第3話

 翌日。


 悶々としたものを抱えながら授業を受けていたために、何度か田中先生に怒られてしまった。数学の田中先生は見た目こそは無精ひげをたくわえた不良中年といった風だけども、授業はめちゃくちゃ丁寧だ。


 そんな先生の授業中に、私はぼんやりと佐藤君のことを考えていた。頭の中では、佐藤君謹製の告白の言葉がスクリーンセイバーのように動き回り、先生が口にするlogやらlimやらΣやらを片っ端から吹き飛ばしていく。


 そんな状態だから、先生に指名されてもなんだか夢心地。


「愛って何ですかね」

 

 なんてことを口走ってしまった。


 プラトンが口にしてそうな深遠な問いに、教室内で笑い声が弾けた。その笑い声は、田中先生の一拍によって水を差されたが。


 先生は何か神妙そうな顔をしていた。神妙すぎて感情がないほど。ちなみに私が回答すべきだった問題は集合の問題で、愛とはまったく関係がなかった。


 たっぷり十秒、先生はジョリジョリしていそうな髭を撫で。


「そりゃあ虚数だろう」


 数学教師らしい返答をしてくれた。何か漫画で聞いたことがあるような、ないような。でも、そんなことを考えている間に、私は立って授業を受けるよう命じられた。罰だった。


 一人立っていた私へクラスメイト達の視線がいくつもやってきたけれども、正直なところ気にならなかった。だって、相も変わらず愛のことを考えていたんだもの。




 愛ってなんだ。


 そんなことを考えながら、今日も今日とて屋上でフラクタル・ラブに目を通す。父が言うには躊躇わないことらしいけれど「それは父さんが好きな曲のことじゃん」って返したらお小遣いが五百円減った。横暴だ。


 本のちょうど半分に差し込んだしおりのページを開く。


 愛の物語はよくわからない方向へと進み始めていた。フラクタルな愛というのは、私の知っている愛とは違うのかもしれない。


 主人公は告白を受けた。その告白に悶々としていたわけだけども、それが偽りの愛だと知る。そのきっかけとなったのは、階下から聞こえてくるからかい気味の言葉。そうこんな風な――。


 扉の方から聞こえてくる声。くぐもったように聞こえるのは、屋上からY軸方向に二

メートルほど下がった三階の踊り場で、声の主が話し込んでいるらしかった。


 私はその言葉に耳をすませる。男子生徒複数名がガヤガヤ話し込んでいる騒がしい声の中には、聞き覚えのある声が混じっていたからだ。


 だけども。聞かなかった方がよかったかもしれない。……少なくとも私は後悔した。


 彼らが話しているのは、私のこと。より正確に言うならば、佐藤君が私へと告白したということを話していた。陸上部の先輩あるいは後輩が、佐藤君のことを後押しした――それならどれほどよかっただろうか。


 佐藤君も含めた何人かは誰かを嘲笑している向きがあった。実際のところはわからない。今や私は扉に耳をピタリとつけた。心臓は今や十二気筒エンジンと化し、ドックンドックンビートを刻む内燃機関を宥めながら聞いていたとはいえ、面と向かっていたわけではないから。

 

 ううん、バカにされていると思いたくないだけ。


 実際のところ、私はからかわれていたに違いない。それは佐藤君も同じかもしれないけれども、私のことを騙したという点で私とは違うといっていい。


 佐藤君は罰ゲームで私に告白してきたのだから。


 しばらくの間、男子生徒連中の話を耳にしていたが、だんだんと聞こえなくなっていった。話すことも尽きたのか、それとも私に聞かれているというのを何らかの方法で知ったのか。とにかく、どこかへと去ってしまったらしい。


 口からため息が漏れた。それはひどく重苦しくて、ちょっぴり苦かった。


 私は冷たい扉から離れて、ベンチへ戻る。


 物語に没入しようと文章の層に目を落とした。


 数行読み進めて、私は気がついた。


 白い紙の上に綴られた文章は、今まさに体験したことと一言一句違わなかったのである。




 ――のである。


 今読み返してみると、この本には私が体験したことがそっくりそのまま書き記されていた。


 少女がフラクタル・ラブという本を図書館で借り、屋上のベンチに腰掛けて本を開く。そうしていたらクラスメイトから告白を受け、その告白はゲームであるということを知る。


 奇妙な一致だった。もはや、ここまで一致してしまうと偶然とはいえないのではないか。


 例えば、予言の書だったりして。


 期待を込めて本のページをめくってみる。そうすれば、私の未来が記されているかもしれないじゃないか。私のじゃなくてもいい、多くは望まないから、数字記入式宝くじの一等の番号か有馬記念の一着から三着の名前を教えて。


 しかし、最後のページにあるのは空白。何もない。混じりけのない純白のページがあるだけ。小さな本の中の未来から過去方向へと遡っても、真っ白のページは続いていた。


 最新のページへ戻れば、物語の主人公がフラクタル・ラブという小説の異常性に気がついたところ。


「やっぱり、リンクしてる……」


 呟けば、真っ白だった部分にシミのようなものが浮かんできて、文字となった。カギ

カッコつきの言葉は私が発した言葉と等しく同じ。


 現在進行形で続く文章。


 物語の存在しないページ。


 考えるに、物語は今まさに紡がれているのではないか。だとしたら、私がこのように考えているということは、物語の中の少女も同じように考えているに違いない。


 音も姿もない魔法の羽ペンによって、空白に文字が浮かび上がってくる。それはやはり、私が思った通りの、上記のような文章であった。


 私はしばらくの間、どこからともなく生まれてくる文章を目で追っていた。


 ふと、思ったことがある。この奇妙な小説のタイトルは、こういうことだったんじゃないか。つまり、「フラクタル・ラブ」を読んでいる私と、「フラクタル・ラブ」の登場人物である「私」とがフラクタルな関係にあると。


 私が「私」を見ている。


 本という二次元に存在する「私」を、今ここにいる私が覗き見ている。そういう意味でフラクタル。


 だとしたら、である。


 本の中の「私」もまた本を読んでいるわけだけども、小説内にいるのは「私」なのだろうか。例えるなら「私」′といったところだろうか。だとしたら、どうにも薄気味悪く感じてしまう。


 私は「私」を見ており「私」は「私」′を見ており「私」′は「私」″を見ている……。

 

 合わせ鏡の通路を歩いているときに左右を見たときのように、私という存在が無限に存在し直線をなしているのを想像するだけで、妙な胸騒ぎとふわふわとした感覚に苛まれてしまうのだった。

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