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「これはまさか、本当に……?」

 などと戦慄したような雰囲気で声を震わせているが、彼女のこれは戯れである。

 物部天獄とは大正期に存在したカルト教団の教祖……とされる。見世物小屋から双生児を買い取り蠱毒に似た儀式を執り行うことでリョウメンスクナなる怪異を生み出し、日本を滅ぼそうとした……などと語られているが、しかしそんな人物は実在しない。掲示板で語られたリョウメンスクナに纏わる一連の怪談でのみ存在を語られる人物に過ぎないのだ。明治・大正期の霊能力者や新興宗教系についての研究は多く為されているが、そこで報告されている例には物部のもの字も天も獄も無いのだという。そんな派手なカルト教団をとりまとめていたのなら、どこかしらに記録が残っていなければおかしいだろう。つまり、これはネット怪談上での創作に過ぎないということになる。

 というか、そんなことは彼女の方がよく知っている。この一連の知識を僕に教えたのが沙也加なのだから。だから彼女の態度は戯れとしか言い様がない。

「というか、これ油性ペンで書かれてないか」

 物部天獄の字のことだった。しかも横書きである。こうなってくるとリアリティも何もあったものでは無い。雑にも程がある。

「いたずらでしょうね。ここに忍び込んだ人物の中にネット怪談マニアが居て落書きした……というのが一番しっくりきます」

 ああ、と思い出した。車の中で聞いた解説動画のことである。あの動画でもリョウメンスクナの話をしていた。聞き流していたので疑問にも思わなかったのだが、なぜ洒落怖について言及されていたのか。それはここに物部天獄の名が記されていたからだろう。誰かの書いた架空の人物についてのイタズラ書きが新たな怪談の怪異を生み出したのだ。

「落書きが先か噂が先かは分かりませんが……いずれにせよ、我々が退けるべきモノの在り方に影響をあたえている可能性は高いですね」

「……というと、その”日本滅ブベシ”とか何とかっていう?」

 怪談で語られる物部天獄は呪法で持って日本を滅ぼそうとしていたらしい。実にスケールの大きな話である。このスケールの大きさは『帝都物語』の加藤保憲当たりの影響が見える気もする。怨霊の役割が将門公からリョウメンスクナにスライドされただけで構図としてはよく似ているのでは無いか……と、それはともかく。

「そうですねぇ。つまりはこの赤い仏像はそういう、日本壊滅を祈願して作られた何か……という属性を与えられている可能性はあるのではないかと」

「それはなんというか」

 突飛では無いか、と言うと沙也加は「突飛ですよ」とあっさりと返してきた。

「設定の妥当性など検証しても仕方がありません。重要なのは”どう思われているか”ですよ。問題となるのは……」

 誰が思ったのか、だ。

「一応、事前調査をしてみました。一橋ホテルに赤い肉塊が出る、というような噂が存在するのか否か」

 結果はどうだったのか。

「ありませんでした。そうした噂は人口に膾炙していません。語っているのは現場作業員たちと……そして弦尾さんだけ、ということになるのです」

「やっぱり彼女が生み出したことになるのかな」

「その可能性が非常に高いですねぇ。私見なのですが、なんと言いますか。彼女が語った怪談に度々お祖母様との思い出が語られていたでしょう」

 弦尾が語るところによれば、彼女の祖母というのが強い霊能力を持った人物だったのだという。彼女はその血を引いている、ということになる。

「彼女の語るお祖母様は非常に正義感が強く、その志を継いだ弦尾さんもまた……ですよね。なんというか私、そこにメサイアコンプレックスのようなものを感じ取れてしまってならなかったのですよ」

 メサイアコンプレックス……つまりは救世主願望。彼女の場合は英雄願望でも良いかもしれない。他者を救いたい。救わなければならないという義務感とでもいうべきか。

 沙巫と弦尾の会話を思い返す。

『あなたは特別な人間なんだよ』

『何もしないなんて許されない』

 彼女には自分の持つ力を人々のために役立てなければならないという思いがあるのだろう。あれはそれを沙巫にも当てはめての言動だったのか。

「救世主には救うべき対象が必要で、救われるべきものには苦難が無ければなりません。つまりは”倒すべき悪が必要だ”というわけです」

 擦られすぎてもはや陳腐な文句ですが、と沙也加は言う。

「あの怪異は、つまり」

「ええ。あれは弦尾さんが倒すべき存在として生み出されたのではないかと。どこまで意図的にしていることかは分かりませんが」

「……あれ。でもだったら」

 僕の疑問は間抜けな電子音に遮られた。どうやら沙也加のスマートフォンの音らしい。懐から取り出したそれを眺めると「やはり」と呟いた。

「なんか分かったの?」

「ええ。すーちゃんに少し頼んでいたことがあったのです。その返事が来ました」

 それは、なんというか。彼女も協力したりしてくれるのか、と少し意外に思った。

「もちろん依頼絡みであることは隠してますよ。常識的なお願いだったので聞いて貰えたのでしょう」

 彼女はもったいぶったように画面を眺めて「ふぅむ、だとすると」など思案している。こうなると中々教えて貰えまい。彼女が納得するまでもったいぶらせておくか……。手持ち無沙汰になって出入り口に目を遣った。












 ……あ。いる。




 視界の端に。いた。あの、出入り口から。覗いていた。赤い肉塊が。もういない。逃げてしまった。

 動悸がする。頭がクラクラして熱っぽい。興奮か、それともいわゆる霊障か。いずれかを突き止めるためにも怪異を追わなければならない。そう思った。思った次の瞬間に、僕は駆けだしていた。向かう先は、もちろん赤い肉塊が逃げたところだ。


 あれは確かに存在していた。悍ましい呪い。他者を呪うためのもの。……他者を呪うためのもの、と想定されたものだ。

 弦尾の語った通りの半透明のピンク色をした、生まれたての小動物のような物体。丸い肉塊に、手足を滅茶苦茶に貼り付けたような見た目をしている。気持ちが悪い。グロテスクだ。この世の存在し得ないし、存在していては行けないと思う。

 ……そう思うだけに、怪異から目が離せない。存在してはいけないと思うだけに、存在を無視できなくなるのだ。


 階段を駆け上がる。

 熱い。顔面をじゅわじゅわと、焼けるような感覚が襲う。こらえきれず立ち止まるとつ、と何かが垂れた。鼻血だった。ぼたぼたと止めどなく流れていく。ああ、あれ。本当に呪いなのだろうか。もしかしてアレは、本物なのだろうか。だとしたらなおさら、追わなければ。

 ようやく僕にも視えた。僕の世界に、怪異が現れた。肉を持った存在として、しっかりと。

 この興奮と熱は呪いによるものか、それとも……自分でも見分けられない。でも、とにかくもソレに会いたかった。

 行く先は分かる。なんとなく、気配で。呼ばれているような気がする。

 いつの間にか、僕は屋上へと至る階段に足を掛けていた。目の前には扉がある。

 呼吸はかなり苦しい。ここに来るまでに激しい運動をしたのは確かなはずだ。だというのに、そこに至るまでの苦しさが全く意識に昇らなかった。

 この向こうに、いる。

 視てはいけないモノ。視るべきでは無いモノ。視るだけで呪われると言う、怪異的な存在。僕が感じ取れるモノが、そこにーーー


 ドアノブに、手を掛けた。

 その時。遠くから、沙也加の声が聞こえた。

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