第56話

 そこからは無我夢中だった。

 ドアを平常に戻し、動かなくなった男の体を道に捨てて急いでその場を去った。

 後部座席に乗る新人の呼吸音が聞こえなくなったが、生きているのか死んでいるのか気にする余裕はなく、ラボに向かった。

 マルクを運んだ時のことを思い出す。まさかこんな短期間に同じことをするとは想像もしていなかった。

 マルクよりも小柄な新人だが、女一人で運ぶには厳しい。

 それでもどうにかしなければならないので、必死になって背負う。

 背負った拍子に死ぬことはないだろうが、それでも運ばなければどうにもならないので殺してしまうのを覚悟でラボに入る。


「はぁ、おっも」


 腰を九十度に曲げる勢いで背負う。

 医療班の元へ行くが、やはり誰一人としてこちらを見ない。

 苛立つサツキは部屋中に響く声量を出そうと息を吸い込んだが、近くにいた医療班の女性がサツキの顔を見るなり数人に声をかけて駆け寄って来た。

 マルクの件があるからだろう。


 サツキの背に重くのしかかっていた新人を渡す。

 まだ少し息があるのを確認し、安堵した。


 数人がかりで新人を連れていく様子を眺めていると、何故だかマルクに会いたくなった。

 恋しい。

 その思いだけで足が動き、マルクがいる病室まで行く。

 脳みそが働いていなくても指だけはセキュリティを突破するために動く。

 扉が開き、吸い込まれるように足を踏み入れた。

 広い部屋にベッドがいくつか並べられているその一つにマルクは横たわっている。

 寝ているかもしれないと思い、ゆっくりと近寄る。

 横に置かれている簡易な椅子に座り、綺麗な寝顔をじっと眺める。


「なんだ」


 ぱっと瞼が開けられ、マルクと目が合う。

 驚いたサツキは椅子から転げ落ちそうになり、体勢を直す。

 その様子を鼻で笑いながら、マルクは上半身を起こした。


「暇なのか」

「ま、マルクさん起きていたんですか...」

「お前に起こされたんだが」

「すみません」


 特に話をするわけでもなく、俯きながら、しかし時折マルクをちらっと見るサツキに鬱陶しそうな表情で「言え」と短く言い放った。

 自分のせいで睡眠時間を削らせ、更に構ってちゃんのような態度をとってしまい、申し訳なさや羞恥で顔を覆いたくなる。


「今日、メインの仕事をしていたのですが、暗殺班の方が殺されてしまいました」


 ぼそぼそと話し始めたサツキ。

 マルクは口を出すことなく静かに聞く。


「私と新人はその場を離れることになったのですが、目標が一枚上手で、新人が深手を負いました」


 その新人は今頃医療班に手当をしてもらっていることだろう。


「手負いの新人をラボに連れていくため、運転しようとしたのですが目標に阻まれてしまい、どうにかしなければと思って」


 一度、こくりと喉が鳴った。


「マルクさんから頂いたもので、至近距離で撃ち殺しました。マルクさんに渡す予定だった薬を二つ、呑み込ませた上で...。私は今日、人を殺しました」


 殺さなければ自分が死んでいた。

 あの時の判断は間違っていない。我ながら頑張ったと思う。

 けれど、あんな至近距離で一人の人生を終わらせてしまった。


「だから、何だ。お前は善人か?」

「違います」

「今までも殺しただろう。今日が初めてみたいな言い方しやがって」


 海に突き落とした、車で轢き殺した。

 それを何だ、急に。


「あんな小さな物で人の命って奪えるんですね」

「今更か」

「今更です。あんなもので人生が終わるんですね」

「さっきから何だ。俺は善人が嫌いだ」


 俯くサツキを怪訝な表情で見下ろす。


「善人ではありません」

「ならお前は何の話をしているんだ」

「命の重さについて話しています」

「ハッ、人の命は何よりも重いとか言い出すのか?」


 馬鹿にしたような笑いに、サツキは顔を上げる。

 蔑んだような表情をしていても、綺麗な人は綺麗だ。どんな表情をしていても、土台が美しいとすべてが美しい。

 しかし、今日はやけに綺麗に映る。

 造り物のような顔立ちは、いっそ神のようだとさえ思う。

 瞳を大きく開いて見つめるサツキに「あ?」と睨みをきかせる。


「命って、軽いんですね」

「は?」

「私が指を動かしたらすぐに死にました。人差し指を引いただけで奪えたんです、命を」

「あぁ」

「こんなものなんですね。こんなものかぁ、なんだ」


 大したことないんですね、とでも続きそうな言葉にマルクは喉を鳴らして笑った。

 サツキの顎を持ち、顔を近づける。


「お前、あんだけ俺の傍にいたくせに今頃分かったのか」

「はい。自分でやると違うものですね」


 人殺しに加担していたし、自ら殺したことだってある。

 けれど殺すことを目的として作られた武器を持って一人の人生に終止符を打った。

 尊いと言われている命はこうも簡単に終わる。引き金を引いただけで終わってしまう。

 本当にそれは尊いのか。

 その辺を歩く蟻を踏みつけた時と変わりない。

 銃を握る手が震えていた、あの時の自分は一体何に怯えていたのか。


「私は、メインじゃなくてマルクさんの専属として働きたいです。だから、早く傷を治してください」


 綺麗で、横暴で、いつだって恐怖を与えるこの男を嫌いではなかった。

 今までは少しだけ、サツキは人殺しのマルクに好感を抱いていた。

 今となっては自分もマルクのように人を殺した。引き金を引いたとき、マルクへの好感の糸も一緒に引いたと錯覚した。

 会いたい、恋しい、寂しい。

 ぐんと跳ねあがった感情に、名前はない。


「ハハ、誰に向かって言ってんだ」


 サツキの顎を掴んでいた手を目元に移し、気に入っている三白眼を皮膚越しに触る。


「お前は死ぬまで俺の下で働け。俺の命令に従い、俺の望むことをして、俺の後ろをついてくればいい」

「はい」


 その言い方ではまるで奴隷だ。犬から降格したのか昇格したのか。

 瞳を三日月のように細めて笑うマルクを視界に入れ、犬だろうが奴隷だろうが、この人と一緒にいるのなら何でもいいと思ってしまった。


「一生、ついていきます」


 そう言ったサツキの瞳は、もう一筋の光すら宿していなかった。

 良い目になったなと、マルクは笑みを深くして額を合わせ、サツキの瞳を至近距離で覗き込んだ。

 最期までこの瞳を見たい。

 そう思い、瞼の上から眼球を舐めた。

 湧き上がっている感情が何なのか、互いに知らないまま漂う雰囲気に呑まれていった。

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職業は、暗殺者専属の運転手です 円寺える @jeetan02

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