10 了
あの夜以来、例の影は現れていない。一週間経って入谷氏に確認の電話を入れたところ、彼はそう語ったという。
「アフターサービスで呼ばれることは無いでしょうね。あやさんは素直そうな子でした。そうなれば新たな「こいしさま」を作ることも無いでしょうし」
そういって沙也加は手元の石を弄んだ。あの後、中村あやと別れた後、改めて中身を確認してみたところ、やはり”入谷ユウスケ”と刻まれた石が包まれていた。申告通り中村あやの物とおぼしき髪の毛と小銭も入っていたが、そちらも別に保管している。
「しかし残念ですねぇ」
「何が?」
「この石はいわば呪物ではありませんか。持ち帰ることで烏乃書店か自宅にあの影が現れたりしないかと少しだけ期待していたのです」
「いや……別にサヤさんに執着してるわけじゃなし」
あるいは、中村あやの他愛の無い勘違い……『沙也加が入谷氏に近づく女性である』というのをそのまま進行させていれば違ったかも知れないが。
「なるほど……惜しいことをしました」
心底残念だ、と目を伏せた。
沙也加にとっては惜しいのだろう。彼女は怪異を視れない。視れないが、存在することを前提とした世界観に生きている。だから、その縁を求めて止まない。
一方で……よしんば少女の勘違いを進行させたまま持ち帰ったとして……いや、あるいはもし彼女が『こいしさま』の術者が執着する対象だったとしても、怪異と出会えたかは微妙なところでもあった。
彼女の退魔師としての強みは視えない代わりに怪異の影響を受けない、という体質だ。その強みが彼女にとって最大のコンプレックスでもあるのはジレンマだが……もし、彼女が怪異や呪いの渦中にあったとしても、何も起きない可能性が高い。
「しかしこの石を見てくださいよ。きちんと名前が彫られていますね。書体は乱れてますが」
彫刻刀などを使ったのだろうか、直線を無数刻んで束にして名前を刻みつけているようである。
「いや、むしろ乱れているからこそ、なんだか趣があると思いませんか?執念のようなものを感じられると思うのですよ。ヒトコワ的ですねぇ。実に良い……」
「執念、か」
入谷氏と中村あやのことを思う。あの二人の普段の関係性までは聞き取っていない。入谷氏は姪の面倒を見ている、という雰囲気だった。では中村あやはどうか……と考えるが、これもどこまで深刻に考えられるかは議論の余地があるだろう。
『こいしさま』という儀式の在り方を考えると中村あやは叔父に恋心抱いている、ということになるだろう。しかし彼女は父親と別居してもいる。父親に向ける親愛と恋愛を混同している……という解釈もできる。
石に文字を刻み込むのは確かに労力が必要だ。小学生女子ともなればなおさらである。が、これについても暇を持て余した小学生だからこそ、とも考えられる。
だから、執念とかヒトコワと言えるほど何かがある、というのは短絡的に過ぎるのではないか、とも思うのだ。
……別にそれを沙也加に伝えたりはしない。そんなことは彼女も分かっているだろう。
「しばらくは何も無いでしょうが、あやさんが成長するにつれてもっと別のトラブルとか起きそうじゃありませんか?例えば入谷さんに恋人が出来たり、結婚したりした日には新たな呪いに手を出すかも知れません」
そう語る彼女の声は弾み、瞳は爛々と輝いている。他人の不穏な未来を想像して。
そっちの方が面白い。
沙也加はそう思っている。だからそのように解釈して、笑みを浮かべている。
他人の人生を物語として消費する営みは不謹慎なものだろう。人間の認識が怪異を生み出す、という架空存在仮説の観点から言っても、この行為は新たな怪異を生み出す可能性もある。
それでも、沙也加はそうとしか生きられない。そして僕はそんな彼女と決別せず、隣に居続けてもいる。彼女の露悪にエクスキューズをつけてはいるが、結局同じ穴の狢なのかも知れない。
「……地獄に落ちるなら一緒に、か」
この間、沙也加に言われた言葉だった。沙也加にそういう覚悟があるのなら……僕も彼女の業には付き合うつもりでもいる。
「はい?」
僕の唐突なつぶやきにきょとんとした表情で聞き返してきた。
「いいや。それより、その石はどうする?呪いを解くみたいなこと言ってたけど」
「いやぁ……どうですかね。影がもう出ないなら解く必要も無いでしょうし……本当に何かあったらあの呪剣か、はたまたお父様にでも預かって貰って……それまでは私が保管していたいのですけど」
良いですよね、上目遣いで懇願してきた。おそらく僕から非難がましいものを感じたのだろう。確かにあまり褒められたことでは無い。中村あやとの約束を反故にしてもいる。
ただ……問題が起こるまで、と言っているし。それでも良いか。別に積極的に怪異を切除したい訳では無いし、それについ先ほど沙也加の業に付き合うと決心を新たにしたばかりである。
「いいんじゃない」と僕が言うと沙也加は「やった」と小さくガッツポーズする。背後には邪なものしか無いはずなのだが、この一幕だけを切り取れば無邪気な子供のようだ。
沙也加は改めて、刻まれた文字を指先で撫でた。そこにある、一抹の悍ましさを愛でるように。
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