煩悶アクアマリン
眼前に広がる巨大な水槽を、ぼうっと眺めている。深い海中を模したそれは、わたしの憂いを忘れさせるのに最適だった。
わたしは嫌なことがあると、よくここに来て逃避する。受験で行き詰った時。友達と喧嘩した時。祖父が亡くなった時。そして、恋を諦めた今日この時。
ここに来ると、作り物ながらもその壮観さに心を奪われるのだ。仄暗い空間の落ち着いた雰囲気といい、ひんやりとした空気感といい、全てが浄化されていく感じがする。
問題そのものが解決するわけじゃない。逃避と言われても否定はできない。けれども、気分転換にはちょうど良かった。子供の頃にもよく連れてこられたというのも相まって、ここはお気に入りの場所となっている。
そうして今日も、わたしはこの場所に逃げてきた。
わたしはあの子に恋をした。でもそれは、もはや失恋だなんて呼ぶこともできない。この恋は叶うはずなんかなくて、無効試合みたいなものだ。始まってもいないのだから、失ってもいない。
あの子は昔からの幼馴染だった。優しくて、強くて、いつもわたしを引っ張ってくれるような存在。一番の親友だった。
そんな彼女は、思っていたよりもわたしにとって大切な人になっていた。けれども、わたしはそんな想いを一生隠さなければいけないのだった。
勿論、恋なんてものを諦めたのには理由がる。女同士だからとか、あの子の冷めやすい性格とか、そもそもあの子が恋人と上手くいったことがないこととか、言い訳だけならいくらでも思いつく。けれども、結局どれも言い訳に過ぎないことは理解していた。実際はそれらを乗り越えるような勇気がわたしにはなかっただけだ。そう思うと、所詮彼女への想いはその程度だったのかと呆れてしまう。それでも、彼女に告白なんてしてしまえば、今までの関係性が壊れてしまうのだという確信があった。それが、たまらなく恐ろしかった。
……ああ、ダメだ。気分を晴らすためにここに来たのに、思考が悪い方向に行ってしまっている。何か良い事でも考えないと。
そういえば、以前あの子とこの場所に来たことがあったのを思い出した。その時は、もっと純粋な気持ちで楽しんでいたはずだ。面白い魚を見つけては笑い合ったり、解説を読んで少し賢くなった気になったり、イルカのショーで年甲斐もなくはしゃいだり。それは紛れもなく輝かしい思い出だ。なのにどうして、胸が閊えるんだろうか。
一面に張られたガラスに近づいて、それに触れる。目の前の魚達は、悩むわたしにはお構いなしに悠々と泳いでいる。それがなんだか腹立たしくて、同時に羨ましくもあった。彼らのように、ただ飼育されるだけの生涯なら、こんな苦悩も抱かずに済んだのだろうか。なんて、贅沢な悩みだとは理解しつつも、そう思わずにはいられなかった。
ここにずっといても仕方ないと、その場を離れることにした。巨大水槽の部屋から出て、全面ガラス張りのトンネル通路に入る。ここも向こう側は水と魚で満たされていて、より水中にいるような感覚がする。このトンネルも好きな所の一つだ。なのにやっぱり、あの子との思い出が呼び起こされて辛くなる。唇を噛みしめながら、さっさと通り抜けた。
館内の展示を見る度に歩みは早くなる。癒しは痛みに成り代わる。逃避のために来たというのに、いつの間にか追い詰められていることが目に見えてわかる。だからこそ、この場から逃げるように進んで、進んで進んで進んで――
気付けば売店が目の前にあった。吸い込まれるようにそこへ入る。その中で、とあるストラップを見つけた。
それは、あの子とおそろいで買ったものだった。まだわたしが、この想いを知らなかった頃のもの。つまりは、彼女との『友情』の証となるもの。途端に、目から何か暖かいものが流れ出す。
気付くや否や、わたしは慌ててその場から立ち去った。他にはもう行くところなんてなくて、そのまま館の外へと出る。途端に太陽が姿を現し、眩しさで目を細めた。天気の良い夏の日だった。
ふとスマホを見ると、あの子からメッセージが来ていることに気がついた。単なる、友達として、遊びのお誘い。勿論断るわけがない。何も気にせず遊んでいる時は楽しいから。
そういうわけもあったのだろうか。わたしは彼女に、今から会いに行ってもいいかと尋ねる。返信はすぐに来た。それを見て、あの子の元へと進み出した。
さっきまでの苦痛はこれからも何度も味わうものなんだろう。そして、痛みを許容してくれる余地など、あれにはもう無い。けれども、また来てしまうんだろうとも思う。
それでも今は立ち去るべきだった。安らぎの場所からはもう、出てしまったのだから。
蛙化少女と人魚姫 晴牧アヤ @saiboku
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