6
肌寒い。凍えそうなほど身体が冷たかった。
コンクリートで打ちっぱなしの建物の中を僕は歩き続ける。直線で約100mほど先までが見渡せる。左手には無数のシャッター、右手には観音開きの扉が等間隔に並んでいた。ここがどこなのか、何をする場所なのか。全く検討もつかなかったが、ともかくも前へと進み続けた。そうしなければならないような気がした。
「ここは保存倉庫だよ」
僕の疑問に答えるように声が日々意阿。隣に現れた、ぼんやりとした白い影がそう語りかけたのだった。先ほどまでいなかったが、親切にも現れてくれたらしい。
「そうなんですか」
「うん。ここは保存倉庫だよ。これからサイヒョウジョウの案内をしてあげよう。トモヨシくん」
白い影の声は男の声の様に聞こえたが、確かなことは分からなかった。本を読んでいる時、頭の中に響く誰でも無い声のようだった。
そういえば僕はトモヨシ、だったか。
相変わらず肌寒かったが、それでも心細さは消えていた。僕の名前は分かったし、ここがどこなのかも分かったし、案内してくれる人もいる。
今日から僕はここで働くことになるのだ。頼もしい人が先輩で良かった。
白い影の後につきながら周囲をきょろきょろと見回す。足下を見ると側溝のようなものが見えた。排水などに使われるのだろう。そこに赤黒い液体が流れているのが見えた。試しにかがんで匂いを嗅いで見たが、とてつもなく生臭い。ここで働くことにちょっとだけ不安を覚える。
「さっき片したばかりなんだけど、やっぱり体液は出てくるからね」
「そうなんですね。掻き出すのに使う道具はどこにあるんですか?」
「まぁそこはおいおい、ね。企業秘密だから」
そうなのか、と納得する。やはり体液の掻き出しにも必要な道具というのはあるのだ。
僕はエレベーターの中に誘われた。どうやらここは細長い長方形の形をしていて、エレベーターは建物の丁度中央あたりに鎮座しているらしい。
先ほどまでの無機質なコンクリートから一転、エレベーターの中は真っ赤に塗られている。
「やはり体液が、ね。目立っちゃうから」
「ペンキで塗っているんですね。やはり黄色とか緑では目立ってしまうということですか。ははぁ、なるほど」
「ああ、そのなるほどというの止めてね。マナー違反だよ。正しい日本語を使えよ」
急に指摘されてムッとする。マナーとは何のマナーだろう。
「なるほどって別に失礼なことばじゃないですよ。相手に同意を示す言葉です。一般的によく使われています。あなたがどこで聞いたのか分からないですけど、正しい日本語がどうとか言って相手を遣り込めるのは屑のすることです。恥を知りなさい。そも、正しい日本語などこの世にはありません。絶えず流転するのが言語です。そういう意味で言えば人間が使う言葉がいつだって正しいのです。むしろ、あなたたちのような人間じゃ無い影が使う言葉が間違ってるんです。謝ってください」
言葉が溢れ出す。少し言い返すだけのつもりだったが、自制心の箍が外れてしまったかのようだ。口答えをしてしまって、もしかしたら怒られるかも知れない、と不安に思ったが、相手は僕の言葉に対して反応を示さなかった。
エレベーターが止まった。階数は表示されているが読めない。数字らしき記号は使われているのだが、それが何という数字なのか、いくら目を凝らしても理解出来ない。そうこうしているうちに先導する影が外に出てしまったので、僕も続くことになった。
「ここからが工場だ」
先ほどいた下層階に断続的にあった観音扉がすべて開いていて、その中で作業をしている姿が少しだけ見えた。
四角い作業台を二人の影が対面に囲んでいる。
影のひとりが金槌を手にして、それを振りかざす。向かいのもう一人は、台の上にある何かを両手で固定していた。固定されているのは、凍っている赤ちゃんだった。
「赤ちゃんを砕くんですか」
「そうだよ。君にもそのうちやって貰うから、そうだ。今のうちに先輩たちの作業の様子を見てみたら良いよ。早く行けよ」
相変わらず高圧な影の言葉に苛つきながら、しかしそのうち僕もしなければならないのは確かだ、と思い直して、作業室の中に入っていった。
台の上を見てみると、赤ちゃんは凍ってはいたがまだ生きているようだった。いやいや、と身体を捩るようにして固定する影の手を逃れようとしている。
「落下!」
「承知!」
固定する影の声に、金槌を持つ方が応える。そうするや否や金槌が振り下ろされた。何かの合図だったのだろう。そのリズム感の場違いさに笑みが漏れた。
しばらく「落下!」「承知!」が繰り返される。そのリズム感が面白くて、長らく笑っていた。
そうするうちに、けたたましい音と共に、赤ちゃんが砕けて飛び散っていく。何度目かの振り下ろしの末に、赤ちゃんの欠片が僕の足下に滑ってきた。
どこの部位かは分からない。氷の中に赤い肉片が閉じ込められている。凍ったスイカのようなそれは、グロテスクなのに食欲をそそって、そう思うこと自体がグロテスクに思えて自己嫌悪に陥った。
これ以上見ていたくなかったので作業室の外に出る。すると、列が出来ていた。何かに並んでいるらしい。
ああ、と理解する。そういえばこれは前も見た。ソウテイカだ。今度もソウテイカなのかは分からないが、似たようなものなのだろう。
僕は自然に前の方へと進んでいく。
以前も並んでいたのだから。その時と同じ場所に行くのは当然に思えた。
このあたりが以前並んでいた場所だろう、とあたりを付けて中に入った。前の方には20人ほど。
「ちょっと」
「はい」
僕を咎める声がした。この間もいた警備員のような影だった。
「駄目でしょう、正しい場所に行かなきゃ。この間よりも時間がね、進んでいるんだからね、行くとしたらもうちょっと前だよ」
そういって影は正しい場所を教えてくれた。「ありがとうございます」と伝えようとしたが、この間と同じように声は出てこなかったので、そういうものなのかと思った。
どうやらこの間よりも列が進んでいたらしい。ここにいない時間も計算に入るのだろうか。ともかく、前にはあと5人ほどしかいなかった。これならもうすぐ、あの扉の中に入れるだろう。
この間とは違って、扉の向こうからは先ほど聞いたような、金槌で氷を叩きつける音が鳴り響いていた。もしかするとこの列はあの赤ちゃんを砕く部屋へと続いているのかも知れない。赤ちゃんはあの作業室で、成長した人間はこちらの列に並ぶのだろう。
ああ、まただ。厭だなぁ。
「ちょっとセキくん天丼っすか!?列があったら並んじゃうとかペンギンか!」
ああ。ああ、ああ!
そうだ。そうだった。何をしてるんだ。油断しすぎだ。この夢は……そう、これは夢だ。昨日も見ていた。沙巫と一緒に見た夢。あの後、沙巫から事情を説明された、あの夢!
「すーちゃん!」
「ああ、今日は目覚めが速いっすね、流石に!分かるならさっさと逃げますよ!」
そう言って、彼女の跡について走って行く。 そうしている間に、一応頭の中で整理を付けていた。意識は覚醒している。自分の名前も、走っている彼女の名前も、それにこれが夢であることも理解している。
円藤沙巫はあの後、この夢を形作っているとされる人物と話に行くと言っていた。彼女の友人ということだったし、言葉で何とかしてみる、ということだったから任せてみたが……どうやら失敗したらしい。
沙巫は扉の一つを開けて入っていく。どうやら上下階に繋がる階段のようだった。ここもコンクリートの打ちっぱなしである。そのまま下に降り、メインフロアの様子を扉越しに確認する。彼女は安全だと思ったのか、そのまま外へと飛び出した。
この階も、これまでと同じ間取りである。エレベーターを中央に建物が左右に伸びていて、観音扉に閉ざされた部屋がいくつも並んでいた。この部屋もやはり……あの、冷凍された赤ちゃんを砕く作業室、なのだろうか。 気後れする僕を余所に、沙巫はどんどん前へ歩いてく。彼女はある扉の前に立った。見ると上から紐が伸びている。その紐を引っ張ると、扉が両側へとスライドしていく。開閉スイッチだったのだろう。開いた部屋の中は薄ら寒く、コンクリートに反射された蛍光灯が無機質さを演出していた。ただ、怖れていたような光景……赤ちゃんを砕いているとか人体に手術を加えているとか、そういうものは見当たらない。
どうやらここは倉庫のようだ。樹脂製のパレットの上にダンボール箱が何個も積み重なって整列している。僕たちは、その一番奥まった場所まで行くと、ダンボール箱の物陰に隠れた。
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