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 僕が書店に出勤したのはもうすぐ12時になろうという頃だった。

 かなりの重役出勤だが沙也加は何も言わない。相変わらず夢に纏わる本をめくっている。

 昨日と同じようにホットサンドを購入したところ「気が利きますね、いただきます」と何事も無い様子だったのでさほど問題にもなっていないようだ。

 昼食を済ませたあと、沙也加の代わりにこまごまとした業務を済ませて、いつもどおりまったりする時間になった。普段なら本でも読むところだが、今日はそうも行かない。次に見る夢で取るべき対策を考えなければならない。

 とは言え、どうするべきか。見当がつかず途方に暮れた。なにせ相手は夢だ。夢、夢、夢……例えば、そもそも夢を見ないで時間稼ぎをする、とか。

「……眠らないで済む方法とかないかな」

「不可能ですね」

 すかさず沙也加が声を挟む。知らず知らずのうちに声が漏れていたらしい。

「あらゆる脊椎生物に睡眠はあるようなのです。進化の歴史の中でも排除しきれなかった、欠くべからざるものなのでしょう。ある説では睡眠こそが本来の意識の状態で、その合間に覚醒があるのに過ぎないのではないか、なんて考え方まであります」

「必要不可欠、か」

「はい。それに眠らないとどうなるのか、ご存じですか?」

「眠らずに過ごしたことが無いから分からないが……まぁ、徹夜すると頭は働かなくなるし、気分も悪くなるだろうけど」

「それだけで済めばいいですがねぇ。例えば1940年、ソ連の実験施設で行われた断眠実験では9日目から被験者たちの様子が可笑しくなっていきました。彼らは次第に偏執狂的な雰囲気を見せ始め、声帯が裂けるほど絶叫し、窓を本や糞便で塞ぐなど常軌を逸した行動をはじめ……そしてついに15日目。実験室に突入した科学者たちが見たのは、自分の内臓を喰らう被験者たちの姿だったのです!彼らは並外れた怪力によって護衛の兵士たちを殺害します。調べていくと、彼らは既に死んでいなければ可笑しい致命傷を負っていたにもかかわらず、生き続けていたというのです。脳波を図ると、脳死状態の様相を呈していて———」

「クリーピーパスタだろそれ」

 クリーピーパスタ……怖い話に特化したコピペの英語圏での総称である。

 この話は前にも沙也加の口から聞いたことがある。確かタイトルは『ロシア睡眠実験』だったか。過去の話の再放送だ。

「おや、覚えていましたか」

 もし覚えていなかったとしてもかなり作り話っぽい雰囲気がある。あざとい、とでもいえば良いのか。クリーピーパスタにしろ洒落怖のコピペにしろ、この大味さが魅力でもあるので良し悪しは語らないが、にしても本当のこととは思えない。

「まぁ流石に怪物になったりはしないみたいですが……眠らないと酷い後遺症を残したり、場合によっては死につながることも確かみたいですね。ギネス記録では不眠の最大記録が11日らしいですが、これは破られていません。破れない、が正確でしょうか。危険が大きいので新規の記録受付を拒否しているようなのですね」

 いずれにせよ、眠らない、というのはあまり意味が無さそうだった。それどころか身体に有害そうだ。別に本気で考えているわけでは無かった。思考を整理するために、とりあえず言ってみただけだ。

 眠らないのが無しなら、次に考えることは……

「明晰夢を見る、方が良いか」

「おやおや。セキくんも夢に目覚め始めましたか?人生の三分の一を有効活用して……みたいな自己啓発セミナーみたいなことを考え始めた、とでも言うのでしょうか」

 ようやく話に乗ってきた、と言わんばかりに目が輝いた。声も弾んでいる。

「そんなところ。なんかいい方法とかないかな?」

「そうですねぇ。ここ二日の間、色々と読みましたが……夢日記が一番有力そうに感じます」

「また怪談?」

「ああ、ありますよね。夢日記をネタにした怖い話。つけているうちに現実と夢の見わけがつかなくなるとか、予知夢を見るようになってしまうとか……しかしですね。例えばドン=レニ侯爵という実在の人物がいるのですが、彼は『夢の操縦法』という本を著しています。それによると、この方は14歳から5年間、夢日記をつけ続けたそうです。しかし特に早死にをしたり精神的に不安定になって亡くなられたということもありません。彼の記録によると、夢日記をつけ続けて207日目に初めて明晰夢を見ることが可能になり、それ以来自分の意思のまま、自由に夢を見ることも出来るようになったそうです。折角なので試してみたらいかがでしょうか」

 200日……半年と少しか。

 魅力的な提案だが、事態は刻一刻と迫っている。悠長な手段を用いてはいられない。

「莫迦にせっかちですねぇ。がっつきすぎです。それでは仔牛肉のソテーなどどうでしょう?」

「……仔牛肉?」

 急なワードに戸惑う。何かの例えだろうか、と問うと「いえ。料理です」と答えた。なおさら意味が分からない。

「それは……何か、そういう成分が入っているという研究結果でも出たとか?」

「さぁ?それは多分無いと思うんですが」

 莫迦にされるのはいつものことだが、それにしても支離滅裂では無かろうか。

「莫迦になどしていません。私は何時だってセキくんに敬愛と親愛と、あと恋愛の情を向けていますとも。むしろ何時莫迦にしたと言うのです」

 流石にそれは嘘だ。謂われの無い罵倒ばかり受けている気がする。

「で?その仔牛肉って何の話なんだ?」

「というのもですねぇ、西欧社会において夢というのは胃の調子、転じて食べたものによって決まる、という考え方が長らく続いていたようなのです。例えばあのアリストテレスも夢についての本を書いているんですが」

「哲学者の?あの、アレキサンダー大王の家庭教師をやったとかいう……」

「かのプラトンの弟子でもあります。古代の哲学というのは範囲が広いですからね。眠りについても哲学の範疇だったわけです。それでアリストテレス先生が言うことには、食べ物が消化されて出た蒸気が血流を逆流させ睡眠を誘発する、ということらしいんですね。同じく古代ギリシャの医師であるガレノスは食べ物が消化されて立ち上る匂いが夢の原因だと言っています」

 今となっては荒唐無稽なのだろうが、観察できることから睡眠を解き明かそうとするならこういう考え方にたどり着くのかも知れない。

「確かに食べると眠くなるし、食事と眠りが関連してると考えるのも変な話じゃないか」

「ですねぇ。例えば覚醒状態を維持するオレキシンという脳内物質があるのですが、発見当初は食欲を減衰させる物質と認識されていたそうです。食べると眠くなり夢を見る。食べなければ食べ物を探すために覚醒させる。アリストテレスもガレノスも強ち出鱈目とも言い切れません。メカニズムの解明は出来てないにしろ、物事の観察はきちんとされていた、と言えるかもですね」

 なるほど深い話だと関心しかけたが、また脱線している。聞きたかったのは別の話である。

「だから、仔牛肉のソテーはどこから出てきた」

「ああ。それはたしかリー・ハントでしたか。18世紀イギリスの文学者ですね。彼の随筆によると夢というのは食べ物の腐敗によって引き起こされるそうで」

「そのハントさんも碩学というか……医学にも明るかったの?」

「違うんじゃないですかね。ちょっと話題にしただけだと思うのですが。彼が言うには食べるものによって夢の種類が変わる、ということなのですよ。仔牛肉の場合はインスピレーションが湧く、というような書き方だったと思います。どうでしょう、こちらも試してみては」

 風邪を引いて瀉血を勧められたような気分である。これまでの話も大概エビデンスのあるものではなかったし、何なら怪談も混じっていたが、輪に掛けて信憑性が無い。確かに夢日記よりは即効性のある話だろうが……。

「まったく……さっきはせっかちさん、今度はわがままさんですか。仕方の無い人です。とは言え私は出来た人間なので?もう少し納得の行きそうな最新の俗説も教えてあげましょう」

 恩着せがましいし、しかも俗説なのか、と色々言いたいことはあったのだが口を挟む暇も無く彼女は続けた。

「セキくんはスティルトンチーズというものをご存じでしょうか。イギリスで作られているブルーチーズです」

「いや」

「情弱」

 ついに一言で詰り始めた。そこまで言われなければならないほど有名なのだろうか。

「なにせ世界三大チーズと言われてるらしいですからね。主に日本のチーズ業界で」

「じゃあ日本の輸入会社が勝手に言ってるだけでは……?」

「まぁそうかもしれませんが」

 ならばどうして僕は罵倒されたのだろう。親愛だの敬愛だのと言った舌の根の乾かぬ内の出来事である。かなり納得がいかない。

「このスティルトンチーズがですね、食べると変な夢を見る……ということで良く話題になるのですよ。実に男性の75%、女性の85%が奇妙な夢を見た、というデータがあるそうです」

「調査の母数が知りたいところだな」

 果たして信頼できる実験なのかどうか。何か数字のマジックがあっても可笑しくない。

「まぁ私も元のデータまで当たったわけではありませんが……しかし、それらしい有効成分を挙げているサイトなどもありまして。スティルトンにはビタミンB6が多く含まれているのです。どうやらビタミンB6を取ると夢の内容を思い出しやすくなるそうなのですよ」

「……あれ、さっきまで変な夢を見るチーズって言ってたような」

「夢なんて概ね変なものじゃないですか。そもそも見た夢は大体忘れているでしょう?つまり変な夢を見るのでは無く、思いだした夢が偶々変だったんじゃないですかね」

 確かにここ数日は夢の内容を覚えていたので忘れかけていたが、そもそも夢なんて起きて数分後には忘れているものか。

 ここ数日……

 なんでここ数日、覚えているのだろう。悪夢だから?怪異が絡んでいるものだから?あるいは沙巫がいたから?もしくは……

「実は私も食べたことは無いんですよね。そうだ、今度食べましょうよ。一緒に食べて一緒に寝て検証するんです。話によると輸入食品店とか大手スーパーでも取り扱いがあるそうですし」

 大変魅力的な実験だ。是非やりたい、と約束した。しかし、彼女には悪いが一足に先に自分ひとりで試すことになるだろう。


 彼女が出した案のどれが効果的なのか。僕には分からない。分からないが、ともかく全部試してみることにした。もう遅いかも知れないが、ここ数日見た夢を改めて書き出して夢日記にしてみた。仔牛肉……はスーパーには無かったしレストランだと敷居が高かったが、代わりに市販の牛肉を食べることにした。スティルトンチーズに関しては上野駅の高級スーパーで取り扱いがあったので購入した。一個千円ほどしたが、割高とは思わなかった。悪足掻きかも知れないが、やれることはやってみようと思った。命がかかっているかも知れないのだ。

 ともかく万全を期す。夕食は牛肉のステーキ、眠る前にスティルトンチーズを丸々1パック食べる。美味しいが、ブルーチーズの例に漏れずかなり塩気が強い。買い置きしていたワインのボトルを開けてほとんど全部飲んでしまった。

俯瞰して考えるとステーキとチーズとワインで優雅な夕食のようだ。我ながら呑気な気がした。

「いいや」

逆かも知れない。なにせ明日には死んでいるかも知れないのだ。自覚していないだけで酒精に逃げたくなる無意識があったりするのかも。

 酩酊した状態でベッドの中に収まる。果たして、次の夢はどうなるのだろう。また列に案内されるのか。それまでに意識を取り戻せるのか。前回は列に並ぼうとしたら、わざわざ先の方まで通された。今回もそうなるかもしれない。いや、もっと酷い可能性も考えられる。そもそも、列に並んでいるところからスタートしてしまうとしたら?

……そもそも、あの列を並びきったら、僕はどうなる?死、という可能性は既に浮かんでいる。問題はどのように死へと導かれるかだ。苦しいのだろうか、痛いのだろうか。きっと両方だ。これまで見た夢では、あの扉の向こうへ行ったモノは尽く苦悶を漏らしていた……

 色々なことを考える。考えながら、僕はいつのまにか眠り込んでいた。

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