(4) 理性と好奇心
「クシッ」
ボーっとしていたらくしゃみが出た。何となく修道院の中にいたくなくて、丘にやってきていたのだ。こんなの川で遊んで、びしょ濡れで帰ってシスターに叱られた時以来かもしれない。幼い時みたいな、居場所をなくした気分だ。
丘から村を見下ろすと、ぼちぼち窓の戸から明かりが漏れ始めている。もう薄暗い時間だから当たり前かもしれない。蝋燭の明かりなんてこの丘から見えるはずがない。昔領主様が作らせたというランプが、光を拡散するデザインになっているのだ。マリーたちはすごいと言っていたけれど、私からすると今まで気づかなかったことが不思議だ。ランプに使うガラスを白い半透明のガラスに変えただけなのだから。懐中電灯にスーパーのビニール袋をかぶせるのと同じ原理である。
(……やっぱり、里穂の記憶がある)
ポールと再会して、久しぶりに幼馴染が三人そろった。三人のやり取りが楽しくて、私は一瞬里穂を忘れた。けれど、変な話を聞かされて、自分が自分ではないように感じた時、強く感じたのは里穂だった。
「でも……」
私はこの村で十五年過ごしてきた。ポールやマリーと仲良くなった、ボドワンで過ごした十五年だ。孤児院から自立した兄も姉もたくさんいて、今孤児院で私を慕ってくれる弟も妹もたくさんいる。どこで誰に生み落されたのか、まったくわからなかったけれど、今の私を作った十五年だ。
「……やだ」
何故か涙が浮かんできた。孤児院の家族を思い出す。領主様たちが気にかけてくれていたとはいえ、里穂の生活が贅沢に感じるほどに質素な暮らしをしてきた。皆で一緒にだ。その私が王女なんて、悪い冗談みたいな話。
毎朝鏡で見ていた癖のある短い髪。それとはまったく違う、癖のない長い黒髪。どちらの私を見ても、いつもの私と思いながら、私ではないという違和感が付きまとう。だというのに、今私はそのどちらも否定されてしまった。陳腐な表現だけど、迷子になった気分だ。
「っ……?」
不意に、視界に全く違う景色が映り込んだ。予知だ。いつも予知は突然見える。肖像画の並んだ、石造りの廊下。うすぼんやりとした明かりを頼りに歩いていたと思う。どの肖像画も王冠をかぶっていた。つまり、王様の肖像画……? 私は王都に行くことになるのだろうか。予知は未来の私の視点が見える。だから、映り込んだ景色は全て、私がいつか見ることになる景色なのだ。
「リディアーヌ様」
耳なじみのない敬称が付いた自分の名前が聞こえた。振り向くと、そこにはあまりしゃべらなかった隊長さんがいた。夕方の冷たい風で、彼の襟足で結ばれた赤い髪が揺れている。
「……隊長さん」
「名前も名乗らずに申し訳ございません。『アデラール・フリムラン』と申します。アルとお呼び下さい」
「アルさん?」
私がそう呼ぶと、彼は一瞬言葉を詰まらせ、眉がピクンと動いた。無表情ではないけれど、表情の変化が小さい人だと思う。
「どうぞ、呼び捨ててください」
無口だと思った彼は、以外にも気さくらしい。それとも、私がさん付けで呼ぶのは、都合が悪いのだろうか。
「突然押しかけてこのようなことを、申し訳ありません」
……まったくだわ。と言えたらどんなに楽だろう。私は彼に口答えなんてしない。私は王女じゃなくて孤児だ。彼に口答えして許されたら、王女だと認めるみたいで悔しい。
「陛下の話を、どう思いましたか?」
「腹が立ちました」
当たり前だ。思い出すと、先程までの悲しい気持ちが怒りに変わる。どちらも自分の子として許容することはできなかったのだろうか。私にとって親はシスターだけど、それが覆されるとは思ったこともなかった。王様がそんなことをしていいのだろうか。
自分のことと言われながらも冷静に相手を批判できるのは、どこか他人事だからだろうか。未だに私には王政というものが遠く感じる。里穂にとってそうだったからだろうか。すくなくとも、里穂にとって、君主は政治を舵取る人物ではなかった。
「いっそ死んだなら……」
清々した。その言葉は出てこなかった。小さな頃から、シスターに人の不幸を軽んじることのないように言われている。どんなことにも理解と慈悲を示せと。そんなもの示したくない。それでも、遠くにいる誰かを、物語の悪役のように扱ってはいけない。何を言っても許される相手なんて、いるはずない。
「……お優しい方ですね」
「違う!」
言えなかった言葉も、飲み込んだことも見破られたけれど、それでも考えた時点で優しいわけではない。それとも王族と言うのは、そんな言葉を聞かせないだけで優しいと言われるような存在なのだろうか。国王に対しては、他人事ながらに嫌悪感も持っている。殺されたと言っても、何も感じない。少なくとも、画面の向こう側で見る遠い悲劇のような物だ。
実の両親に対しては複雑な思いがあるけれど。思い出すのは優しい笑顔の父と、あまり笑わなかったけれど、細かいことに気がついた母。記憶のそれと、私の今までに矛盾が生じる。
「……国王陛下なんて大っ嫌い! いつだって辺境に目を向けず、自分の子供のことばっかりだもの。王様なのに、自分の国も他の国も顧みないから、殺されるのよ」
悔しくてたまらず、憎まれ口をたたく。国王陛下の部下に、優しいなんて思われたくはない。外交は私にはよくわからない。けれども、結婚以外で歩み寄る手段はなかったのだろうか。
「結果、自分はまっさきに殺されて、その大事な子供たちを救うこともできないんじゃない!」
私が王女かどうかはさておき、捨てられた私と、選ばれた王女がいるのなら、その王女は大切にされたのだろう。けれども王は死んで、その子を守ることもできない。そしていまその尻拭いに、捨てられた私が祭り上げられそうになっている。なんて滑稽だろう。
シスターは優しい人だけれど、私たちのために戦ってくれる人だった。この辺境で力を持っているのはマリーの家だけれど、彼女の家はいつも周辺の村々を気にかけてくれていた。偉い身分の人なのに、己の家族以外も愛することができないのなら、認められるわけなんてない。
「おっしゃる通りです」
無言のままアルを睨むと、彼は視線を逸らした。彼の見つめる先には、明かりがともり始めた家々がある。彼は本来、これを守る騎士なのだ。
「侵略してきたのは、クロケです。北西の地が被害を受けました」
「クロケ?」
そんな国は―――ない、と考えてから、すぐに違うと気がつく。クロケは隣国だ。記憶の底から、必死に地図を引っ張り出す。普通こういう時代では地図は国家機密になると思うけれど、
「ゴダール……?」
北西にはゴダールという帝国がある。クロケ、ゴダール、ベランジェールの三国は国境で隔てられた隣国だ。私は詳しくないから、噂話からの推察になるけれど、この三国は仲が良くない。けれど近年はゴダールとベランジェールが姻戚となって、不可侵の条約が結ばれたという。隊長のアルが言うからにはクロケの関わりは確かな情報なのだろう。
「クロケと、ゴダールが……?」
思わず呟くと、アルは驚いたように目を丸くしていた。
「……本当に、王族ではないとお思いですか?」
「え?」
「随分と聡明のご様子で驚きました。辺境では流石に地理もあまり入念に、学ぶことはできないと思っておりましたので……。実際にデュノアは計算と字が書けるだけましで、辺境出身の兵には字が書けない者も多い」
敵国が他国の領土から攻め入ってきたのなら、当然手を結んだと考える。しかし辺境で地理は村の周辺しか教えない。私は、たまたま修道院の廊下に貼り付けてある、世界地図を見て覚えていただけだ。だから何もすごくない。少なくとも、聡明と言われるような知識をひけらかしたつもりはない。
「血が、そうさせるのでしょう」
……どこかの私が、そんなのおかしいっていう。勉強だけなら本人の努力だ。血なんて関係ない。それを知る私が、しょうがないという。血が関係ないことを知っていても、血が関係しているという考えを容認する。
「偶然、です」
「では兵法を学んでもいないような孤児が、なぜ襲撃されたという話の直後に、他国を気にするのですか?」
「そんなの、勉強しなくても分かります」
クロケとゴダールが手を結んだとしたらそれは何故か。おそらくゴダールとベランジェールの不可侵条約が原因だろう。ずっと仲の悪かった三国のうち、二国の距離が縮まったのなら、残る一国は邪魔しようとするはずだ。クロケがゴダールに接近して、何事か囁いたとして、それは何だろう。正式に交わした条約があるのに、その条約を破ってでもクロケに着いた。その理由は分からない。情報が足りない。
「……試すような真似をして申し訳ございません。ですが、思いのほか情勢に詳しく驚きました」
私の想像を聞いたアルは、少し疲れたようにそう言った。持っている情報だけで考察したに過ぎないので、何か私に見えない事情があればこの前提は崩れてしまう。だというのにしきりに感心されるので居心地が悪い。
「マリーと仲がいいから、貴族が知っている噂話を少しだけ知っているんです」
「そうですか……。侵略の手が進めば、この辺境も危うく、搾取され続けることは肝に銘じていてください」
そうだろう。戦争に負けて、植民地支配を受けた国の歴史を、私はいくつか習ったのだ。東がどれほど抵抗できるのかわからないけれど、王都が侵略者の手に落ちているのなら、きっと侵略の手が伸びるのも時間の問題だろう。今平和なボドワンも、いつ戦渦に巻き込まれるか分かったものではない。
「……私、修道院に戻ります」
言い返す言葉が浮かばなくて、私はその場を立ち去った。
先ほど飛び出した修道院に恐る恐る足を踏み入れる。隊長のアルが去っていたように、軍師さんもすでにいなかった。私は安心しながら、暗い廊下を歩く。そろそろ夕食の時間だろうか。暗い廊下を一人で歩くと心細い。
(子供だなぁ……)
さっきは知り合いに会いたくなかったのに、今度は会いたくてたまらなかった。何となく落ち込んだ気分で、慰めてほしい。お父さんの笑顔、お母さんの気遣い、シスターの暖かい掌。それらが欲しかった。
「ポール! 今日泊まっていくの!?」
「やったぁ! ねえねえ、遊んでくれる?」
ふと、前方からほのかな明かりと共に、にぎやかな声が聞こえた。孤児院の子供たちが、久しぶりに村に帰って来たポールにまとわりついていた。マリーが遊びに来た時もそうだけれど、孤児院の子供たちは大抵年上に遊んでもらうのが大好きだ。私はどうだっただろう。小さい頃、家の近くには同じくらいの子はいなかったけれど、言うほど年上もいなかった――いや、それは違う。ポールとマリーがいた。私はその二人と遊んでいたのだ。修道院は学び舎でもあって、私や村の子供たちは、シスターや村長から文字と算術の基礎を教わっていた。孤児院の子供は多くいるけれど、五年前の流行病でボドワンの子供の数は随分と減ってしまった。また、それによって孤児になった子供もいる。子供たちにとって、ポールは頼りがいのあるお兄ちゃんだったのだろう。戻ってきてはしゃぎたい気持ちもわかる。
「あ……」
ただ黙って、はしゃぐ子供たちとポールのやり取りを見ていたのだけれど、ポールがこちらに気づき、なんとなく気まずい空気が流れる。さっきの応接室のやり取りで、ポールとはほとんどしゃべることができなかった。
「へぇ~」
「え?」
無言で視線を交わしていると、少し年長の弟分が何かを察したらしく、こちらを見てにやけ笑いを浮かべている。
「リディとポールってばそういうことなのかぁ。俺らあっちで遊んでるから、邪魔してごめんね!」
「へ?」
ポールはきょとんと目を丸くして……あ、赤くなった。
「俺らも久々にポールに会えて嬉しいけど、そうだよなー、久々に会えて嬉しいもんなー!」
「ち……ちがっ」
「皆、あっちでシスターの手伝いしようぜ! ほんでポールに褒めてもらおう!」
えー。とか、やだー。とかいう子供たちの手を引いて、この場を去っていく弟分のおかげで空気がずいぶん和んだように思う。からかわれるのはマリーがいないからだろう。いつもは三人で一緒だったから。
「えっと、違うからな?」
「当たり前でしょ」
「へ?」
ポールは真っ赤な顔をしているけれど、私はさして気にしない。男女が一緒にいたらこれくらいの勘繰りはよくあることだ。
「会えて、嬉しかったのは本当」
私がそう言うと、ポールが呆れたように笑ってくれた。ぶっきらぼうだけど、優しい。懐かしい眼差しに心があったかくなる。……そっか。私さっきまで落ち込んでいたんだ。
「たく……。からかわれて、照れくさくないのかよ」
「二人でいたらよくあることでしょ。ほら、シャルルとポレットが、いつもからかわれていたじゃない? でも二人共、それぞれ恋人ができているみたいなのよ」
「え、誰だよ」
彼はずっとこっちにいなかったから、こういう情報は新鮮なのだろう。騎士になったら、ちょっとは硬派になっているかも、なんて考えていたのだけれど、やっぱりぶっきらぼうで平凡な男の子だ。シャルルとポレットは私達と歳の近い男女で、ポールやマリー程に一緒にいたわけではないけれど、やっぱり私たちの幼馴染だ。
「……さっきはさ、かばえなくて、ごめんな」
「ううん。騎士になったら偉い人の命令は聞かなきゃだもの。しょうがないよ」
それでもさっきは会いたくないと思っていたけれど、それは口に出さなかった。
窓の外を眺めると、鏡面になったように私とポールの姿が映し出されている。修道院の窓にはガラスがはめているので外がよく見える。遠くの家々には明かりがついているようだけれど、修道院は村のはずれにあるものだから、辺りは暗い。
「そっか。……なぁ、
「うん、全然制御はできないけれど。そういえば、一週間くらい前に、あの人たちが迎えに来るところ、ちょっとだけ見たの。忘れていたのだけれど」
それから、さっきも肖像画の飾られた、長い石造りの廊下を見た。でもそれはなんとなく言いたくなかったから、黙っていることにした。ポールといえば、私が
「そっか、お前が姫、ね……」
「違うって思いたいんだけどなぁ」
私がそういうと、ポールは眉を寄せて、申し訳なさそうな表情になる。昔は何をするにも不器用だったのに、騎士団に入って少し表情が豊かになったようだ。ボドワンでは私たちと一緒だったけれど、騎士団では同じ年頃の男の子とずっと一緒だったのだろうか。それはどんな人たちだったのだろう。いい影響を受けたのだろうか。
「俺はこれから、お前の絶対的な味方になれない」
「……うん」
私が姫になるのなら、という前提なのだろう。でも、違うものを比べた天秤は、そう簡単に釣り合うことがない。私の気持ちは一方に傾きかけている。まるで弥次郎兵衛の様に、シーソーで遊んでいる時みたいに、交互に傾いている。好奇心が理性を刺激する。理性が好奇心を刺激する。誰かに甘えたい気持ちが、私をボドワンに縛り付ける。どうしようもない不安な気持ちや、国王の話を聞いて、襲撃の話を聞いて、恐いもの見たさというような興味本位が私の心を王都へと向ける。軍師さんと話した時は、ボドワンにいたいと思ったのに、アルと話をしてからは、王都に興味を持ち始めている。少し離れて時間をおいて、頭が冷静になったからかもしれない。
「騎士団にさ、王族の方って何人かいるんだ」
「そうなの?」
「うん。お前と同じ髪の色の人とか、目の色の人もいる」
「そう……」
ポールは最初に彼らを見て何を思ったのだろう。黒髪はそうでもないと思うけれど、赤い目はとても珍しいのに。
「それで、王妃様にもお会いしたことがある」
「えっ」
驚いた。辺境の民にとって、王族なんて手の届かない存在だ。王様や王妃様なら余計に。王都に行った彼は騎士として垣間見たのだろうか。
「騎士団に所属してる王子殿下の内の一人が、俺と三つしか変わらなくてさ、年が近いから話しかけて頂いたんだ。それで、何度か鍛錬所に王妃様がいらっしゃって……」
ポールって敬語使えたのか。こんな丁寧な口調、ぶっきらぼうな彼が使うなんて思わなかった。王妃様が騎士団の訓練場に来るなんて、王都ってそんな感じなのね。
(どうしよう)
好奇心がうずく。王都と言う見知らぬ土地に対する好奇心が膨らんでくる。
「お前がもっと大人になって、髪が茶色になって、目が緑になって、少し髪型を変えたら……って感じ」
「それは……」
あまり似ていないんじゃない? なんて、遠慮がちなポールに応えようとした。けれど続きの言葉が出てこなかった。すぐに気付いたのだ。私を主体に話しているのだから、私に似ている前提があると。そんなに似ているのだろうか? 軍師さんとかが言うと誇張されているように感じたけれど、ポールが言うとよくわからない信憑性がある。王族から遠いからだろうか。私をよく知っている人だからだろうか。
「そう……」
お母さん……か……。浮かんでくるのは、少し白髪が混じった髪に不器用な顔。感情を表に出すことが苦手で、口数が少なかったけど、気遣いのできる人だった。高校受験の時のお弁当にトンカツを入れてくれたり、マラソン大会の時は、新しいフカフカのバスタオルでインナーを作ってくれたりした。その人と違うお母さんは想像ができない。
「私、一緒に行こうと思う」
天秤が、完全に傾いた。
「なん……で、だよ?」
ポールの問い掛けに思わず口角が上がる。その反応がただ嬉しい。
「王都、見てみたいの。世界を見てみたい」
「城に、縛り付けられるだけだぞ?」
味方になれないというのは、立場的な物を意味するのだと思う。彼は辺境出身の騎士で、王族に意見なんてできないから。けれども私の心がボドワンにあると思ってくれている。わかってくれている。
「そうかもしれない。でも、世界を視ることができるよ」
好奇心が疼いただけというわけではないのだけれど。よく考えてみたら、王様が死んだからって、御子息様が死んだとは限らない。だったら私が王になる必要はないかも知れない。
「……悪い。俺、お前を説得しろって言われてたけど、必要なくなってホッとしてる」
ポールの口から出て来た素直な言葉が少し不思議だ。彼はこんなに素直だっただろうか。
「嬉しかったよ。何でって聞いてくれたこと」
ポールは村を出たけれど、この村をちゃんと知っている。この村を大好きな私を知っている。
「私の家は、やっぱりここだけど、ポールと一緒だよ。私も王都に行きたいの」
「……そっか」
あ、また少しぶっきらぼうになった。
「じゃあ私、夕飯の手伝いに行くから!」
「え……」
それだけ言うとキッチンに向かった。燭台が灯されていないから、廊下はすっかり暗くなってしまった。こんなところでポールと話し込んでいたんだなって思うと、ちょっとおかしい。きっとシスターが美味しいご飯を作ってくれる。二十歳の私は簡単な料理しか作れなかった。でも十五歳の私はいろいろな料理が作れる。どっちが私なのかがわからない。それでも私は、私を心配してくれる人の、好意を信じていたい。
王都に行っても、ポールがいるなら大丈夫。
「俺と一緒って……。理解してんだか、してないんだか……」
後ろで小さくつぶやいたポールの声は、もう私の耳には届いていなかった。
嬉しいことに、今日の食事は豪勢だ。なんでも、少ないながらもポールたちが食料を運んでくれたのだとか。おかげで今日はスープに干し肉が入っているし、付け合せにサラダもある。
「ソル神の御心のままに……」
私たちは胸の前で印を切る。お祈りを終えたらご飯を食べてもいいのだ。日本でいうところの「いただきます」の挨拶である。
「リディ! ポールってデュノアおじさんに殴られたんだよ」
「そうなの?」
ポールは先ほど自宅に戻ったのだけれど、何故かすぐに修道院に戻って来た。頬を腫らしているのが不思議だったけれど、どうやらおじさんに殴られたらしい。
「……連絡ぐらい寄越しやがれ、バカ息子。だと……」
弟分が教えてくれたことに、隣のポールを見れば、不本意と言わんばかりの顔をしている。筆不精の自覚があるポールは、特におじさんに対して悪態をついていない。彼の不器用なところは父親譲りだ。サラダの野菜は間違いなく、デュノアおじさんの差し入れなのだから。息子が帰ってきたことは嬉しいのに、上手く表せなくて、せめて自分が丹精込めた野菜をたくさん食べて欲しいのだ。明日はちゃんと話せるといいんだけど。
ちなみに辺境にはサラダにかけるドレッシングなんてない。都にあるかどうかも微妙なのだけれど、大抵はそのままか塩とオイルをかけて食べるのだ。いわゆる焼肉屋の定番、塩キャベツ。それはそれで美味しいんだけどね。秋になると油を節約するようになるので、もちろん今日のサラダは何も味付けしていない。胡麻か、青紫蘇のドレッシングが恋しい。
「マリーも怒っていたものね」
「……お前は怒ってないのかよっ」
「だって、ポールが手紙くれただけでも進歩かなって」
ポールの筆不精は深刻だもの。今更追求したところで治らないと思う。
「ねぇ、ポール。食料、運んできてくれたのよね?」
「……うん」
城が襲撃を受けたのに、国が危険な状態なのに、辺境に食料が分けられた。それは本来ありえないことだ。彼らは私に期待している。正確には王族という存在に。
「うっまい! シスターのスープってやっぱりうまいよなー」
「まぁ、都ではもっと良い物を食べたのでしょう? 騎士なら体力が必要ですもの」
「たしかにモノは良かったけど、味が濃いし、辺境の方が無駄な味がしなくて美味いよ」
味が……濃い? 都会の方の
パンと、スープ。時々サラダ。孤児院では獣肉は時々手に入る程度だ。ポールが村にいたときは、割とおすそわけをもらっていたのだけれど、子供たちはまだ狩りが下手だ。だから出汁が出る物を具材として使うことも少ない。つまりブイヨンもコンソメも取れない。出汁抜きで、塩で味付けをして、具が入っているだけ。……ポール、流石にシスターをおだてすぎだよ。それとも本当に辺境の味が好きなのだろうか。でもポールは獣肉、特に鳥の肉を好んでいたはずだ。村を出たポールだけれど、辺境を恋しがっていたって思っていていいのかな?
「素材の味ですか。生命が生き抜いてきた味ですからね、美味しいのでしょう」
「そう……」
その場合は私たちのお肉も美味しいということに……。いや、それは考えると気持ち悪い。
「ねぇ、ポール。この後は予定あるの? 話ができたら嬉しいのだけれど……」
「あ、悪い。軍師殿と隊長に報告があるから、村長様の家に行くんだ……」
「そう……」
それは、私が王都に行くと決めたことだろうか。そういえば、シスターにはまだ言っていない。……心配、してくれるだろうか。あるいは、心配をかけることになるのだろうか。
「ごめんな」
「ううん、いいの。お仕事だもの」
ポールは味方になると言ってくれない。それは宣言したとおりなのだから、仕方がないことなのだ。……わかってる。
「……あの二人は、村長様の家に泊まるの?」
「ああ。二人とも貴族出身だから、シャノンおじさんに頼みたかったけど、さすがにな」
シャノンおじさんっていうのは、マリーのお父様のこと。マリーのお父様は、シャノン辺境伯の兄で、辺境伯の補佐をしているらしい。とても人がいい方ばかりなので、辺境の民はマリーの一族に頼りっきりだ。
「ん?」
何やら視線を感じる……?
「どうしたの、みんな?」
「ポールって、リディと見合いするために帰ってきたの?」
見合い……?
「ん……な……わけあるかぁ!!」
あ、ポールが真っ赤になった。
「違うよ。お休みの予定だったけど、お仕事で東の辺境に来たんだって。ボドワンには宿を求めてきたみたい」
「え、リディをお嫁さんに貰う為じゃないの?」
「私にも選ぶ権利はあるでしょう?」
「なんだよそれ! つか、まだ成人したばっかりだし、俺もまだ修業中だし、嫁貰う余裕なんかあるか!!」
冗談なのにすぐムキになるんだから。そんなだから弟分にまでいじられるのよ。
「ねぇねぇ、この場合、リディとポール。どっちが振られたことになるのかなあ?」
……一部、冗談が通じていない。
「ん……んぐ……。じゃあ、俺は村長様の家に行ってくるから」
慌てて目の前の食べ物を口に押し込むポール。飲み込まずにしゃべろうとしてうまく話せず、慌ててスープを飲み込んで口を開いた。
「暗いから気をつけてね」
「平気だっつの」
昔はポールも、自警団で夜外に出ることがあった。それでもやっぱり暗いから心配だ。都なら夜でも明かりがあるのかもしれないけれど、ここにはそんなものない。
「……照れなくてもいいのにー」
逃げたな、とは思う。本当に、変わらないところは変わらないみたい。微笑ましげに笑うシスターたちの様子を、私はしっかり瞼に焼き付けた。
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