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 入谷氏の住むアパートの最寄り駅周辺には浮ついたものも派手なところも無い。

 小規模な商店街と荒涼とした雰囲気を醸し出す月極の駐車場がいくつか。あとはひたすら住宅地が並んでいた。

 道中、ふと子供たちの賑やかな歓声が聞こえだした。周囲を見回すと小学校の校舎が視界に入る。

 沙也加はまさにその小学校の前で立ち止まり、その真向かいにある家を指さして「ここが先方のお宅ですよ」とそのまま玄関口のインターホンまで駆け寄った。

 ふと、立ち止まる。違和感があった。電信柱の影に、何かがいる。

「……女の子?」

 小学生低学年くらいの女の子だった。彼女はじっと、玄関の様子を……いいや、沙也加の様子を見ている。

 何故、こんなところに……いいや。こんな時間に、というのが正しい。平日の昼間だ。学校にいなければおかしい。

 彼女ははっとした表情でこちらを見た。僕の怪訝な視線を感じ取ったのかも知れなかった。彼女は何かに脅えるように、その場を駆けだしていく。

「何をしているのです?大丈夫ですか?」

「……いや、ごめん。今いく」

 違和感はあったがさほどのものでも無い。気を取り直して沙也加の後に続いた。

 依頼者の住むアパートは”メゾン・ド~”から始まる、いかにもアパートという名称をしていた。事前の沙也加の語りで聞いていた通り5階建て、依頼者は2階の一室に住んでいるという。

「失礼いたします。円藤と申しますが……はい。ご依頼の件で参りました」

 男性の声と数回やり取りをした後、扉のロックが開いた。

 入ってみるとエレベーターが存在しない。どうやら階段を上っていかねばならないらしい。ふたりして苦労しながら昇ることになった。沙也加が先に、僕はその後に続く。

 階段を昇る沙也加の姿を後から見ていると彼女の所作の良さが改めて感じられた。何度となく裾を踏みそうに見えたのだが、紙一重のところで足を裁いて回避する様子は見事の一言である。

 そんな風に気を紛らわしつつ、何とか階段を登り切った。ようやく依頼者と対面できる。


 入谷、と表札の掲げられた一室の扉が開き、中から出てきた男性に招かれて室内へとお邪魔する。小さめのテーブルに僕と沙也加、真向かいに家主が座る形で相対した。都内のアパートだけあってか、流石に三人座ると手狭に感じられる。

 その家主……入谷ユウスケ氏は30代の男性会社員である。埼玉生まれで大学生のころに東京で一人暮らしを始めた。今の住居に引っ越したのは就職してからだという。仕事場に近いこともあったし、近所に同じく状況してきた姉が暮らしているというのも大きかった。

 務めているのは池袋にある商社。文房具を取り扱っており、そこで事務職をしているとのことだった。本日は有休を取って対応をしてくれているようだった。

 あらためて話を聞いてみると、例の体験にはどうやら後日談があるという。

「あの後も、アレが追いかけてきてるような感覚がする日があって」

 あの一件以来、氏はベランダで一服していない。また何かが視える可能性を考えてのことだったが、しかし、アレの気配は無くならなかった。

 夜眠っていると、不意にアレが追いかけてきている、という感覚になる。目を固く閉じて眠ろうとするのだが、やはり扉を叩く音が聞こえるという。

 帰宅時、例の自販機の前を通りかかると不安が過ってくる。大体の場合は気のせいなのだが……

「ついこの間の話です。夜、帰宅する際に自販機の前を通り過ぎて、ああ、今日もいなかった、と安堵してたら」

 白い影が追いかけてくるのが視えた。影はやはり、笑っていた。

 どこから現れたのか分からなかった。自販機の前は警戒していたし、それが現れる可能性を考えて周囲を良く見回してたという。周囲を良く警戒していたが、ソレは急に現れた。

 視た瞬間、入谷氏は自室へと駆けだした。このアパートには階段しか無い。追いつかれる恐怖に駆られながら、息も絶え絶えに駆け上がったという。

 部屋に入り、鍵を掛けた次の瞬間……やはり、扉を断続的に叩く音が聞こえ始めたらしい。

「なるほど。それは毎日だったりするのでしょうか?」

 入谷氏は違う、と答えた。

「なんというか… …こっちが警戒している時には来ないのに、ふと気が緩むと現れて……かと思えば二日連続で来ることあって」

 いずれにせよ、意味が分からなくて不気味だし、凄い勢いで走ってくるのは心臓に悪い。

 確かに、怪談としてみるとビックリ系に分類されるだろうか。話として聞く分には趣もへったくれもないものだろうが、当事者としては気が休まらないだろう。

「確認したいのですが、部屋の中には入られていないのですね?」

「……そうですね。アパートの敷地には入ってきてるし、扉の前にも来てるけど」

 部屋の中にまでは入れない。……もしかすると今のところは、というだけかも知れないが、それは口にしなかった。氏の恐怖をいたずらに煽ることになりそうだったからだ。が、彼にもその可能性は頭にあるように思えた。言葉にしないようにしているだけだ。

「ふむ……では、実際にベランダを拝見しても?」

「ええ。是非お願いします」

 というわけで入谷氏が喫煙していたというベランダに失礼する。

 事前の話にあった通り、真向かいに自販機が見えた。赤い色をした世界的大手メーカーのものである。

 なんだろう、ちょっと不謹慎だが……ワクワクする。こういう仕事をしていると怪談の現場には何度も足を踏み入れることになるのだが、何度行っても気持ちが逸る。例えるなら初めていく古本屋の書棚を眺めるときの感覚に近い。概ね興味が無い本や既読のものなどが目を散らす一方で、これはというものが目の中に飛び込んでくるあの予感……

「セキくん?」

「あ、はい」

「なんか魂飛んでません?」

「……いや、大丈夫」

「なら良いのですが」

 いけない、と気を引き締めた。これは仕事。目の前に実際に困っている人物がいる。面白がるのはあまり褒められたことではない。

「あの自動販売機ですか」

 沙也加の問いに入谷氏が「はい」と答えた

「後ろ側からひょっこりと……出てこようか出てこまいか迷ってる、みたいな素振りを見せていました」

 それが深夜のことだったという。午前0時から2時過ぎ頃までの間らしいが、正確な時間までは覚えていない。おおよそそのくらいだったろう……と言う程度の推測である。

 今現在、例の影というのは視えない。見間違えそうな物も存在しなかった。陽光が高く燦々としているし、近くの小学校からは笑い声が断続的に聞こえてきている。その時の状況とは何もかもが違うのだろう。

 それからいくつかの現場検証を行ってみた。まず沙也加が実際に自販機の影に入り込んでみようとした。入谷氏が視たという白い影と同じ挙動が人間に可能なのか、という実験である。

「僭越ながら私が行きます。私の体質なら何かがいても問題ありません。実験ですよ、実験!」

 と頼もしい言動と共に駆けだす足は弾みに弾んでいる。

 そういうわけで沙也加は影がいたという自販機の左側の影に入り込み、ベランダで待機している僕たちを見上げる。むん、と妙に得意げな顔と共に両手を前に垂らした。幽霊にしては古典的過ぎるだろう。

「あんな感じでしたか?」

「ちょっと違いますね」

 入谷氏が視たの様子ではもうちょっと……自販機の後ろ側からちらちらと伺っているような雰囲気だったらしい。

 が。

「無理ですねぇ」

 沙也加が見たところそれは不可能なようだった。

「人が通れるほど隙間が空いてません。ブロック塀に何かトリックでも無いか……と確かめてみましたが」

 無かった、という。

 僕と入谷さんも確認してみたが確かに不可能だった。入谷氏にも見た光景の再現をお願いしたが、彼自身にも記憶通りの挙動は不可能だった。

「こうなると、です。もはや怪異の介入は疑いの余地がありませんね」

 しかし、問題は「何が白い影を作り出したか」だ。怪談なのか映画なのか噂話なのか。あるいは入谷氏の過去のトラウマ、と言う可能性もある。はたまた、他人との関係性との上で成立した怪異という線も捨てきれない。これからそれを探っていかねばならない。

 まず事前に疑っていた例の洒落怖のエピソードを知っているか、それとなく探りをいれることにした。

 が、「はぁ」と気のない様子を見せるにとどまった。少なくとも『猛スピード』は違うらしい。かなり似た話だったので当たりをつけていたのだが外れたようだ。

 では他の怪談……各種ババァ系とか口裂け女とか、そういう系だろうか……と聞き込みをしてみたが、そちらも芳しくない。

 どうやら入谷氏は怪談やホラー系の作品にはあまり興味が無いらしかった。僕たちのような退魔師にコンタクトを取ったのも知人にオカルト系のライターがいて、藁をも縋る気持ちで相談した……ということらしい。

「……我々の説では、怪異というのは人間の想像力に依存するものです。この場合は恐怖と言い換えても良いでしょう。その恐怖の源泉となるようなことが無いか……と考えているのですが」

 映画、アニメなどの創作。あるいは過去の体験。そうしたものの中で”追いかけられること”に強い恐怖を抱いた経験は無いか、と尋ねたが、心当たりがある様子は見せなかった。

 物件ないし土地自体に刻まれた何かでは無いか、という可能性も少なそうである。少なくとも前者に関して、入谷氏は依頼を出す前に不動産屋に問い合わせをしていたが、返答は「そうしたことは無かった」というものだったという。

「事前に私の方でも情報をさらってみましたが、こうした追い掛け系の怪異が発生する土壌は無さそうでした」

 少なくともネット上の情報ではそういうことになるらしい。文献や新聞記事などに遡ればまた違った情報も出てくるだろうが……

 手詰まり、ということか。僕は落胆していたが、沙也加の表情はそうでもない。なんだか興奮している様子すらある。

「分かりました。ここは様子見です」

「様子見、ですか」

「ええ。まず本日ですが、私たちでこの周辺を巡回します」

 沙也加の言うところとしてはこうだ。実際の時間帯……深夜帯になって例の影が現れるかどうかをまず確認したい。

「夜まで周辺の調査などを行います。それで夜になったら再訪させていただき、実際の状況……より怪異が現れたのに近い時間帯でですね、確認などしたいのですが。ご都合よろしいでしょうか?」

「それはもちろん……土日も休みですし、姉貴たちも来ないんで」

 大丈夫、ということらしい。

 何かあった際にはこちらまで、と業務ケータイの番号を指定し、僕たちは一度入谷氏宅を出る。

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