかってますよ、そんなことは! 落ち着いてください、そして私たち、別になにもないですよ!」
暮春さんと私の謝罪合戦をしばらく眺めていた泉さんは「それで、どうするー?」と注文を催促してきたので、それもそうだと私もメニューを眺めた。
「えっと……ならコーヒーブレンドミルク付きと、ワッフル……メープルシロップで」
「私はブラジルコーヒーブラックと、プリンで」
「はい、かしこまりました」
そのままさっさとコーヒーを淹れる準備をしながら、ワッフルメーカーでワッフルを焼きはじめた。
先に私に「はい、どうぞ」とプリンを出してくれた。
喫茶店の固めのプリンは、一時期出回るのは柔らかいプリンばかりでささくれ立っていた私にとっては嬉しいものだった。
「プリン……やっぱり固めのが好きです」
スプーンでカラメルソースと一緒にすくって口に入れると、その固くも柔らかい触感に「んー……」と喉を鳴らした。
「柔らかいプリンは、基本的に生クリームが多いねんなあ。弾力はゼラチンや寒天を入れて出せるけど、どっちも味で選り好みがあるかなあ」
「そういえば、一時期イタリアプリンみたいなものが流行りましたね」
「ん-……あれは生クリームをクリームチーズに置き換えてつくるから、プリン特有の卵の味を求めている人は違うって思うかもしれんねえ。なんだかんだ言って、昔ながらのプリンは、全卵と砂糖、牛乳をよく混ぜて蒸せばつくれるから、つくる分にも楽やねんなあ」
なるほどなあと思っていたら「はい、ブラジルコーヒー」とブラックコーヒーも出してくれたので、それもありがたくいただく。
甘いプリンには、砂糖を入れないブラックコーヒーがよく合う。
おいしいおいしいと満足している中、「はいお待たせしました、ワッフルとブレンドコーヒーです」と暮春さんにもきつね色に焼けたワッフルとメープルシロップを添えて出された。
「ありがとうございます。いただきます……おいしい。喫茶店に来ると、これが食べたくなるんですよ」
「せやねえ……ワッフルは喫茶メニューとしての息が長いから」
「そうだったんですか? てっきり昭和入ってからの流行だと思ってたんですけど」
「カステラやって、幕末には既に食べられてたやろう? 長崎の名物菓子の一種やし。それと同じで、明治には既に存在してた洋菓子は多いし、大正時代にはあったもんも多いよぉ。今ある喫茶メニューの大半は、既に大正時代はあったもんやからねえ」
そうだったのか。それは全然知らなかった。なんか知らないけれど、洋菓子はもっと後のほうだと思っていた。
でもよく考えたら、あいすくりんの名前でアイスクリームを食べる風習が大正時代にはあったんだから、案外私たちの知っているお菓子はもっと昔からあったのかもしれない。
私たちがおいしいおいしいと食べて、会計を済ませたあと、泉さんは苦笑していた。
「ええっと……私、普通に迷宮喫茶に通ってましたけど、まさか怖い目に合うのかとかって、思ってもみませんでした。でも前に修学旅行に来た子たちを心配してたのって、狭間にいる訳のわからない生き物に狙われたりしないようにってことだったんですか……?」
「せやね……大昔は神隠しのことを怖がってたのは、狭間に落ちた際に、危ない生き物に襲われたって話が出回っていたからなんやろうねえ。幸いというべきか、神奈さんといい暮春さんといい、大吉は引いても大凶は引くタイプちゃうかったから、巻き込まれんで済んでるんやろ。うちの店にさっさと入れるって、そういうこっちゃ」
「……そう、なんですね?」
その辺りは全部は飲み込むことができなかった。
「……私、通ってて迷惑ではありませんか?」
「いいや? もし自分とこに通って危ないんやったら、こっちも肝が冷えるけど、それはないみたいやから。心配せんでもええよ」
「……はい。本が届いたら、電話しますね。渡しに行きますから」
「おおきに」
そう言って、暮春さんと一緒に店を出た。
いつも通りの喧騒の中で、私たちは連絡先を交換する。
「それでは、今回は取材協力本当にありがとうございました。記事が完成しましたら、一度見てもらっても大丈夫でしょうか?」
「ええっと、私自身はそこまで詳しくないんですけど、大丈夫ですか?」
「自分ところの雑誌も、読者が真似しないようにって、取材内容を百パーセントは書きませんから」
なるほど。読者が真似して狭間に迷い込み、迷宮喫茶に辿り着けなかったら目も当てられないもんね。
私は「わかりました、雑誌お待ちしてます」と言って、暮春さんと別れた。
それにしても。暮春さんは腰低く私たちが付き合っていると勘違いしていたけれど。
付き合っているように見えたのか。
「……ふふ」
なぜかその言葉がひどく心地よかった。足取り軽く私鉄に着いてしまったのは、きっとそのせいなんだろう。
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