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 コンクリートで打ちっぱなしにされた狭い階段を下りていく。聞こえてくるものは僕の足音だけで、いたって静謐な雰囲気である。その静謐さが却って不気味ですらある。時折、あの女が追いかけてきてはいないか、と後ろを振り返る。流石に杞憂だったが、それでも降りる速度は緩めない。

 相手が追いかけてくる様子が無いことを理解して、多少冷静さを取り戻し始めていた。あの女……白いワンピースを着て走る髪の長い女の姿を考える。沙也加に相談したら嬉々として分析してくれそうだ。

 口裂け女、カシマさん、テケテケ。都市伝説でも語られるし、ネット怪談の八尺様もこのモチーフだろう。創作なら貞子や伽椰子も白い服の女だ。関わったものを執念深く追いかけまわす、女の姿……そういえばこの間、入谷氏から受けた依頼の話をした際に、沙也加は黄泉平坂の神話のことを例に出していたか。死したイザナミ恋しさに冥界を訪ねたイザナギ。しかしイザナギ神は見るなの禁を破り、イザナミの腐った醜い姿を見てしまう。穢れを厭い、逃げ出すイザナギ。怒りに身を任せ追いかけるイザナミ……追いかけてくる女のモチーフの日本における最も古い例かも知れない。

 そういえば、神話では何かを三つ投げて追いかけてくる女を三回足止めしたのだったか。何回目か忘れたが、桃を投げて食べている間に逃げる下りがあったはずだ。昔話『三枚のお札』でも札を投げて足止めしていたし、口裂け女もべっこう飴を投げると足止めになるという話があったはず。

 それらに倣って、何か投げ出すものでも手元に無いだろうか?

 そう思ってあちこちを弄る。が、何もなかった。今僕が着ているのは黒いリクルートスーツである。投げられるものと言えば……ジャケットとネクタイ、あとはベルトくらいのものか。確かに三つあるが、これで足止めできるとも思えない。

 そうこうしているうちに階段が途絶えた。一階にまでたどり着いたらしかった。

 扉を開くと、夢の最初にやってきたフロアである。側溝には相変わらず血のような赤黒い液体が流れていた。不気味には思ったが、それ以上に今はあの女から逃げ出すのが先決だ。それらを無視して外へでる経路を探す。

 エレベーターの真向かいに、扉があるのが見えた。あそこから出れないだろうか。そう思って扉まで近付いてドアノブを回してみたが、押しても引いても開かない。鍵が付いていたので何度か回して試してみたが、一向に開かない。

 ……ああ、と理解する。これは夢だ。よく見る夢。本来なら出来るはずのことが出来なくなり、焦燥感に包まれる流れの夢。ならばここに拘泥しても仕方がない。そう思って扉から離れて別の出入り口を探すことにした。

 開かない扉から振り向いた瞬間、違和感があった。

 中央のエレベーターには、今いる階数を表示するランプがある。それが、光っていた。しばし眺めて、それが意味するところを理解してしまった。

 あの女が、エレベーターに乗って一階にまで来ようとしている———!

 そうではないのかも知れない。沙巫が脱出のためにエレベーターを使っているのかも知れないし、歩き回っていた影たちが使っているのかも知れない。あの白いワンピースの女が乗っているとは限らない。だが、僕の心中はその直感に占められていた。

 急いで駆け出す。エレベーターから少しでも離れて、出入り口の方へ……せめてあの女の視界に入らない場所へ逃げなけばならない。

 夢の一番最初、あの影に案内されて歩いたルートの逆を辿っていく。もし建物から脱出する出入口があるとするなら、この方向で良いはずだ。建物の果てになっている場所には、遠目からでも扉があるのが見えた。

 エレベーターから建物の果ての場所まで目に見える距離はそうあるわけではない。20メートルほどしかなく、普通に走ればすぐにたどり着ける。

 ……だが、一向にたどり着けない。走っても走っても、前に進んでいる感覚がない。またこの夢だ。本来ならたどり着ける場所にたどり着けなくなる夢。こんな時に、そんな……

 ガコン、と。大きな機械音が響いた。

 エレベーターが一回に着いたようだった。中から飛び出てきたのは、あの白い女。それは僕の方へ、まっすぐと向かってくる。

 とっさにネクタイを解いて投げ捨てた。完全に苦し紛れの行動だったが、結局苦し紛れに終わった。女はネクタイには全く反応せず、そのままこちらへと走ってくる。こうなってはジャケットもベルトも意味は無いのだろう。

振り向くと、女と僕の距離が縮まっていた。僕も走っているはずなのに、疲労だけが蓄積していく。理不尽だ。だが、怪異とは理不尽なもの。それでこそ怪異だ、と奇妙な納得を感じる。少しだけ僕は喜んでいた。もし生きて帰れたら、きっとこれは良い土産話になるだろう……なんて。

本心からだったのか。それとも最悪の状況下での現実逃避か。いずれにしても、女の手が僕の肩に触れるまで近付いていることに違いは無かった。

逃れられない。女は僕を捕まえて、縺れ合い、そのまま押し倒された。

 女の顔を直視する気にはなれなかった。なんとか逃れられないか身を捩り、周囲の様子を観察する。僕が来たのと同じ扉から人影が躍り出るのが見えた。沙巫が息を切らしながら、それでもこちらへと走ってくる。

「ああ、もう!セキくんと見分け付かないのかあのバカは!本当に好きなのかオマエ!?」

 彼女は何かよく分からない罵倒をまき散らしながらこちらへ来る。

そうこうしている間にも、女は僕を押さえつけて来る。腰に股がられ、肩を地面に固定され、地面に叩きつけられる。身動きが取れなくなってしまった。

 視界に見えるのは天井と、女の顔だけだった。

 女は相変わらず嗤っていた。溢れ出る歓喜に顔面が皺くちゃになっている。

生々しい、と思った。むき出しの感情が暴力のように叩きつけられてくる。見てはいけないものを覗き見ているような、そんな気分になる。それだけに、なおさら僕の瞳は見開いていった。先ほどと同じだ。見てはいけないようなものだからこそ、目が離せない。

女は僕の顔を覗き込むような至近距離まで近付いてきた。嫌悪に顔が歪む。これから僕は何をされるのか。緊張が体中を包み込んで、そして……


 ふっと。女の顔面が無表情なものになった。先ほどまで無際限にまき散らされていた感情の残滓は掻き消えて、何も残っていない。それはまるで……そう。電車の中でスマートフォンを覗き込んでいる、どこにでもいる女性のような顔のような。

 女はその、普通の人間のような表情で一言「……誰?」と呟いた。

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