野良犬の巣編4



 裏口から王宮に入ったマティアスの汚い身なりをとがめる者は誰もいない。門番も女官たちも一瞬ぎょっとした顔で彼を見るが、彼が何者であるか気がついて、その場でさっと頭を下げる。


「殿下、まずは身をお清めください」


「うん、心配をかけたね。アラン」


「いいえ、お守りするはずが、申し訳ありません」


 殿下と呼ばれたマティアスは、汚れた服のまま王宮にある私室へ向かう。

 部屋に入ると、乳母――――赤子のときから仕えてくれている古参の女官が、あるじのひどい服装に驚いた顔で出迎え、すぐに湯の準備を整えてくれる。

 マティアスはクーにつけられた泥や砂を石けんを使ってきれいに洗い流したあと、香油のたらされた湯の中に入る。


「おもしろい子だったな……」


 たくさん歩いたせいで足が痛む。帰ってきたという安堵から、一気に疲れを感じてきた身体をたっぷりの湯で癒そうと、マティアスは肩まで湯につかる。

 紫を帯びた青い瞳を閉じて、彼が考えたのはさっき別れた少女のことだ。

 燃えるような赤い髪は肩の付近で切られていて、彼女が怒ったり笑ったりするたびに一緒にゆれていた。琥珀色の意志の強そうな瞳、ちょっと口は悪いが文句を言いながらマティアスを助けてくれた少女。彼女のことを思い出したマティアスの頬は自然にゆるむ。


 同時に、迂闊うかつだと言われたことも彼は忘れていない。

 彼女が野良犬の巣と呼んでいた最貧民街。親もなく、きちんとした仕事もない。住んでいる家には扉すらなくカビくさい。あんなところで同世代の少年少女たちが暮らしていることなど、マティアスは知らなかった。

 自身で買い物をしたこともなく、物の価値がわかっていなかった彼は、クーの言うとおり、世間知らずのお坊ちゃんなのだ。


「そうだね、僕は知らないことが多すぎるみたいだ。伯爵はわざと……?」


 はじめて訪れた五番街、一般の民が暮らす場所でマティアスがなにか危険な目に遭う。彼に民の暮らしぶりを見てこいと言った人物は、そうなることも想定していたのかもしれない。

 マティアスは重たいため息をつく。疲れた状態で考えなければならないことが多すぎるのだ。


「あの人が何を考えているのか、僕にはよくわからないよ……」


 たぶん、試されているのだろう。マティアスは世間知らずかもしれないが、勘はそれなりにするどい。


「失礼いたします。殿下、クィルター伯爵が面会をお求めです」


 扉の外から声がかけられる。


「……ははっ、さっそく? すぐに出るから、部屋にとおしてもらってかまわない」


 民の生活を見てこいと言った人物、クィルター伯爵の絶妙なタイミングでの登場に、マティアスはもう一度ため息をついた。



***



 王族らしい服に袖をとおしたマティアスは、私室と続き部屋になっている別室の扉を開ける。

 ソファの置かれたその部屋で、立ったままマティアスの到着を待っていたのは、白髪交じりの灰色の髪に口ひげを生やし、難しい顔をした紳士だ。その横にはアランもいる。伯爵とアランは親子なのだ。


「伯爵、わざわざ僕の様子を見に来てくれたの?」


「町ではいろいろおありだったとのこと、お疲れでございましょう?」


 しれっとした伯爵の態度を見て、アランが何かを言いたそうにしている。仏頂面が似ている親子だと、マティアスは少しおかしくなる。


「そうだね。今日わかったのは、僕たち……アランも含めてだけど、僕たちは民のことをまったくわかっていないってことだけかな。……伯爵はそれを教えたかったの?」


「殿下はお優しい。町で殿下がしいされることを望んで、私が外出をおすすめしたとはお考えにならないのですか?」


「だとしたら、アランは同行させないでしょう? 僕はあなたに恨まれる理由もあるけれど、手助けしてもらえる理由もある。……そうでしょう? 伯父上」


 マティアスは伯爵のことをあえてそう呼んだ。マティアスの亡き母はクィルター伯爵の妹なのだ。もっとも、ある事情により国王の正式な妃になれないままマティアスを産んだ。そのことで、生家であるクィルター伯爵家は力を失った。

 マティアスも彼の母も、伯爵にとっては血縁であるのと同時に、家が没落する原因となった迷惑きわまりない存在なのだ。


 クィルター伯爵は危険を承知でマティアスを町へ行かせた。アランを同行させたのは、何かあった場合には伯爵家がいさぎよく罰を受けるため。マティアスはそう予想していた。


「今日はね、野良犬の巣に住んでいる子に会ったんだ」


「殿下っ! そこは不法占拠している咎人とがびとが住まう場所です! ……まさかあの少女も……」


 アランが顔色を変えた。まるで野良犬と呼ばれている彼女たちが本当に自分たちとは違う生き物であるとでも言うように。


「きれいごとだってわかっているけど、親を戦で失ったのはあの子たちのせいなの? ネオロノークの教えでは、赤子の魂は平等だってことになっているのに?」


「ですがっ!」


 アランは悪い人間ではない。でも少し、頭の堅い人間だとマティアスは思う。

 野良犬の巣でクーと一緒にいた少年二人は自分たちの縄張りの外であれば、見ず知らずの人間がどうなろうが知ったことでないという態度だった。あの場所ではマティアスは無条件で守ってもらえる存在ではなかった。


 ならず者に追いかけられていたとき、地面に座り込んでいる子供や老人の足に何度かひっかかりそうになったが、あれははたして体を休めていただけなのだろうか。マティアスにはっきりとした確信があるわけではないが、きっと違うのだろう。あの場所では人の命はひどく安いのだ。


「あの子は見捨ててもいい存在の僕を心配してくれたんだ。……僕がわかったのは、僕が無知で、たとえこの国の現状を正しく理解してもなにもできないということだよ。……今はね」


 マティアスの言葉を、伯爵は黙ってただ聞いている。きっと彼にとって満足のいく結果となったのだろう。


「伯爵、僕にこの国の本当の姿を見せて、いったいなにをさせたいの?」


 王子でありながら、なんの権力も持たない。おそらく政治に関わることなど今後も許されない立場のマティアスが知ることは、本当に必要なことなのだろうか。

 見ているだけで、手が届かないと最初からわかっていることを知ってしまうのは、マティアスにはひどく恐ろしく感じられた。


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