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 静かにゆっくりと、だが確かに時間は経過していった。姿勢を変える時の衣擦れ、本がめくられる音、空調から流れる機械的な振動、キーボードやマウスのクリック音などと言った生活音だけが室内を震わせる。客は来なかった。時折は人が通りかかる様子もあったが、店内までは入ってこない。いつものことである。

 ふと時計を見遣る。11時30を回っていた。

「お昼どうする?」

「おや、そんな時間。どうしましょうねぇ?」

 どうしましょうねぇ、とは言うものの何も考えていない様子だった。

 普段であればテナント内のどこか適当な店舗に行くところである。中華料理もあれば蕎麦に喫茶店の軽食、ちょっと外に出ればラーメン、カレー、寿司でもステーキでもなんでも小砂なのだが、沙也加は本を手放す様子は無い。

「店は出たくないです。今日は本を読むのです。適当に見繕って来てください」

「一番困るタイプのリクエストだな……サンドイッチとかで良い?」

「結構。お願いします。領収書もお忘れなく」

「了解」

 言っている間も頁から目を離さない。テーブルに出した本の中、先ほど一冊目を読み終わり二冊目に取り掛かったところである。今日中に読み終える……のはまぁ不可能だろう。そもそもすべてを読み終える、ということもおそらくあるまい。本を所有する意味はいつでも読めると思えることにあると思う。膨大な書物の中から「これを読むぞ」と思っても、おおむね道半ばで力尽きるのが世の常だ。問題はいつ飽きるか、ということだけ。しかしまぁ、趣味の読書とはそういうもので良いと思う。

 それよりも昼食のことを考えなければ、と頭を回す。本を読みながら食べられるものが良いだろうか。かの伯爵に倣ってサンドイッチとか。ビル内の喫茶店なら時間もそう掛からないはずだ。

 店を出ると、出入り口の両側を占める特価コーナーに人影が見える。女性のようだった。茶色いワンピースにクリーム色のジャンパーを羽織っている。どうやら客が来ていたらしい。買うのだとしても沙也加が対応するだろうし問題無いか。そう思って傍らを通り過ぎようとした。

「あ、出てきた」

「はい?」

 妙に聞き覚えのある声が聞こえてきて、頓狂な声が漏れ出る。

 彼女は立ち読みしていた本を棚に戻し、それから僕の方へと向き直った。

 顔、格好、声……それらを見聞きした瞬間、頭の中の回路に一気に電流が通ったような感覚が過る。

「すーちゃん?」

「うっす。昨夜ぶりですね、セキくんさん」

 円藤沙巫は片手をあげながら笑顔で挨拶した。その様子はまるで昨夜の夢からそのまま出てきたかのようだった。



「コーヒー単品とミートスパゲッティひとつ。これとは会計分けて、ツナサンドとハンバーグサンド、アイスコーヒー2つ持ち帰りで準備して下さい」

「あ、食後にチョコバナナのクレープもお願いします!紅茶のセットで」

「……スパゲッティ側の会計に追加してもらって良いですか。いやホントすみません、お手数かけます」

 夢の中での約束通り、彼女は僕に奢られに来た。と言うかあの夢は本当に沙巫と意識が繋がったものだったようだ。

 沙巫は強力な霊能力者であるらしい。らしい、というのは彼女自身の口からそれを聞いたことが無いからだ。決して自称はしないし、そうした話をすることもない。徹底してその手の話題を避ける。しかし、周りの人間は口を揃えて「彼女は100年に一度の逸材だ」と語るのである。

 その能力は様々で、例えば霊を視たりオーラを視たり過去や未来を読み取ったり……その中のひとつに、他人の夢の中に入り込む、ということだってあるのだろう。

 ……デジャブが過った。そういえば昨夜の夢でも同じようなことを考えていた気がする。

いずれにせよ、彼女が夢に出たことは僕の無意識が発露したとかそういうわけでは無かったようだ。何となく安堵する。

「いやぁ、すみませんねぇ。なんか会うたびに奢ってもらっちゃってて」

「強請りに来たくせによく言う」

「そこはほら。忘れちゃうかもですし」

 夢と言うのは忘れやすい。確かに今日の僕も忘れていた。沙也加と夢について会話している間『そういえば今日、変な夢を見たんだけど』というような話題を僕がしていてもおかしくは無かったのだ。それをしなかったのは夢の内容を忘れていたから……というより、意識していなかったからだろう。

「それに喫茶店の方が好都合です。サヤちゃんがいるとちょっと邪魔なんで」

「なんてこと言うの君」

「いや邪魔ですよ。こういう話大好きでしょあの人」

 確かに大好きなのである。まさにそういう話をしてきたばかりだ。

「絶対はしゃいで話進まないっすよ」

 ……彼女は徹底して目的語を省いている。だが、想像は付く。問題となっている単語はつまり『夢』である。

 ただの夢なら大丈夫なのだろう。だがそれが超常的なもの……誰かと同じ内容の夢を視たとか、そこで視たなにか、という話題になると彼女は拒否反応を示す。それを具体的に語ろうものならとてつもなく不機嫌になることだろう。

「多分『すーちゃん、それはね。こんな意味があってね、過去にはこういう例があるんですよ』とかしたり顔で絶対語りだす。私知ってる」

 何か違和感があった。

 まず最初の違和感は沙也加を交えなかった、ということ。その理由は今語っている。“沙也加はその手の話題に食いつく人間である”という点である。それが煩わしいのは分かる。が、ならばその話題を出さなければ良い。沙也加と沙巫の関係は円満では無いが険悪でも無い。一緒に買い物や食事をしたり、学園祭に訪問することもあった。奢られたい、というのなら何か別の理由を付ければいいのだ。中野の店がSNSかテレビかで話題になっているから案内してくれ、だとかなんとか。今日の沙也加は外に食べに行くのを億劫がっていたが、流石に妹が訪ねてくれば邪険にもしないだろう。

しかし、沙巫は“その話をすることによって引き起こされる沙也加の反応”を語っている。その話をしなければならない、と思っているかのようだ。

 つまり彼女は普段なら語りたがらないことを強いて語ろうとしている。彼女は怪異を嫌悪している。奇妙な夢の話題など必要が無ければ口に出すこともしないはずだった。

「それでその……今日は」

 奢られる以外にも何か理由があって来たのではないか。

 沙巫に訪問の真意を訪ねようとしたところで「おまたせしました」と店員から声を掛けられた。沙巫が注文したスパゲッティが到着したのだった。

「ありがとうございます。じゃ、いただきまーす。おいしそー!」

フォークとスプーンで目の前の皿に取り掛かる。

ミートソースの湯気と香りに僕の食欲もそそられ、腹の音が鳴ってしまった。

「お腹空いてます?ごめんなさい、これ一人分なんですよ。まぁ一口くらいなら分けてもいいですケド」

 言いながらフォークに巻いたパスタを口にする。サンドイッチは別に注文しているから大丈夫なのだが、そう言われると欲しくなってくる。もうひとつフォークとスプーン、小皿を貰って一口食べてみた。確かに美味しい。

「多分ですけど、これで終わらないですよ」

「うん?」

「今夜も来ちゃうんじゃないですかね?」

 スパゲッティの話……ではあるまい。そう聞こえるように話しているのだろうが、真意はそちらにはない。彼女はおそらく、あの夢の話をしている。

「何か、そういう感じがするの?」

「そういう感じがします。一回じゃ終わらないです」

「それは」

 どうしてそう思ったのか。何か心当たりがあるのか。あとは……そう。夢の最後で沙巫が視たものは何だったのか。聞きたいことは幾らでもある。だが、どのように聞けばいいのか。露骨に聞くことは彼女に大きな負担を齎すだろう。それは避けたい。

「……そもそも、あれは君のヤツなのかい?」

「違います。昨夜も言った通りです」

「それは何で分かった?」

「友達と話したことがあるんですよ。視たことあるって」

 かつて沙巫は友人から夢について世間話か……あるいは相談を受けたのだろう。その時点では心霊絡みという触れ込みでは無かったのかもしれない。単に変な夢とか悪夢を見たというだけなら一般的な世間話の範疇である。

 だが、その夢と同じ内容を沙巫も見てしまった。友人の夢がそういう……オカルトや心霊的な領域にある事件だと解ってしまったのだろう。

「……サヤさんには言わないの?僕たちなら、その、協力することもできるんじゃ」

「サヤちゃんは多分ムリっすね。多分ムリ。あんま役に立たないです。というか、あの、アレ。まだ使ってるんですよね?だったら止めた方が良いですよ。多分身体に悪いですから」

 “アレ”の心当たりは……退魔に使っている呪剣しかない。

「私に奢る羽目になったのもアレが原因だと思いますよ。姉には文句言った方がいいです。あの人、自分のことしか考えてない節があるし。はっきり言わないとダメですよ」

 この怪異を排除するのに呪剣は約に立たない、ということなのだろう。夢の中にいたのでは剣に入ることは出来ないだろうし、そもそも沙也加が介入できない。彼女はこうした超常現象や怪異と繋がることが出来ない体質のはずだ。

「じゃあ、どうする?」

「……ちょっと考えてることはあります。ハッシー……その例の子なんですけど。彼女を、なんて言えばいいのかな。言葉にしづらいんですけど、その、話してみて?なんとか出来ないかなって。それまでセキくんにも付き合わせちゃうかもなんですが」

 ひとまず、彼女なりに考えていることがあるらしい。

「僕とサヤさんがその友達と話すのはダメ?」

「いやぁ……どうでしょう?喰いつくのは喰いつくだろうけど……うん。やっぱり私の方でやらせてくれませんか?」

「……分かった。でも何かあれば相談して。僕も当事者だし、サヤさんだって君の力になりたいと思うはずだ」

「ははは……どうでしょうね?いやセキくんのことは疑ってないですケド、姉の方はどうカナー……?余計に拗れる気がします」

 どうやらよほど姉のことを信頼していないらしい。性格の違いからくるものか何なのか。それともマイナス方面の身内贔屓のようなものかも知れない。

 ともかく、まず彼女なりの解決策を講じたい、というのならそれに異存はない。それに僕としては、あの怪奇な夢を視ることにちょっとした喜びを覚えてもいた。もちろんそんなことは沙巫には言えないのだが。

 沙巫がスパゲッティを食べ終わり、クレープまで堪能し終わったと同時に持ち帰りのサンドイッチとコーヒーが届いた。どうやら店員が気を回してくれていたらしい。しかし、沙也加から遅いと訝られたりしないかちょっと心配だった。疚しい気持ちは無い。だが沙也加と内緒で沙巫に会っている、というのが沙也加に知れたら妙な勘ぐりをするのではないか。あまつさえ、彼女と僕が夢に纏わる怪奇現象に巻き込まれているのが知れたら……

———なるほど。すーちゃんと夜のランデブーですね。最悪です。

 確かに厄介だ。彼女を交えなかった沙巫の選択は正解かも知れない。

「ごちそうさまでした。美味しかったっすね。また来るかも」

「沙也加のとこには寄ってかなくていいのかい?」

「いやぁ……別に。欲しい本とか無さそうですし。むしろ欲しくない本しか無いまであります」

 そうだろうな、と思う。

 僕たちが取り扱ってるものほぼすべて、彼女が嫌悪するものだったからだ。心霊だの妖怪だの怪異だの、そんなものは話したくないし見たくも無いのだろう。

「それに……これからハッシーと会ってみようと思ってるんです」

「ああ、なるほど」

 件の友人。この夢の原因と沙巫が特定している相手。それと話を付ける、ということだった。ならば引き留めるわけにも行かなかった。

「サヤちゃんたちとまったりってわけにも行かないっすね」

「そっか。がんばって……っていうのは可笑しいか」

「いえ。何とかやってみます」

 それじゃ、と去っていく沙巫を見送る。もしかすると、今夜の夢は視ないかもしれない。それならそれで悪いことでは無いだろう。

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