野良犬の巣編3
「まず、その格好! どうにかしないとね。目立ちすぎるよ」
「そ、そう? 庶民に見えるように用意してもらったはずなんだけど」
「用意したやつもバカで世間知らずだったんだよ。マティアスと同じだね」
クーは身分の高い人間に対して、かなり失礼なことを言っている。でも、この
装飾の少ない革のブーツは庶民が持っているものと同じ形かもしれないが、よく磨かれていてつやがある。
亜麻色の髪は風に揺れると輝いて、白い肌は日焼けを知らない。近くにいるとよい香りがする。クーには想像もできない話だが、貴族は毎日入浴すると聞いたことがあるので、そのせいなのかもしれない。
クーは地面の土を、爪を使って適当に掘り起こして自らの手を汚す。そして汚れた手を容赦なくマティアスの頬になすりつける。頬、髪、そして外套の裾やブーツ、クーがそれまで見たこともないほどの綺麗な存在を汚す作業は、ひどく楽しいものだ。
クーの意図がわかるマティアスは抵抗せずにじっとしている。でも、紫を帯びた青い瞳は明らかに困惑していて、それがまた彼女を愉快にさせる。
「うぅ……、ざらざらする」
「我慢しなよ。でも、いいかんじになったと思う」
やりすぎてしまった部分をぬぐって自然な仕上がりを目指せば、そこには先ほどよりもこの場所に馴染む姿になったマティアスがいる。
「支度もできたし! 行こう、マティアス」
クーが手を差し出せば、マティアスは少し顔を赤らめてその手を取る。
「なんで赤くなってるの?」
「あの、僕……女の子と手をつないだことなんて、なくて……」
「ぶっ! マジで言ってんの? マティアスって何歳?」
「十五だけど」
「ふーん、私より二つも上なんだ。全然そう見えないけど。あぁ、でも手にはまめがある」
日頃から美味しいものをたくさん食べているはずの貴族の少年は、身長こそクーよりも頭一つ分高いが、ほっそりとしていてどこか頼りない。唯一、手の平に剣を握ることでできるまめがあることが、男の子らしい部分と言えるだろう。
「それは、ブリュノさんと比べるからでしょ?」
「ロイや他の男の子と比べても、そうだよ」
ブリュノやロイはマティアスとは一つしか違わないはずだ。身長や体格のこともあるが、働かなければ死んでしまう環境にいる野良犬の巣の住人のほうが、マティアスよりもずっと大人びている。
少し、拗ねたように頬を膨らませるとさらに子供っぽくみえるというのに。クーがそのことをからかうと、さらに真っ赤になって拗ねるという悪循環だ。
マティアスという少年は、どこか抜けていて育ちがいいせいで庶民的な常識は持ち合わせていないようだ。でも、野良犬の巣の住人を汚らわしい目で見ることもないし偉そうでもない。クーが初めて会った貴族の少年は綺麗で、迂闊で、不思議で……放っておけない男の子だった。
***
「大丈夫だよ。雇われたんだから、ちゃんと仕事をするし!」
「うん」
少し怯える少年としっかりと手をつないで、クーは五番街までやってきた。ここまでくれば、人目もあるし大通りから離れなければ危険も少ない。
クーはマティアスの巾着から、出してもぎりぎり問題のなさそうな硬貨を拝借して、牛肉の串焼きを二本買う。そしておつりはしっかりと案内料として自分の上着のポケットに突っ込んだ。
「これだけでいいの?」
「だから、マティアスは相場とかお金の価値とか、全然わかってないよ」
クーはちゃっかり彼女の一月分の稼ぎを頂戴していたのだ。野良犬の巣の住人たちの仕事は基本的に日雇いで、正規の職でないことから賃金も安い。だとしてもそれなりの金額をもらったのに、文句を言うどころか、足りないのではと心配をする。
「次に町にくる時には、そういうところちゃんとしなよ。でないと、またひどい目に遭うよ」
クーは五番街の中心を流れる川の土手に座って串焼きを食べながら、マティアスに注意をした。おそらく怖い目に遭ったはずなのに、危機感が足りないように思えたのだ。
「うん、ごめんね? 心配をかけて」
「いや、別に心配とかしてないし」
マティアスも土手に座って一緒に串焼きを食べる。きっと普段はナイフとフォークを使って食事をしているのだろう。クーの食べ方をよく観察したあとに真似をして食べてみるが、鼻や口の周りにタレと焦げがついてしまい困っている。
「……ねぇ、クーは普段なにをしているの?」
「うーん。バザールのある日はこのあたりで芸を披露して小銭をもらってる。あとは時々酒場でも芸を披露しているし、日雇いで掃除とか?」
「バザールのある日なら、このあたりで会えるかもしれないってこと?」
「え……。まぁ、そうかもね」
「僕はね、もうちょっとこの国のことを知らなければならないんだ。だから従者に頼んで庶民の暮らしを見学しようと思ったんだけど……。根本的にわかってなかったみたい」
根本的にわかっていないという自覚をもてたことだけでも、彼にとっては収穫なのかもしれない。クーはなんとなくそう思った。
「だから、教えてほしいんだ! いろいろなことを」
「へ? ふ、ふーん? 別にちゃんとお金払ってくれるんなら、雇われてやってもいいけど」
クーがそう答えると、マティアスはぱーっと表情を明るくする。
「マティアス様!」
背後から少年の名を呼ぶ声がする。クーが座っている土手から通りのほうを見ると、マティアスよりいくつか年上の青年が、あせった様子で走ってくる。
「お忍びなのに“様”とか大声で言っちゃってる時点で、君の従者も迂闊だからね?」
「うん、……帰ったら二人で反省しておくよ」
マティアスの従者は栗色の髪の青年で、険しい表情で近づき、マティアスの隣に座る少女の存在に気がつく。
二人で仲良く口や鼻を汚しながら串焼きを食べる姿を目にして眉をひそめる。
「お前は……?」
青年が不快感を隠そうともせずにクーをにらむ。
「こちらのお坊ちゃまが、ならず者に追われていたところをお助けした者です」
クーはすました表情で淡々と説明する。青年はマティアスとは違う種類の貴族だ。マティアスに対しては年齢が近いことや、クーが助けてあげたという優位性からくだけた態度をとってしまった。でもこの青年に対してそれをしてはならないのだとすぐにわかった。
物心ついたときから見世物小屋で働き、今は大道芸と日雇いの仕事でなんとか生きているクーは、そういう常識や判断力を持ち合わせている少女だった。
マティアスが青年に聞こえないくらいの小声で「僕の時と態度が……」とぶつぶつつぶやいているが、クーはそれを無視して青年の様子をうかがう。
「……そうか、礼が必要か?」
「いいえ、すでにお坊ちゃまからいただいておりますので」
「では、マティアス様。長居は不要です、帰りましょう」
青年はマティアスを立たせ、はぐれた時からずいぶん汚れてしまった彼の姿に大きくため息をつき、守るようにしながら歩かせる。
「ク、クー! 助けてくれてありがとう。……またね」
クーはマティアスと従者が消えていく様子をただ眺めていた。
五番街から王都の中心の方を眺めれば、高くそびえる四本の塔が視界に入る。
塔と丸い屋根が特徴的な王宮は他の場所より少し高い場所にあり、王都のどこにいてもよく見えるのだ。
王宮、そしてそれを取り囲むように広がる貴族の住んでいる地区。きっとマティアスはそのどこかへ帰っていくのだろう。住む世界の違う二人が再び会うことなどきっとない。たとえマティアスが望んでも、従者が許さないはずだ。
だからクーは「またね」の言葉に返事はしなかった。
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