第5話 とある魔女の話


 生まれて初めてすることは何? 涙を流すこと、大声を出すこと。そんなところでしょう? でも彼女はこの世に生を受けた時、自分の身体を手にまとった魔力で丁寧に撫でて綺麗にしたの。それから、わめかず、ただ体の機能に従うようにぼろぼろと涙を流したわ。それから、つまらなそうに目を閉じて眠りについた。気味が悪いと、彼女の母親は思ったそう。そして、魔法使いだった父はその子を歓迎した。魔力を生まれた時から纏うことができた人間など聞いたこともなかった。彼女は自分自身の身体を扱うように、生まれたその瞬間に世界を漂う力の源を扱ったのだ。


 しかし、その父もすぐに彼女を忌避する。彼女は歩くことを覚えるよりも先に、父が扱えていた魔法のすべてを父よりも高いレベルで扱うようになった。見て、真似して、遊び続けて、自分のものにした。至って順当な手順だ。その尋常ならざる習得のスピードに目を瞑れば、彼女はどこにでもいる子どもと同じ成長の過程をたどっていた。


 彼女が初めて発した言葉は「」だった。


 生まれたばかりの子ども。そんな子どもが何をどうしたってかけらを自らに取り込むことすらできないほど、世界は広い。何もかもが新鮮で、輝いていて、毎日が未知そのものであるはずだった。彼女以外の子どもにとっては。だから世界は彼女を楽しませようとした。それが、彼女が世界に姿を現した最初の日。齢五歳の少女は、世界の魔法をすべて一度壊した。緻密な魔力回路を組み立て、そこに魔力を流し続けることで、その間一定の効果を得る。そんなゴミのような魔法体型は、一人の少女の出現によっていともたやすく崩壊した。それが偶然のことだったのか、本当に彼女の為だけに世界が世界を作り替えたのか。誰も疑うものなどいない。答えは後者だ。


 魔力は、人の意志を認識するようになったのだ。魔力回路などなくとも、魔力はその力の範囲内で人の意志にただ従うようになった。ある程度の制限を己に課しながら。その制限が最も緩くなるのは、彼女に扱われたときだった。


 彼女はその魔力で遊び続けた。体はどんどん大きくなっていき、少女は女性になっていく。しかし、その少女の目だけはどれだけの月日が流れても変わることはなかった。暗く深い。虚ろの目。


 彼女は冒険者として活動するようになった。向かうところ敵なし。依頼達成率百パーセント。瞬く間に、冒険者としても名は知れ渡っていった。魔力は彼女の顔色を窺うように彼女の意志に従った。彼女に笑ってもらえるように頑張った。それがむしろ逆効果だったことを、魔力が知るのはもう少し先のことだ。


 つまるところ、彼女には並ぶものがいなかった。孤独だった。魔力以外の、魔法以外の、何もかもを彼女は知らなかった。だって、彼女がいる場所には何もないし、誰もいないんだから。食事に味を感じたことなどなかったし、音楽に心躍らされたこともない。甘い香りに誘われたことも、人のぬくもりを感じたことも、美しさを目にしたこともなかった。


 

 ――彼と出会うまでは。



 彼と彼女の境遇は、ある意味では似ていた。しかし一つ明確な違いがあるとするならば、彼には確かな指標があり道があり、彼女はただひたすらに孤高で足元にしか大地はなかった。しかし彼は、その道に彼女を巻き込んだ。孤高の場所から彼女を、地に落としたのだ。


 常軌を逸した魔女がいる。彼はそんな噂を耳にして、クレアの首都、大都市レイにある冒険者ギルドを訪ねた。彼女はすぐに見つかった。冒険者ギルドの中に併設されているbarに彼女はいた。退屈そうに、酒を喉に流しては、空になったグラスを眺めるという行為を繰り返していた。


「お酒が好きなの?」彼は聞いた。


 彼女は嫌そうな顔をすらせずにただ持っていたグラスを彼に向けた。「どんなにおいがする?」


「アルコールの匂いだ。随分と強いお酒を飲むんだね」魔族殺しと呼ばれるカクテルで、それはそのカクテルを飲んだ魔族が意識を失いそのまま投獄することができたという逸話に由来する。


「だから、どんなにおい?」


 彼は笑った。何もかも理解したとでもいうように胸を張った。彼にとって、それは当然のことだった。「マスター、同じの頂戴」


 彼はマスターがお酒を準備している間に強引に彼女の身体を自身と向き合う形にさせた。それでも彼女の顔色は何も変わらない。触られた感触があるのかすら怪しい。「私の目を見て」彼は言った。私という一人称は、彼にはあまりにも似合っていなかった。彼女は彼の瞳に目を合わせる。その瞳の中は轟々と燃え盛っていた。その目の周りを赤く爛れさせるほどに。金色の髪を持つ人間を初めてみた。聞いたことがある。それは、勇者の証。生まれながらに宿命を持つ人間。羨ましい。彼女は素直にそう思った。彼女にはまだ、何も生まれていないから。彼女の隣には、まだ、誰もいないから。


「あなた、名前は?」生まれて初めて、彼女は誰かに何かを問いかけた。それはあまりにも簡単な質問だったが、彼女にとっては他のどんなことよりも大切なことだ。それは、知りたいと思い、行動に移して初めて知れるものだから。それは理解ではない。理解できないものを、彼女は知ることはできない。全てを理解できるから。



「勇者」



 胸の辺りが温かくなるのを感じた。勇者は彼女の手を握る。手が温かい。その熱は、顔にまで登ってくる。目を合わせるのが恥ずかしい。彼の声があまりにも心地よい。彼女の身体は段々震えだす。何もかも全部、絞り出すために。目元からあふれるそれが、こんなにもしょっぱいものだったことを彼女は初めて知った。誰かに頭を撫でられることの幸福を知った。彼女を愛する魔力は彼女背中を優しくなでる。


 誰にとっても等しく。それは世界を本当の意味で作り変えてしまった少女にとっても例外ではなく。彼は勇者。誰にとっても勇者。彼女にとっても。


「魔族殺しです」マスターがお酒をグラスに注ぐ。


「ほら、どんなにおい?」勇者は面白そうに彼女にそれを差し出した。


 彼女の鼻先が少し揺れて、時間が一瞬止まる。魔力は彼女の意思に呼応する、彼女の長く黒い髪は悪魔の翼のようにおぞましく揺れる。冒険者ギルドは建物ごと宙を舞った。中にいる人間や家具は全部を混ぜ込まれて、たった一杯の酒はどこかへ消えた。勇者は、ただ大笑いをしていた。






「僕一人では無理だと思う。だから、君の力を借りたい」

 彼女の答えは決まっていた。初めて見えた道。進むに決まっている。彼女は、勇者の初めての仲間だった。


 彼女は勇者に救われた。返し切れない恩がある。それは魔王討伐という偉業の手助けという形で返していけたらいいとそう思いながら、必死に突き進んだ。彼女には力があった。勇者にも引けを取らないほどの力が。彼女には勇者支え続けている自負があった。


 その自負は無様に、あまりにも呆気なく。否定される。魔王という圧倒的な存在に。


 勇者が消えた日。彼女はある覚悟を決める。魔力は彼女を愛している。代償さえ払えば、制限すら無視してあらゆる意志に応えてしまうほどに。


 彼女が払った代償は、「死」。代償と対価の表裏一体。それは、あまりにもむごい。彼女の想いを考えれば考えるほどに。あまりにも、救いがない。


 

 ――それでもいい。名前を知らないへ。



 彼女は不滅の魔女。名を、アネモネ。百五十歳。勇者とともに魔王討伐へ赴いた、生きる伝説である。




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名を知らぬ勇者へ yukisaki koko @TOWA1922569

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