訪い夜
ナナシマイ
p.?? 忘れたくないとは言わないでください
世界に豊穣の気配が満ちる日、深い森の中では小さな冬風が生まれる。育ちきった秋風に拾われてつむじ風のようになったそれが家を鳴らす音を聞き、森の魔女は作業の手をとめた。
それは死者たちが訪う夜の始まる合図。
時波を漂流する
(……静かだわ)
まるで嵐が来る前のようだと思い、そして実際にその通りなのだと彼女は小さく息を吐く。
今夜のための準備はしっかりしてきた。
己の魂に紐づく生者を目指してこちら側へと流れ着く彼ら――死者たちは、今年も嵐のように森の魔女へ襲いかかるだろう。
*
提灯カボチャの照らす庭には即席のテーブルがいくつも用意された。
各テーブルには、紫焔菊を生けた花瓶や、普段の魔女からするといくぶんか華やかに盛りつけられた料理や菓子たちが並ぶ。食べ物のほとんどに使われているのはこちらもやはり提灯カボチャで、調理されてもなお淡く発光している。
魔女自身もカボチャのわたから紡いだ糸で編んだワンピースの上に濃紫のガウンを羽織り、さらに定番である木の意匠のロングケープをまとっていた。
訪い夜には死者の間とこちらを繋ぐ扉が開く。
世界の境が曖昧になるこの夜は、こうして橙と紫に彩られた空間が不思議な温もりと妖しさに包まれるのだ。
さて、森の魔女を訪ねる死者はけっして善い存在だけではない。中には彼女自身の手によってその命を終えた者もおり、今宵こそは復讐をと勇んでやってくる者もいる。
そんな暴力的なお客とは早々に決着をつけてしまい、今はただ食事を楽しんでもらうばかりであった。
わいわいと賑やかな夜だ。
とはいえしっかりともてなさなければ死者による障りがあるため、同じ森に住む生き物たちにも給仕を手伝ってもらっている。
魔女は忙しくテーブルを回り死者たちと会話を楽しんでいたが、ふと、庭の端に硬質な夜が滲んでいることに気づいた。
「常連さんです!」
夜の森にぽっかりあいた穴のような夜はたちまち人ひとりが通れる大きさになり、中から現れたのはこの一年でよく見るようになった夜の魔術師だ。
「変な呼びかたをするなよ」
「ちょうどいいところに来てくれました。お菓子を用意したので、そろそろ呼ぼうかなと思っていたところなのです」
「なにを勘違いしてるか知らんが、俺は子供じゃないぞ…………なんだその目は」
ずかずかと訪い夜の会場に足を踏み入れた魔術師はなにかを確かめるようにテーブルの並ぶほうへ視線を向けかけ、しかし怪訝な顔でこちらに留めた目を細めた。
それは魔女が目を見開いたままかちこちに固まっているからで、指摘された彼女ははっとして口を開く。
「魔術師さんがとても素敵です……!」
言葉を省略しすぎていることにすら気づいていない森の魔女が目に映しているのは、司祭服を見事に着こなした夜の魔術師の姿。
立襟の長衣と上に羽織ったケープは沈むような漆黒で、上までしっかり留められたボタンの鈍い光沢は竜の鱗だろうか。夜に紛れる青墨色の髪は額に掛からないようかきあげている。いつものピアスと儀式用のペンダント以外に装飾はなく、しかしそれがより洗練された印象を際立たせていた。
彼のこのような装いを見るのは初めてである。
普段使いから夜会用まで質の程度に差はあれ、この人間の装いは三つ揃えが常なのだ。
さらに言えば、享楽的で残忍な遊びを好む彼がこのようにどこか禁欲的な雰囲気の服を着こなしているのは、なんともいけない気分になるではないか。
特別な装いにどうしても浮き立ってしまい、魔女の葡萄酒色の瞳は提灯カボチャが発する魔法の光の中でもくっきりとした鮮やかさを放つ。
それはまるで星を散らしたような煌めきであった。
「ほう、ようやくその気になったか」
おもむろに魔女の手を取った魔術師は、そのまま自分の胸もとへ持っていく。
「ま、魔術師さん?」
「自分の手で剥いで、試してみるか?」
磨いた黒檀のような瞳は昏く光を孕み、その獰猛な気配にきゅっと喉の奥を絞られる感覚がした。魔女はわけもわからぬまま慌てて手を引っ込める。
「あの、えっと、暑いのでしょうか? 提灯が多すぎてしまったかもしれません」
「そうかもな。だから預かっ――」
「お帰りの魂も出てきましたし、減らしましょう」
「は?」
「提灯を減らしてきます。……えと、もう少しその装いの魔術師さんを見ていたいので是非そのままでいてくださいね」
「お前な……」
早口でまくしたてた魔女は逃げるようにその場を離れた。
「で、また妙なものに絡まれてないだろうな」
灯りを減らした庭には森本来のほの暗さが流れ込んでくる。
森の魔女と夜の魔術師が向かい合うテーブルには綺麗にカットされた訪い夜のタルト、それから一輪の紫焔菊が添えられ、やわらかに輪郭が浮かび上がった。
「困った死者さんはどこにでもいるものです」
「もとはと言えばお前が殺したんだろ」
「けれどもう、彼らに森は壊せませんから。おもてなしする以外の用などないのですよ」
その言葉に、ティーカップを口の前に持ってきていた魔術師は開いた口の端をゆるく持ち上げた。
(……こういうところだわ)
魔女が魔女らしい高慢さで物事を語るとき、この人間はそれを愉しそうに眺めるのだ。
短命な生き物にとって、魔女の剪定のような振る舞いはとても残酷に映ることだろう。しかし彼はこうして、人ではない存在を興味深く観察している。
真夜中の空を映したティーカップに魔女も口をつけた。
茶は魔術師のために用意したものだ。漂うのは、薔薇と林檎をほどよく混ぜたような、甘く優雅で、けれどどこか涼やかな香り。
「それにしても、人間は訪い夜をどのように認識しているのでしょう? 先ほどは子供がなんとかって言っていましたよね」
「死者の姿に扮した子供が近所の家を回り、菓子を強請る。祭りのようなものだな」
「お菓子を用意できなかったお家はどうなるのでしょう。……その、ご存知かもしれませんけれど、死者の満足するおもてなしができなければ、暴れられてしまうので」
正規の手順を踏んでやってくる死者にはこちらとの
もてなし交流することで縁を少しずつほぐしてやらなければならない――でなければ絡まって大変な事態を引き起こしてしまうのだが、報復を企んでいる者は掟のようなそれを悪用することもある。
せめて余分な力はつけさせまいと、魔女は毎年大量の料理を用意していた。
「もらえなければ暴れるぞ。専用の魔術具で家を吹き飛ばす」
「人間は恐ろしいことを思いつきますね……」
「それくらい死者の訪いには気を遣えという意味なんだろ。人間はともかく、そうでない奴らの恨みなんざ厄介極まりないからな」
実感のこもった笑みを浮かべる魔術師の影には、よく見ると壊れた魂のかけらが閉じ込められているようだ。
夜の魔術師の遊びかたを考えれば、今夜は彼を訪う死者も多かっただろう。それすらも遊びのうちだと嗤う姿を、魔女は容易に想像できた。
教会に潜り込み、善良な司祭のふりをして死者を弄ぶ夜の魔術師を。
森の魔女のもてなしに満足した死者の魂が、ひとつ、またひとつと扉の向こうへ帰っていく。
少しずつ静けさが戻ってきて、給仕をしている森の生き物たちがほんわりと休憩するようすに魔女は優しく微笑んだ。
「死者たちが報復する日、という認識も、実のところは正しくないのですよ」
夜の魔術師はなにも言わないが、真意はどうあれ、今宵魔女の家を訪れたのは死者たちの動向を気にしてのことなのだろう。
テーブルに一輪だけ添えていた紫焔菊を、そっと魔術師に差し出す。
「本来は、ただ生きる時間の異なる魂たちが交流するためだけの日なのです。長命な生き物が心を傾ける者に漂流物を振る舞うことで繋ぎを作り、命を終えたあとにも会えるようにと」
「……心を…………いや待て。漂流物とはなんだ?」
「提灯カボチャに紫焔菊、冬の始まりを拾った秋のつむじ風。この世界だけではない、時の波をさまよう物たちのこと」
この世界の外側にあるものは、時波の竜や時の魔女の管轄だ。強大な力を持つ森の魔女ですら全貌を知ることはできない。ただ世界の理を超えた事象の説明に、その言葉に、強い魔法がのせられる。
蝋燭のように揺れた紫焔菊に誘われるようにして花を受け取った魔術師にも、魔法の音は聞こえたのだろうか。
こっくりとした葡萄酒色の瞳がさらに深い色味を帯びる。
「お前はこれを、どんな奴に与えてきた?」
「人間ではあなたが初めてですよ。他には……ほら、訪い夜をお手伝いしてくれる、森の仲間たちに」
「……まさか俺もあの枠じゃないだろうな」
「魔術師さんも森にお引越しですか?」
あらあらといたずらっぽく魔女が笑えば、魔術師は嫌そうに顔をしかめた。
それから、おや、というふうに魔女の家へと視線を向ける。
「そういえば家はどうした。やけに静かだな」
「今日は寝込んでいるのです」
魔女の家はたいてい喋る。そして自分の中に住まう魔女を守ることに執念を燃やすものだ。
森の魔女のこの家も例に漏れず、彼女にちょっかいをかけるようになった魔術師にはよく冷たい態度をとっている。
たしかに普段であればそろそろ口を出してきてもおかしく頃合いなので、魔女は思わずといった感じで魔術師に同調するような呆れた笑いを溢した。
「死者でも生者でもない魂は、訪い夜に干渉できませんから」
「不貞寝かよ」
「なんだか悪い顔をしています」
「さてな」
今はこうして楽しく話をしていても、この人間が牙を剥く機会を窺っていることに変わりはない。
ゆえに家が警戒するのもわかるのだが、長い長い物語の中で、ぴりりとして甘い香辛料のような時間があってもよいと思うのだ。
「魔術師さん。あなたは、わたくしのことを忘れたくないとは言わないでくださいね」
「……なんだ急に」
夜は更け、死者の魂はみな帰っていった。
もう訪いはないとも言い切れないので菓子類は残してあるが、手伝いにきていた森の生き物たちはそれぞれの家へ帰している。
静かな、静かな夜だ。
これが森の魔女の家が持っている本来の質である。
「みんな、忘れたくない忘れないと、そう言うのです。けれど――」
縁をほぐし、だんだんと魂が薄れていけば、その感情はやがて忘れ去られていく。
かつては強い感情を抱いていた者でさえ。
たとえば十年ほど前に壊した妖精は、魔女への復讐に燃えていたはずだ。潮風を育むことを資質としたかの者とはなかなか相性が悪く、妖精の死後もしばらく苦戦したことを覚えている。
しかしここ数年はどうだろう。虚ろな目にはひと匙の感情も乗らず、今夜など魔女を映すことすらなかった。
魔女にとっての十年など短いものだ。
だがその時間は一瞬で過ぎるわけではなく、短命な生き物と同じだけを流れている。当然のことだと理解していても、何度繰り返しても、そして心を揺らさないのだとしても、慣れるものではない。
(けれど、物語を求めるということは、そういうことなのだわ)
それすらやめてしまえば、無でしかないのだと魔女は思う。
「安心しろ。俺はお前の記憶に残ってさえいればそれでいい」
彼の言葉がもたらす安堵を、彼自身正しく理解しているだろうか。
「…………ふふ。たしかに魔術師さんは、そのようなことを口にはしなさそうでした。でも寂しいので、少しは覚えていてくださいね。そのためにこうして漂流物をお渡ししているのですから」
「注文が多いな」
「魔女は欲張りなのです」
「主語を大きくしすぎだろ」
「あら、そうでもありませんよ。わたくしが森だからというのもありますけれど……。魔女というのは、自分の領域にあるものを特段大事にするものです」
もちろん魔女にだって思い出せなくなった過去などたくさんある。しかし大きく心を動かした場面は褪せることなく残り続けるものだ。
今はそれを、夜の魔術師との思い出の頁を、彼から贈られた栞の魔術具で挟んでいる。
遠い未来にまで持っていくつもりの時間だ。
軽く目を見開いた魔術師に、このようなときばかりは人間らしい反応をするものなのだと魔女は小さく笑った。
しかし当然、それだけでないのがこの簡単にはいかない魔術師なのである。
「さっきの話と合わせると、俺はお前にとっていちばん大事な人間だということになるな」
「それはもちろん――」
(あれ……)
言葉の続きを簡単に口にしてはいけないような気がして、魔女はもぞりと黙り込んだ。
「ほう?」
器用に片方の眉を持ち上げた魔術師の顔に浮かぶのは満足感だろうか。その男性らしい彩りに、魔女はまたしても不思議な痛みを感じる。
(魔術なのかもしれない、けれど……これはきっと、わたくしの心の問題でもあるのね)
今の自分が心のままに
魔女はもうあの石が持つ意味を知っていた。
彼がブローチにしてまで持ち歩くのは、繋がれた魔術が自分に有利にはたらくと考えているからであろう。ゆえに取り返そうとも思わない。
ただ確信できずにいたその意味を、こうして納得することになるとはという困惑だけがあった。
さて、言葉は魔術になるという。
「――もちろん人間の中では、魔術師さんがいちばん大事ですよ。……今のところは、ですけれど」
拙いそれに、彼はどれだけ惑ってくれるだろう。
あるいはこの程度では惑わないのだとしても。
ゆらりと揺れる紫焔菊が漂流物としての役割を果たすようになるその夜まで、あとどのくらいの時間があるものか。
崇高的でありながら酷薄な笑みを向けられ、魔女はほうっと息を吐いた。
訪い夜 ナナシマイ @nanashimai
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