息子の葬式

nekojita

息子の葬式



 そのマンションには狭いながらも和室がある。布団を敷いて、子供部屋にするのにぴったりだ。それが気に入って夫婦は契約したのだ。まだ、おもちゃや育児用品を買い集めてはいない、それはさすがに、気が早い……。

 夫は公務員。妻は大学の秘書。平均的な家庭。

 和室は、今は電気がついていない。障子風に仕立てられた窓からは、似つかわしくない東京の夜景が見える。


「ただいま……」


「あ、帰ってきたのね。」

「うん。健診、どうだった?」

「男の子だって。」


 勝の目が輝く。

「本当に?!それはすごい!」

「だから中絶したの。」


「は?」


「中絶よ」


 勝は、言葉を失う。「え、どういうこと?」


「今は注射一本で、簡単に中絶できるのよ。」


 この近未来の日本では、注射一本ですぐに終わる安全な中絶法が開発されている。

 さらに、母親の判断だけで中絶ができる。

 それは現代では説明や議論の必要もないほど当たり前のことである。出産で実際に苦しい思いをするのは母親なのだから当然のことだ。

 むしろ前時代、なぜ夫の同意を必要としたのだろう? 望まぬ妊娠に苦しむ、そして出産を強制される、可哀想な女性たちを放っておいて。


「でも、どうして……?」


「男の子って育てにくいらしいじゃない」


「えっと……」勝は言葉を探す。言うべき言葉を見つける前に、奈緒は顔を上げて、平然と言う。


「男の子は将来的に大変だし、苦労するでしょう。私の友達もみんな女の子がいいって言ってたの。それに今回中絶したって、またすぐ妊娠できるし。」

 勝は、彼女の顔をじっと見つめた。

 奈緒の顔には普段通りの、微笑とすら言えるような、平穏な表情が浮かんでおり、彼女の中では本当にそれが当たり前の判断のように思えているようだった。

「あなたが協力してくれるなら、今夜にでもね」


 普段通りの優しい笑み。

 魅力的ですらある。

 だが彼女は、今日の昼、健康な息子を、それが男で育てにくいかもしれないという、だけの理由で、こ、殺したと言っている。


 そしてこの……この人物を捕らえ、罰する法はない。倫理という地軸が覆され……マンションの床が溶けてグラグラと、揺れるような感覚に、勝はもはやなすすべもなく身を任せていた。


「さすがに当日は、」なんとか絞り出した言葉がこれ。「やめたほうがいいんじゃないか。体に負担があるだろう」

 目を逸らして言う。


「そうかしら、でも痛みもなにもないのよ」


 勝は、あくまで妻を気遣うような態度を見せながら、中絶された胎児への共感や同情が妻の中にひとかけらでも、存在しないか、探そうとしたが……。


「そうだ、産休を取り消しするって連絡しないとね」


 その試みには失敗した。


 代わりに考えた。奈緒を責めて何か解決するだろうか。


 奈緒に勝が自分の倫理を伝えて、共有し、許されないことをしたのだぞと、自覚させ得たとしたって、それは相当難しそうだが成功したところで、奈緒が傷つくだけだ。中絶された胎児は戻って来ない。

 それに、そもそも『進歩的』な価値観からすれば。

 自分はそれに詳しくないが、そもそも自分のほうが、間違っているのかもしれぬ。


 勝には。

 眼の前の問題や倫理の全てを棚上げにして、過酷な施術を受けてきた(注射一本だけということだが、子供を喪うのだから、過酷な施術のはずだ!)奈緒を気遣うのが、とりあえず社会的に正しい振る舞いのように思われた。

 社会的動物として、集団の中の役割を、その場その場で演じればよい。彼はずっとそうやって生きてきた。男という生き物として。ネズミがおのれの子の毛繕いをするがごとく。

 それに、たとえ、相互理解が不可能な怪物に見えた瞬間があったとしても、勝は奈緒を愛していた。いや、愛しているのだ、今でも。


「大変だったね」と勝はやさしく声をかける。


 奈緒は一瞬、彼の顔を見つめ、微笑みを浮かべて言った。「ええ、でもすぐ終わったから」


 ……頼むから、大変だったと言ってくれ。




 せめて奈緒が焦った調子で、罪悪感を持って告白したのならば、勝は落ち着いて言ったかもしれない。

「奈緒、落ち着いて。今から車を出す。一緒にその死胎を捨てに行こう」と。

 ところが息子は、勝はその中絶法の詳細な理屈は知らないが、知らないけれども、すでにおのれの一欠片もこの世に残さず消滅してしまったらしい。さらに奈緒には、一片の、良心の呵責さえ見られない。

 彼女の罪をきびしく指摘する官吏も判事もない。

 これでは勝の精神は、奈緒を弱者として庇うことができない。勝は苦しむ。この局面で真の弱者と言ったらむしろ……。




 勝は苦労してそのような思考から離れ、その場をしのぐように言った。

「疲れているだろうから、今日は早く休んだほうがいいよ」


 奈緒は少し考えた後、「うん、そうするわ」と言った。


 夕食の時、奈緒はテレビを付けた。少しも少しも疲れた風ではなかった。勝はテレビなど見たくはなかった。食欲もなかった。でもなんとか食べた。奈緒の作ってくれたオムライスを。それはいつもどおりの、手の込んだ料理だった。


 勝の倫理では、つまり古い男性としての倫理ではという意味だが、この場面で声を荒げたり、ショックを受けた感じを出して奈緒を心配させたり、奈緒を責めたりしてはならなかった。

 食べながら、奈緒のほうがつらいに違いない、と念じた。ほとんど祈るように。奈緒のほうがつらいに違いない、奈緒のほうがつらいに決まっている……。たとえ外観上とてもそうは見えなくても。

 そして中絶するかどうかの決定権は究極的に腹を痛めて生む母親にある。育児も結局母親が中心的な役割を担うのだ。勝は勉強して知っていた、だから俺に口を出す権利などない、それは議論の余地もないほど明らかな、常識的なことだ、と……。







 やがて奈緒の寝息が聞こえてきた。彼女はもう、安らかに眠りについているのだろう。悪夢も見ずに。


 勝は眠ることができなかった。


 起き上がり、ゆっくりと和室の扉を開け、中へと足を踏み入れた。

 部屋は暗く、ただ外からの夜景の光が窓の障子を通してぼんやりと部屋を照らしていた。彼は、部屋の中央に正座し、手を合わせた。



 息子は、遺体も残さず、消滅してしまった。

 息子の魂も、おそらくこの部屋のことは、知るまい。

 でも、この殺風景な和室は、息子の葬式を執り行うのにはふさわしいように思われた。



 息子よ。

 息子よ、まだ俺が名前も考えていなかった息子よ、お前のことに、正直俺は、喪うまで、まだそれほどの思い入れもなかったが……。

 お前の存在、まだなんの罪もないお前がこれから男として生まれるという事実は、どうやらお前の母親を、想像以上に追い詰め、苦しめたらしい……。


(客観的には、そんなに苦しんだ末の決断では、ないかもしれなかったが? と、勝の自我が勝に問いかける。だが、勝は言い返す。それで結果的に死ぬこととなった息子に、お前はそんな酷いことが言えるのか?)


 黙祷して、心のなかで口上を贈る。



 そうしながら整理をつける。それには長い時間がかかった。勝はもはや亀のようにうずくまって、長い長い言葉を息子のために捧げていた。


 そして。

 ……そして、やがて間もなくお前の妹が、お前の代わりに、この部屋を使うだろう。

 その時俺は……。

 お前の母親はその事を気にしないだろうが、俺は……。

 しかしお前の母親に、もっと傷ついてくれと頼むのも変な話だ、そうだろう?


 それで現世のものに利益があるとすれば、罪深い俺が、弱きものを守れなかった、そして今後も守らないであろう俺が、多少救われるかもしれないということだけだ。



 彼は、まぶたを強く閉じた。

 彼は、泣くことはない。

 彼の倫理では、このような状況でさえ、男は泣くことが許されない。






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