(5) ボドワンで過ごす最後の日
「リディ、シスター、今いいか?」
今日は孤児院に泊まると言っていたポール。彼は村長様の家から戻ってくると、少し慌てていたようだった。
「お帰りなさい、ポール。ちょうど片付けが終わったところなのよ」
私たちは夕食の片付けを終えたところだった。人数が多いけれど、食事自体は少ないので、食べ終わるのもすぐだ。ポールが村長様の家に行って、それから修道院に戻ってくるまで。それほど時間がかかったわけではないのだけれど、それでも食事も後片付けも終えているのだから、本当に量が少ない。……この量で満足できるなんて、おかしいと思う。でもいつも食べていた量なのだと納得する自分がいてなんだか変な感じだ。
「こんばんは」
「あ……」
……軍師さんだ。なんだかこの人は底知れないというか、よくわからない人なので苦手である。
「突然で申し訳ないのですが、お話をさせていただいても……?」
「……シスター?」
「……構いません。万人を受け入れるのがこの修道院です」
シスターはそう言うと、歩みを進めた。夕方に話をした応接室に向かうのだ。子供たちは興味津々と言ったようにイヴォンを見つめているけれど、近付いてこない。ボドワンにはいないタイプの人なので、警戒しているのかもしれない。
「……上品な方ですね」
「ハイ。でも、シスターはすごく優しいんですよ」
「私に敬語を使ってはいけませんよ」
シスターを褒められたことが嬉しくてそう言うと、いきなり注意を受けた。やっぱりこの人は、私も苦手。私がシスターの後に続き、その後ろに軍師さんとポールが続く。ポールが一番後ろなのは、身分という物の関係なのだろうか。
「どうぞ、腰かけてくださいませ」
「ありがとうございます」
席順は昼間と大差ない。私が左奥、その隣にシスター。向かいに軍師さんが座り、ポールはやはり立ったままだ。今日は食事の時以外は、立っている所ばかり見ているけれど、疲れていないのだろうか。騎士団に入ったのなら、足腰が強いのかもしれない。
「デュノアから連絡を受けましてね。王女殿下が王都へ行くとご決断なさったと」
「……そうですか」
シスターは一度、視線を私の方によこし、それから短く言葉を漏らした。シスターはあまり驚いていないようだ。予想していたのだろうか。
「好奇心の強い子です。頭もいいので、都に出たほうがいいのではないかとも考えていたのですが……。そうですか、自分で決めたのですね」
「シスター!?」
やはり気づいていたのだ。でも、シスターが私のことを考え、そうするべきと考えていたことは少し意外だった。いつも私たちのことを考えてくれる人だというのに、心のどこかで、それがシスターの仕事だからだと思っていたのだ。だから、私たちにとってのお母さんだと思っていても、それを求めるべきではないとも思っていた。私たちは孤児なのだから。
「ご理解いただけるのですね」
「王族という話ではありませんよ。ですが、リディが自分で決めたことならば背中を押す他ありません。この子が大きな責任を背負うことは心配ですが……」
私はいま、シスターに心配をされている。……心配をかけている。心配をかけているという申し訳なさと、心配されるという嬉しさ。理解してくれるという嬉しさと、手放される歯がゆさ。なんとももどかしい感情が生まれる。
やっぱりシスターは、私のお母さんだ。
「ご理解ありがとうございます。代わりと言っては難ですが、道中、それから旅路を終えましても、王女殿下のことは命をかけて守りましょう」
軍師さんがシスターに頭を下げる。私の前で、二人の会話が繰り広げられている。……おかしい。
「二人だけで話を進めないで」
決断したのは私なのに、シスターとばかり話さないでほしい。私にも、教えてほしい。私のことなのだから、私にも話すのが筋だと思う。
「これは申し訳ありません、王女殿下」
軍師さんがおどけているように見えて、少しだけ気に入らない。私が王都に行くと決めたことで機嫌がいいのだろうか。チラリとポールを見ると、小さな動作で手のひらを見せていた。押さえろということか、落ち着けということか……。
「私もシスターも、王族という話には納得していないわ。だから名前で呼んで」
「わかりました。それではリディアーヌ様」
「様もいらないんだけど……」
私が不満を漏らすと、軍師さんは首を振って拒否した。私は王族なんて認めないと言っているのに、軍師さんは私を上に置こうとしている。
「リディアーヌ様、一刻を争う状況です。明日は準備もありましょうが、明後日には出発したいのですが……」
「余韻もないのね」
つまり、明日が、皆と過ごせる最後の日ということになってしまう。
「申し訳ありません」
「いいの。自分で決めたのだもの」
決めたことには責任を持つつもりだ。自分が王族だとは思わない。それでも、彼らは王族が必要だから、私を担ぎ上げたいんだ。そうしないと、この国がなくなってしまうという、隊長の言葉を思い出した。ボドワンが、大変なことになってしまう。
「あの……」
「なんですか、デュノア」
おずおずと。恐れ多いと言いたげに、ポールが口を挟んだ。私に対してじゃない。たぶん、軍師さんに対して。ポールが私に遠慮するわけがない。遠慮したら私もさすがに悲しくなってしまう。
「リディが王族なんて、村の者が知ったら騒ぎになります。正直、村を出ることも難しくなるかと……」
「そうですね……」
軍師さんは少し考え込んでいる。というか、ポールの敬語にすごく違和感がある。やっぱり私にはいつものポールのほうがいい。今後ポールが私に敬語を使うのだろうかと考えるとうんざりしそうだ。
「では、まだ王都で何があったかも伝わっていないのですから、珍しい光なので王宮に召し抱えるということにしましょうか」
そういえば予知は王族の証だと言っていただろうか。事実同じ光を持つ人がボドワンにはいなかった。
「……マリーだけは、話してもいいかしら?」
「マリー……昼間の彼女ですね? シャノン辺境の姪だという……」
軍師さんは何事か考えるようにうつむき、それから表情を緩めて、頷いてくれた。
「構いません。むしろ、シャノン辺境伯へは話を通したほうがよいと思っていたところです。私も同席させてくれますか?」
「え? ええ……」
何故軍師さんが同席したがるのだろう。そう思ったけれど、一応頷いておいた。王都に向かう以上、軍師さんの機嫌を損ねたくない。ひとまずマリーに教えることが許されてよかったと思う。マリーだけ仲間外れになんてしたくないもの。
「軍師さん、出発は明後日って、昼間では目立つのでは……?」
「イヴォン、もしくはフォルクレですよ。明後日の早朝に村を出ようと思います」
本当に、明日が最後の一日だ。明日は村中を歩こうと思う。それから、孤児院の弟妹ともいっぱい話そうと思う。
「……不安ですか?」
「ハイ。自分で決めたけど、やっぱり故郷から離れることになるから……」
軍師と言うだけあって目ざといのだと思う。先ほどから年上の男性に気遣われて気恥ずかしけれど、軍師――イヴォンは私のことをやたらと上に置こうとしている。と、何故かイヴォンは立ち上がり、私の横に歩いてきた。見下ろされていると思った瞬間には、彼はその場にひざまずいていた。イヴォンの長い金髪が、ランプの明かりを透かしている。伏せた目のラインに金色のまつ毛が並んでいて、綺麗な男の人だと思った。
「リディアーヌ様」
跪いたイヴォンが、私の指を取った。軍師と言うその人の指先は、麗しい外見に反して、少しかさついている。幼い頃によく繋いでいた、ポールと同じ手だ。武器を扱う人の指をしている。
「王都までの道のりは一週間ほど。事態は一刻を争い、安全な道ではなく、多少馬を急がせることになると思います。ですが我らが姫君よ、尊い御身は必ず、私どもが命に代えてもお守りいたします」
「っ」
指先にイヴォンの唇が触れた。まるで絵画を見ているような、まさに絵になる姿勢で、イヴォンは私の指先に口づけた。ポールは青ざめていて、シスターは手で口元を押さえている。こんなの恥ずかしくてたまらないはずなのに、私の頭の中は混乱していてそれどころじゃなかった。混乱とは裏腹に冷静な私が、騎士の礼を思い出す。記憶の中では尊重を意味する姿勢だと思ったけど、ベランジェールでも同じなのだろうか。私は今、イヴォンに尊重されている。……期待されている。
その日は一日、ポールと一緒に村中を歩いて回った。イヴォンやアルと一緒に歩くと目立つので、ボドワンを歩いても違和感のないポールがつけられたのだ。ポールは腰に剣を下げているけれど、辺境の民も森に入る時なんかに武器を持つので、ポールは剣を持っていてもおかしいとは思われない。
山の果実を味わったり、川の水を飲んだり、綺麗な石を探したり、ポールは私のやりたいことに付き合ってくれた。いつも三人でいたから、ポールと二人で遊んだのは、マリーと出会う前以来かもしれない。
朝、私を心配して、マリーは修道院に来てくれた。朝食後すぐで、ポールも居合わせたので、一緒に報告したのだ。私は王都に向かうと。マリーは何も言わなかった。ただ、目を見開いて、何度か口を開けたり閉じたりを繰り返して、それから踵を返した。
「家に戻るわね」
固い口調で、マリーが何を思って口を開いたのか、何を言いたかったのか、私にはわからなかった。嫌われたかもしれない。心配されているのかもしれない。泣いているのかもしれない。
何もかも新鮮に感じていたはずの辺境で、私はこの村に想像以上の愛着を持ってい
ることに気が付いた。正直、離れることが不安で、寂しい。明日のこの時間には村にはいないのだと思うと、胸の中で何かがざわつく。そのざわつきはマイナスな感情なのか、プラスな感情なのか、それさえもわからない。
私は生まれてからずっとボドワンにいた。大学も自宅通いで、引っ越しの経験もない。就職なんかで地元を離れた同級生も、同じ気持ちだったのだろうか。
「―――、どうした?」
「え?」
「ボーっとしてるからさ。大丈夫か?」
「あ、ハイ。大丈夫よ」
一瞬里穂って言われたのかと思った。そんなわけがない。このベランジェールで、私はリディアーヌだ。ポールは、私をリディと呼ぶ。どっちも“り”から始まるから、なんとなく思考に耳がだまされる。
「軍師殿が驚いてたぞ。辺境の村出身なのに、行儀がいいって。修道院とマリーのおかげだな……あ」
朝の一件を見たからか、ポールはマリーの名前を出さないようにしていたらしい。そんな気遣いいらないのに。それに、そんな気遣い、なんだかポールらしくない。
「……そうね。シスターと、マリーのおかげね」
私が笑うと、ポールはバツが悪そうに頬を染めてそっぽを向いた。訂正。気を遣って失敗するところはすごくポールらしい。
「マリーってね、私の髪を整えたりするのがすごく好きなの。いつも私の髪を綺麗にすいてくれていたのよ」
食事の方法とかは孤児院でも厳しく教えられていたけれど、肌や髪を整える香油は貴族の家にしかない。マリーは私の髪を香油で整えて、髪を結うのが特に好きで、おさがりの服を私に着せて遊んだりもしていた。
「そっか」
見上げる空は水色だった。青みの薄い空の色に冬の気配を感じ取る。水はとても冷たくて、草木の色はだんだんと褪せていて、空気は徐々に湿り気を失っていく。朝晩に吐く息が白くなっていて、王都へ急がせる軍師さん達の様子に妙に納得した。
「……今日で、最後なんだね」
「他に見るとこあるか?」
「ううん。ないよ。村を全部見たもの」
今日見た全部の景色にポールがいたことが嬉しい。けれど、今日見た全部の景色に、マリーがいなかった。
「お前、王族って認めないって言ってたけど、多分担ぎ上げられるぞ」
「……でも、王子様も王女様もたくさんいるんだよね?」
何人いるのかは知らないけれど、王様は子供を作るのも仕事なので、子供がたくさんいるらしい。第一王妃様の話をしていたということは、王妃様は他にもいるのだろう。複数の奥さんに複数の子供を産ませたら自然と子供は多くなってしまう。そのあたりは一夫多妻制なら珍しい話ではない。インド出身のタレントの帰省で、十何人兄弟でまだ幼い弟がいるなんて話も見たことがある。……わが身に当てはまるなんて考えたことなかったけど。
「いることはいるけど、継承権を持つ王族で自由なのはいない」
「継承権? 王様の子供ならだれでも持っているものじゃないの?」
継承権の順番とかは物語でも見たことがあるし、歴史で調べたこともある。だから比較的知識はあるつもりだけど、ポールの言い方では王族でも継承権の有無が分かれているらしい。
私が首をかしげていると、ポールは一度周囲を見渡して、それからその場にドカリと座り込んだ。小石を拾って地面に何か書き始めたので、私もしゃがんで彼の手元をのぞき込む。
「えーっと、俺もあんま詳しくないからな?」
ポールはそう前置きして、ガリガリと地面に数字を書いていく。1,2,3と数字が書かれ、1を石で突いている。
「王族の中でも、継承権が与えられるのは、第一王妃様の子だけで、第二王妃様と第三王妃様は未来の王族の伴侶を生み出すのが仕事らしい。後は外国や国内に降嫁させるため」
そういえば第一王妃様も王族出身と言っていた。つまり生まれは、第二王妃、第三王妃の系譜と言うことだろうか。それとも第一王妃の子供のうちのいずれかだろうか。生まれなんて選べるものでもないというのに、国内の情勢や外交を左右するなんて、王様の子供と言うだけでずいぶんな付加価値だ。背負う責任も相応なもので、少し理不尽に思えてくる。
「で、軍師殿にボドワンに来る途中に教えてもらった情報によるとだ。今自由な王族……正確には、国王のご子息は三人いる」
「他の人はみんなつかまっているのね?」
ポールは指を三本立て、私の質問には頷いてくれた。
「一人は国王の第一子で、第一王妃様の子で、長男だけど、何年も前に継承権を放棄した。今は騎士団に所属しているし、王子と言うよりも騎士だ。もう一人も一緒。第二王妃様の子で、こっちは元から継承権もないけど、第一王子と仲が良くて、騎士団に所属してる。で、もう一人も第二王妃様の王子。こっちは寄宿学校にいるから、難を逃れた」
なんで第一王妃様の第一子の長男が継承権を放棄したんだろう。何か瑕疵があったとか、そんなことしか浮かばないけど、考えたところで今ここで真相は分からない。
「他の方は?」
「殿下が十人兄弟って言ってたから、他の王子王女が七人で、三人を除いて皆捕えられたらしい」
「……絶望的だね」
第一王子がいるなら、旗頭になれるのではないかと思うけれど、軍師さんが時間をかけて辺境まで来たということは、ダメなのだろうか。状況をまとめると、本当に一刻を争う事態だ。国王は殺されている。継承権を持つ王族は全て敵の手に落ちている。……十人兄弟ってすごいのに、そんな状態になったのか。
「……継承権を持つ人がいなくなったら、どうなるの? 第一王子様の継承権の復活とか、第二王妃様のご子息が継承権を持つことは出来ないの?」
私が第一王妃様の子なら、継承権を持っているということになる。だからイヴォンは私を担ぎ上げたいのだ。第一王妃様のご子息が誰もいなくなったとして、次に王になるのは第二王妃様の子と言うのが私の考えだけれど、イヴォンが辺境に来たことを思えば、それが難しい気もしてくる。
「第一王子は誓いを立てたんだ。だから、継承権の復活はあり得ない」
「そうなの」
この世界で、“誓いを立てる”とは、“神への宣誓”を表す。決して違えることのない誓いのことだ。私は孤児院で過ごしているので、一般の浸透がどの程度かはピンとこないけれど、ポールが当たり前のように語っているのだから、宗教ありきの世界なのだと思う。つまり神への誓いは、日本人の里穂が理解できない、敬虔な者の行う決意ということだろう。昔の武士で言うところの
「もし、継承権を持つ王族がいなくなっちまったら、国が亡ぶんだと思う。少なくとも、継承権が移行するなんて話は聞いたことがないし」
ポールは俯いたままこちらを見てくれない。目をそらそうとしているのだと思う。そんな様子のポールは、まるで私の知らない人みたいだ。辺境にいる時の彼は、ここまで難しい言葉を使って話すような人ではなかった。王都に行って、ポールの世界は広がったのだと思う。きっと、私の世界も広がる。
「……イヴォンは、気を遣ってくれたんだね」
本当はすぐにでも王都に向かうべき事態だ。だというのに、イヴォンは私に一日だけ猶予をくれた。
「軍師殿な。正直、お前にめちゃくちゃ期待してるぞ。敵にしてはいけないって言われてる人が、あんだけ人の味方って宣言してるの初めて見たよ」
「そうなのね……」
なんとなく苦手な人だったけれど、少しだけ信じてもいいのかもしれない。そんな気がしてくる。少なくとも、ポールが擁護しているのだから、私の敵ではないだろう。イヴォンのことはよく知らないけれど、ポールのことは信用できる。
「ポール、王都まで、よろしくね」
「おう。まかせとけ」
ポールは一度手を払ってから、私の頭を撫でてくれた。きっとこんなやり取りも、もうすぐできなくなる。
夕食はまるでお祭りみたいに豪華だった。村中の人が修道院に集まって、皆でご飯を食べた。食材は村人が持ち寄ってくれて、肉も野菜もたくさんあった。友人もみんな集まって、別れを惜しんでくれ、私はボドワン最後の一夜を村の皆と楽しんだ。
……マリーは、来てくれなかった。期待しなかったと言えば嘘になるけれど、十年以上一緒にいた大好きな幼馴染が、私のことを嫌いになったりしないと信じている。それでも不安になってしまうのは、寂しいからだ。ポールと話して、国に対する印象が少しだけ変わった。このまま会えないままだと、私達の距離が開いてしまうのではないかと、不安なってしまう程度には、危機感が目前に迫っているように感じてしまう。
(会いに来てくれないと、側にいられなくなっちゃうよ……)
どれだけ否定しても、私は王族として担ぎ出されてしまう。予知よりも確かな予測だ。ベランジェールの王族がどれほど厳格なのかはわからないけれど、血を引いているだけでは継承権が得られないようなので、それなりに厳しいのかもしれない。そうなると、いったいどうやってマリーと会えるというのだろう。ポールに会うにはどうしたらいいのか、考えることが山積みだし、誰かに……少なくともイヴォン達に相談していいことかはわからないし、ポール達本人にも相談できない。
「あれ?」
食堂から明かりが漏れている。宴は既に終わって、皆家に帰った。食堂は最低限の片づけを済ませて、明日私が出て行った後の孤児院の皆が協力して行うことになっている。すでに私は頭数に入っていないことが少し寂しいけれど、子供たちは明日に備えて眠ってしまったので、明かりが灯っていることはおかしいのだ。火の不始末ならばもったいないし、様子を見なければならないだろう。
「あれ、シスター?」
食堂をのぞいてみると、見慣れた黒衣の女性がいた。黒い法衣は修道女の特徴で、これを着た者は、全ての柵から解放され、いかなる権力の干渉も受けず、ただ国と神のために尽くすことになるのだという。だからシスターはイヴォン達にも毅然とした態度で語ることができた。
「まぁ、リディアーヌ。眠らないのですか?」
「明かりが見えたんです」
眠るように叱られるかと思ったけれど、そんな空気は感じない。なんとなくシスターの隣に、吸い寄せられるようにして席に着いた。ふわりとせっけんの匂いが香ってきて、お母さんの匂いだなと、頭の片隅で考えた。温かい気持ちになる匂いだ。
「そうでしたか。でもちょうどよかったかもしれませんね」
シスターの手元を見ると、膝の上に布を敷いて、何かナイフで削っているようだった。テーブルですればいいのにと思ったけど、手元に引き寄せて木を削るには、膝の上の方が都合がよかったのだろうと考え直す。シスターは木彫りに穴をあけると、革ひもを通した。
「リディアーヌ、最後に一緒にお祈りをしましょう。礼拝堂に参りますよ」
「ハイ」
毎日お祈りの時間があるけれど、実のところ私はあまりお祈りの時間が好きではない。孤児院の中に歳の近い子がいなかった私は、お祈りの時間に束縛されて、マリーたちと遊ぶ時間が減ることが好きではなかったのだ。
シスターが今まで使っていた明かりを持って、一緒に礼拝室へと移動する。シスターは祭壇の前に跪いて祈りを捧げる。私もそれを真似て跪き、指を組んでとりあえず道中の無事を祈った。困った時の神頼みみたいな心境だ。
「リディアーヌ、立ち上がって目を閉じなさい」
「ハイ、シスター」
言われるままに立ち上がり、祭壇の前で向かい合う。目が合うとシスターはゆっくりと頷いたので、促されるままに目を閉じた。目を閉じていても、シスターが動く気配は感じる。首元に何かが触れている。紐のような物を首にかけられたらしい。
「目を開けて?」
「……これは?」
私の首には、紐に繋がれた木彫りの人形のような物がかけられていた。これはいったいなんだろう。
「我が国が信仰しているソル神の木彫りですよ」
ソル。この大陸の名の由来となっている神で、特にこの国ベランジェールで信仰されている神でもある。
「シスターが木彫り作るなんて知りませんでした」
「少し不格好ですが、これは大切な人に送るお守りなのですよ。ソルは深い情愛を表す神でもありますから」
「大地の神なのに?」
ソルは大地の神だ。神話とか聖書とか、あんまり読んだことがないから詳しくはないけれど。私が好きだった本は、詩や伝記ばかりだった。そういえば、物語というものを見たことがない。もしかしたら、今物語を書けばベランジェールの紫式部になれるのだろうか。
「せめてミサの話くらいは、聞くようにしなくてはいけませんね。リディアーヌ、信心深くなりなさい。この国に暮らす民は、皆ソルに育まれているのですから」
「ハイ」
信心深く。私は小さい頃から、マリーやポールと一緒にいるほうが好きだったから、まさしく縁のない話だ。そういえば私がいた日本って、宗教を捨てさせる国なんて言われていた気がする。美味しいものが多いっていうジョークだと思うけど。そんな国に生まれたなら信心深いというのに納得できなくてもしょうがない気も……。
……いやいや、私はリディアーヌなんだから、里穂は関係ないでしょう! やっぱり私と言う人格が定まらない気がする。
「……シスターは昔、王都にいたんですよね? どんなところだったんですか?」
「そうですね、賑やかなところでしたよ。私を慕う妹のような女の子も二人いました。毎日三人で、教会や修道院への寄付を募り、恵まれない方のためになりたいと言っていたのです」
「それで、修道院に入ったのですか?」
「ええ」
「ほかの二人も……?」
「……ほかの二人は、私よりも恵まれない方に貢献しているかもしれませんね」
シスターの微笑みはどこか寂しそうだった。私にはそれがなぜなのかわからないけれど、悲しみや自嘲の様な物ではないと思う。思えば、シスターの昔話を聞いたのなんて初めてだ。柵の全てを捨てた修道女の過去なんて、なかなか聞くことができない。
「王都に行ったら、そのお二人に会えるでしょうか?」
「……会えますよ、きっと。……きっと」
シスターは優しく笑い、目を閉じた。
「ソル神の加護があらんことを……」
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