自販機の前の幽霊 依頼人:入谷ユウスケ

1

「テリトリーというのは大事だと思うのですよ」

 薄暗い烏乃書店の座敷の中、円藤沙也加えんどうさやかはいつも通り、コーヒーを啜りながら語り始めた。

「例えば西洋で良く語られる吸血鬼などは、人間の家に入るためには家主の許しが必要とされていました」

「あるいは境や坂のような、この世とあの世の境界となる場所がありますね。しかし死者や亡者、狐狸の類いはそう簡単に境界を越えて人間のテリトリーには入って来れません。逆もまたしかり、です」

 許可が無ければ他人の家に入れない———幽霊だったか、それとも吸血鬼の話だったか。これも一つの類例かもしれない。

「精々、ハロウィンかお盆かくらいのものでしょう。それにしたって時期……つまり暦が境界を象っています。そういえばかつて、アメリカでにおいて「トリック・オア・トリート」と民家を訪なった子供が銃で撃たれるという痛ましい事件があったということですが、つまりはそれくらいされてもおかしくないのがテリトリーの侵犯なのですよ」

 沙也加は過去、人間がテリトリー、境界をどのように扱ってきたのか……そうした知識を語っていく。いつも通りの会話。人文学、民俗学的なこととか、あるいは怪異的なモノについて知識や持論を提示しあう他愛の無い会話の一幕。が、今日はそれだけでは済まなかった。彼女の一見穏やかな言葉の裏にはとてつもない感情が込められていたのである。

「それを……あの男はなんでしょう。グイグイとこちらを押し返さんばかりに詰めてきたのです!」

 かれこれ30分ほど彼女の話を聞き続けているが、何を言っているのかと言えば「コーヒーチェーンで隣に迷惑客が座ってしまった」という話である。

「……いや、それはいいのです。喫茶店は半公共の場所です。百歩譲れます。しかし、ですよ?私のノートの上はもう私のテリトリーでしょう?あの輩はそこに何の遠慮も無くモバイルバッテリーを置いてきて、それに抗議しようとしたら邪魔だと言わんばかりに睨み付けてきたのですよ。どう思います!?」

 よほど腹に据えかねているのだな、と思った。

「大変だったね」と当たり障りの無い同意を示しつつ、彼女くらいになるとちょっとした愚痴にも知識を覗かせてくるのだな、と感心する。半分くらい屁理屈かも知れなかったが。

「まぁ確かに『自分が世界の中心』みたいな感じで来られるとムカつくだろうね」

「そうでしょうそうでしょう!?別にこちらは……まぁ振り袖を着てたので多少邪魔になっていた可能性はありますが……」

 彼女は常に和装している。洋服の類は中学高校時代の制服しか持っていないらしい。

 そういう、彼女の偏った嗜好がトラブルを引き起こした可能性に自分で気づいて彼女の火勢が若干弱まったが、しかしすぐに勢いを取り戻した。

「それにしたってあそこまで詰めてくる必要も無いし、というか言いたいことがあるのなら直接言えばいいのです。それをなんだってあんな……」

 しかし彼女がここまで怒りを爆発させているのは珍しい。

 普段こういうことが無い分、僕は彼女の言葉になるべく真摯に付き合い、ほどほどに相槌を打つことにした。往々にして感情とは共感とか共有によって昇華されるものだろう。

 しばらくして、彼女の怒りも多少は納まってきたらしい。一息吐くとようやく「そういえば」と別の会話へと意識が向かった。

 ああ、と安堵する。彼女が怒りを抱えているというのは珍しかったし、それは眺めるのも趣があるような気もするが……あまり怒りすぎても精神衛生上良くないだろう。

「テリトリーで思い出したのですが」

「はぁ」

 この話、まだ続いていたらしい。

 ともあれ彼女の話に共感を示そう、と考えたばかりのことである。おとなしく、次の言葉を待つことにした。

「テリトリーを侵犯されるかも知れない、というのは大きな恐怖ですよねぇ?最近、そういう体験をしたという方のお話を聞いたのですが」

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