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 入谷さんが暮らしているのは都内の1LDKである。大学のために上京し、こちらで生活し始めてから10年ほど経っていた。職業は文房具や事務用品を会社に卸す問屋である。決して大手ではないが、安定してはいると思う。

 アパートは5階建てで、彼の部屋は2階にあった。ベランダがあり、入谷さんはそこで煙草を吹かすのが日課になっていた。なんとなく、外の様子を眺めながら煙草を燻らす時間が入谷さんは好きだった。

 入谷さんの帰宅時間は遅い。この日課は帰宅して夕飯を摂ってから少し経った深夜……午前0時から2時の間にすることが多かった。

 その日も彼はいつもと同じように道路を見下ろしながら、煙草を吸ってぼんやりと過ごしていた。

 ベランダから見える景色はとりたてて何があるということも無い。ただの路地である。街灯も無ければ、コンビニなどの店舗もベランダからは見えない。

 唯一の灯りと言えるのが自動販売機だった。煙草を吸っている間、彼の視線はその光に引き寄せられていた。スマートフォンなどは見ない。スマホ断ちとかデジタルデトックスのようなことを目的に煙草を吸っている面もあったからだ。

 しばらく、そうして眺めていると、ふと違和感を覚えた。

 視界の端で何かが動いた。虫、だろうか。いや、疲れ目かも知れない。目頭を強く揉む。

 ……また、何か動いた。

 違和感の源は自販機の影だった。

 影が、動いている。

 伸びたり縮んだりを繰り……まるでそこに誰かがいるように揺らいでいる。

 背筋を虫が這うような感覚が突き抜けた。

 通りには誰もいない。いないはずだ。ベランダに出てから30分は経っている。誰も通りかかったのを見ていない。最初からずっとここにいたので無い限り……最初から、ここに?

 酔っ払いがウトウトしている、とか?だとすれば30分以上前から自販機の影で眠りこけていても可笑しくは無い。

 ……だが、影の揺らぎはそうしたものとは違っていた。なんと言うべきか……影の中から外の様子をうかがいながら、いつこちらに飛び出そうか迷っている。そんな風に見えた。 自販機の後に何かがいる。意思を持った何かが。

 あり得ない。見間違いだ。そう思おうとすればするほど、自販機の影を作り出している何者かの存在が脳裏から拭えない。視線がそこに釘付けになってしまう。


 煙草の灰が、足下に降った。素足にサンダルしか履いていない。その熱さに我に返る。

 入谷さんは煙草を吸うのも忘れて、自販機を眺めていたのだ。

 灰を払い、指先の様子を確認する。やけどにはなっていなさそうだ。

 ふぅ、と息を吐いた。

 自分は一体、何をしているのだろうか。思った以上に疲れがたまっているのかも知れない。気分転換のための日課だったが、これ以上夜更かしをするのも身体に毒だろう。

 入谷さんは屋内に戻ることにした。煙草の灰をもみ消し、振り返ろうとして……

 横目に捉えてしまった。影。気のせいでは無い。だって、ソレは……爛々とした瞳を大きく見開いて、こちらを見ていたのだから。

 ゆらり、と現れた影は真っ白だった。例えでは無い。影なのに白い、としか言い様がないのだ。自販機の光がソレを白く見せている、というのとも違う。

 まるで出来の悪いコラージュのようだった。夜道を映した写真に全く別の白い紙を人型に切って貼り付けたような、そういう異物感があった。

 肉感も無ければ存在感も人間らしくない。その中で、瞳だけがぎょろりとこちらに、確かな意思を持って向けられている。

 睨み付ける、と言うのでは無かった。どちらかと言えば、笑っているような。それが余計に気持ち悪かった。

 やがて、白い影は向きを変えた。ゆらりと、現れたときと同じように。入谷さんから見て左側に振り向いて、次の瞬間には駆けだしていた。そのまま、影はその場から去って行った。

 消えた……のだろうか。釈然としないものを残しつつ、入谷さんは部屋に戻った。

 ベッドの中に入ると、非常に心地が良い。やはり疲れていたのだろう、と思った。あの影は何処か可笑しかった。あんなものを見るなんて……

 そうして、うつらうつらとしている最中。ふと、思いついてしまった。

 あの影。表情は見えないが、笑っていることだけは分かる影。

 あの影は自分から見て左側に走って行ったが……そちらはアパートの出入り口がある方向だった。

 もしかして、アレは立ち去ったのでは無くて……自分のところに向かってきているのでは無いか?




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