モラトリアム

雲矢 潮

モラトリアム




※性に関する描写、その他慎重に取り扱うべき話題を含みます。




 ディガン共和国首都旧市街地区、私の通う学校では今日も物音と悲鳴が聞こえてくる。三限の終わった昼休み、上級生の教室が騒がしく、職員室から先生たちが飛んでいく。廊下に集まった生徒たちの中で取り押さえられているのは、この国では目立つ白い肌と亜麻色の髪の三年生で、旧植民地人の子孫であるノヴァスキア人の生徒だ。先生たちに連れて行かれる彼が周囲を睥睨すると、黒髪黄色肌の多数民族ディガン人の生徒たちは、恐怖心から、目を付けられまいと自分の教室に逃げるように戻っていく。

 隣で見ていた気弱そうな女子生徒が呟くのが聞こえた。

「あんな人たちが、どうしてこの学校に居続けるの」

 彼は入学してから何度も今回のような暴力沙汰を起こしていたが。毎回大した処罰はなく、退学になるという話も聞かれない。いや、彼だけではなく、他の多くのノヴァスキア人生徒が毎日のように騒動を起こしているが、変わらずこの学校に在籍を続けている。多くの生徒が、頻発し無くならない暴力事件に怯えていた。


 熱帯にあるディガン共和国が植民地であった時代、宗主国から少なくない入植者が移民してきた。彼ら白人は植民地の支配層にあり、先住民を働かせて得られる富を自分たちで独占していた。大戦後、世界各地の植民地独立運動の機運の高まりもあり独立を宣言した先住民族ディガン人に対し、宗主国はあっさりと手を引いて、共和国の独立を認めた。

 旧宗主国の撤退後、共和国内には一定数の旧植民地人が残留した。旧植民地を故郷としていた彼らは、自らのルーツでも遠い旧宗主国に簡単に帰ることもできなかったが、民族自決と反植民地主義を掲げたディガン人の新政府の下では、安寧に生活することもできなかった。彼らはディガン共和国にとって異質な民族であり、同時に植民地時代の名残でもあった。民族国家建設を進める共和国政府はディガン人優遇政策をとり、かつて入植者が独占していた土地や資産を接収した。旧宗主国の助けもなく、世界の植民地主義否定の潮流によって、彼らの不満は遣り場をなくし、若いノヴァスキア人は自分たちの境遇に諦観を抱いてさえいた。一方の政府は、反差別を求める国際世論の圧力の下、表立って隔離政策を取ることもできず、学校では素行不良のノヴァスキア人生徒を放置するといった、歪な平等が作られていた。

 学校の中は、この国の縮図のようなものだ。一方は自らを抑えつける多数に諦めのような反感を持ち、もう一方は過剰な恐怖に怯えて相手を遠ざける。彼らは直接関わり合わないことで、変化のないある種の「日常」を保っている。


 しかし、彼らのどちらでもない曖昧な者が、その奇妙な秩序を乱す。

 放課後の廊下の隅で、私は黒髪の生徒たちに囲まれていた。苛ついた表情の数人の生徒が、ディガン語で責め立てた。

「私たちにも、あいつらにもなれない混ざりもの」

「俺たちみたいな見た目して、ノヴァスキア語を喋るなよ」

「ねえ、先生に取り入ったりしてるんじゃないの? 母親と同じように」

「違うなら否定してみろよ。できないのか?」

 私がそうだ。

 私の母は、ノヴァスキア人だった。

 母の家は入植者の家系だったが他の植民地人と違って裕福ではなく、経済状況は当時の先住民と同じように苦しかった。ディガン共和国が独立したのは、母が成人する前だった。武装蜂起で母の家は標的になった。武器を持った男たちが家に押し入ったのは、ちょうど私の祖父が日雇いの働きに出ていた時で、私の祖母は早くに病気で死んでいたので、その時家にいたのは母だけだった。

 私は自分の父を知らない。母は亜麻色の髪と白い肌の植民地人で、私の容姿は母とは全く違っていた。ディガン人の、黒い髪と黄色の肌。しかし若干、白人らしい見た目が混ざった。生まれあっ時からノヴァスキア人の中で暮らしてきたが、私は母とともに冷たい扱いを受けていた。

 母はいつも可哀想にと言って私に優しく接してくれるが、本当に可哀想なのは母のほうだ。被害者でしかない母は、私を産んだことで人生を狂わされた。目の前の彼らの言葉に言い返す資格があるのは、私ではなく母だ。だから私は、何を言われてもただ俯いて黙っていた。私は彼らのどちらかに与することはできない。私は確かにどちらにもなれないし、ここで何者にもなれない。

 見回りの先生の足音がしたのか、私を囲んで罵っていた生徒たちは焦ったように去っていった。先生たちは厄介な存在である私にあえて目を向けないので、今のような光景を見ても目を逸らすのだけれど、生徒たちは自分たちが誰かを傷つけている側にあることを他人に知られたくないようだった。これは学校に入ってから私を脅迫し、殴り、持ち物を叩き壊したどの生徒もそうだった。自分たちが嫌ってきた弱者への暴力を、自分たちが行使していることを第三者に悟られたくない。

 彼らが去ってから、踏まれて汚れた鞄を払い、床に散乱した中身を戻した。


 スコールが止んで西日に照らされる街を中心部に向かって歩くと、旧市街の真ん中に突然、禿げた小高い丘がある。鉄鉱石の廃鉱山で、植民地時代に入植者が求めた富の源泉の一つだった。この鉱山で数多くの先住民が労役に就き、植民地人のために大量の鉄鉱石を採掘した。しかし、ディガン共和国の独立を旧宗主国が承認した頃、この鉄鉱山はほとんど枯渇していて、他に鉱山は発見されなかった。

 その麓、鉱山の入り口の前に立ちすくんだ。

 現在の共和国政府は、この鉱山を植民地主義の象徴、「負の遺産」としている。彼らの独立の原動力は、旧植民地人への積年の怒りだった。独立達成後、首都とその周辺に住むノヴァスキア人は、この旧市街地の廃鉱山周辺に強制移住させられた。植民地人の中でも裕福で支配層にいた人々は早くに本国に移っていて、当時国内にいたノヴァスキア人は母の家のように裕福でもなかったが、多数のディガン人の怒りの矛先は彼らに向いた。理不尽な扱いを受けたノヴァスキア人の方もまた、ディガン人政府に恨みを抱いた。現在首都近くの一部地域を実効支配しているノヴァスキア人分離独立勢力は、この廃鉱山を抑圧の象徴としている。誰もが、かつて自分たちが受けた苦しみを握りしめて、終わりない抗争の日常に身を投じている。

 怒りや恨みは、もう沢山だ。この国の人々がそれぞれに、自分たちの感情を過去そのものである廃鉱山に託す。この廃鉱山が背負っているのは、過去に固執するこの国の全ての人々の暗い思いだ。


 明くる日、夜の間に降りた露が消えていく朝の学校で、私は見知らないディガン人の男子生徒に名前を呼ばれた。いや、実際にはその生徒は同級生の一人だったが、これまで目立った言動を取ったことはなく、「日常」の中の大多数の一人だった。

「このままでは、よくないと思ったんだ。だから話がしたいんだけど……ダメかな」

「別に」

 私は素っ気なく答えた。彼も結局は共和国で育ったごく普通の、どこにでもいるディガン人の少年だ。これまでも幼い頃から勇気あるほんの数人かが、私と交流を持とうとしたことがあるけれど、薄い目の色のせいか、時折口に出るノヴァスキア語のせいか、間もなく皆疎遠になって去っていった。

「ディガン人もノヴァスキア人も、互いに憎み合っているけど、それがこの国のおかしな『日常』なんだ。だけど、このままにはしておけない。このままではよくないと思うんだ」

 彼は慎重に言葉を選んでいるようだった。

―――この国のおかしな「日常」

 私の感覚と同じだった。しかし、それだけだ。私は、彼を胡乱げに見つめ続けた。

「なぜ私にそんなことを言うの?」

「俺はどちらかがいなくなればいいとは思わない! 誰にだって自分の暮らしがある。俺たちに必要なのは対立じゃなく対話だ! 君なら……それを理解してくれるんじゃないかって」

 彼はそう言って俯いた。

「ごめん、こんなこと失礼だったよね」

 私は彼の言葉を反芻した。誰にだって自分の暮らしがある。私たちに必要なのは対立じゃなく対話だ。―――私たちは互いに関わり合わないことで「日常」を維持している。しかしそれは、暴力の影を伴った怒りや恨み、諦めや恐れ、憎しみや苦しさの日常だ。感情のうずが私たちの関係を歪めて軋ませ、いつか破壊する。必要なのは、対話だ。

「そんなことない。君は正しいよ」

 さろうとする彼の背中を呼び止めて微笑むと、彼は笑って返してくれた。

「ありがとう」


 この学校で一人だった私は、できるだけ目立たないように彼と話すようになった。共和国の歴史のことを話した。大きな尾ひれの付いた私の噂について話した。学校で起きる事件について話した。お互いの幼い頃のことも話した。

 これは彼の話だ。

「この街に引っ越してくる前、俺の家族は北の方の町に住んでいた。まだ学校に上がる前で、ノヴァスキア人の子と友達になった。その子は走るのが得意で、そういう遊びが好きだった。その頃でも大人に見つかったらまずいと分かっていて、時々会っては隠れて遊んでた。他の子供たちとよりもずっと仲が良かった。お互い最初は相手の言葉が分からなかったんだけど、少しずつその子が何を言っているのか理解できるようになって、しまいにはディガン語もノヴァスキア語もごちゃまぜの言葉を二人で喋った。それが自分たちの言葉だったんだ、自分たちだけの秘密の言葉だった。……なのにそれを、両親の前で出してしまった」


 私の頭の中に、その光景が浮かんだ。幼い男の子にディガン人の両親が詰問する。「今なんて言ったの?」男の子は思わず口を塞ぐが、もう遅い。「まさかお前……」


「家の外に出してもらえなくなった。そのすぐ後で、この街に越してきた。あの子とはそれ以降会ったことはないよ。だけどその子のお陰で俺は、他の言葉を喋る人とも分かり合えると知った。違うからなんだ、って大人の話を聞くたびに思うようになった」

 私が最初じゃない。私が特殊なんじゃない。今の私たちの関係は例外なんかじゃない。心から相手と分かり合おうとすれば、どんな違いも乗り越えられるんだ。


「なぁお前、調子に乗ってるんじゃないの。最近彼と喋ってるでしょ。混ざりものが私たちと仲良くなんてできるはずがない。今すぐ彼と関わるのをやめて」

 私は初めて顔を上げ、口を開いた。

「彼は、あんたたちとは違う」

 その言葉に、目の前の女子生徒は激高したようだった。

「彼が自分と同類だと思っているんじゃないでしょうね。彼は純粋なディガン人で、お前はそうじゃない」

 彼がかつて、純粋ではないディガン語を喋っていたと言えば、この生徒はどう思うのだろうか。

「誰と関わるかは私の勝手だ。あんたが決めることじゃない」

「私はお前に教えてやっているの。お前と私たちは別物」

「ええ、そうよ! あんたたちは私を恐怖の捌け口にした。ずっと自分たちが被害者だって言い聞かせて、本当は加害者なのに! 大体、この国はもう植民地じゃないし、あんたたちはその時代なんか知らない。過去に固執して、人を傷つける。……私はそんなことはしない。私とあんたたちは違う」

 鳩尾に衝撃があって、息ができなくなった。殴られたんだ。

「また彼と喋ってるのをみたら、これだけでは終わらないから」

 そう言い残して、その生徒は去っていった。


 次に彼と会ったとき、私はこのときのことを話した。

「そっか。……自分のせいでごめん」

「謝らないでよ。君のせいじゃない」

「ありがとう」

「彼らはずっとああだよ。他者を傷つけていることを認めたくないんだ。私が誰を話していいか決めるなんて、どうかしてる。理解できないよ。私も君も、彼らとは違う。……何?」

 彼は、おもむろに話しだした。

「俺はずっと対話が必要だって言ってきた。君もそれを共有したと思ってた。相手との違いは、話すことで越えられるって。でも君は今それを否定してる」

「彼らは対話しようとしてるわけじゃない。理解し合おうとする気は彼らにはない」

「そうだとしても、俺たちは分かり合おうとすべきだ」

「じゃあこれまで私がされてきたことは、全部水に流せって言うの」

「……君も彼らの『日常』の中にいるんだな」

 その言葉に私は失望した。

「君は結局ディガン人で、私は君にとってはノヴァスキア人なんだ」

 彼に裏切られたように思った。

「もういい」


 私は、失意のうちに旧市街を歩いた。辺りは急に暗くなってきた。

 夕方のスコールが滝のように降ってきた。雨粒が家々の屋根を、道路を、そして私を打ちつけた。

 家に帰るためには、あの廃鉱山の前を通り過ぎなければいけない。廃鉱山は旧市街に入れば嫌でも目に入った。私は鉄柵で閉鎖されたその入り口の前を足早に通り過ぎようとした。この国の憎しみが詰まった廃鉱山を見たくなかった。

 けれど、私の足はそこで止まった。吐きたいような気分で、その入り口の前に立ちすくんだ。ディガン人、ノヴァスキア人のそれぞれが自分たちの過去の象徴とする廃鉱山は私にとって、過去に固執する人々の象徴だった。廃鉱山は、私の日常の中にあった。

―――君も彼らの「日常」の中にいるんだな。

 ああ、そうだ。

 私は廃鉱山のある日常の中にいて、私もまた彼らが暴力の影に保つ「日常」の一部だった。私もまた、違うことで相手を拒絶した。

 自分も過去に固執していたんだ。

 私がするべきことは理解し合うための努力であり、それは対話だ。

 今私がするべきことが、分かった。


 私は小雨の中、歩いてきた道を走り出した。雨雲は去り、空気は蒸発した雨水に満たされた。空は湿って紅く晴れ上がった。学校に着くと、汗がどっと湧き出た。教室に戻ったが、もう彼はいなかった。携帯端末を取り出して校舎を飛び出し、新市街の方へ走った。

 街角のスピーカーがサイレンを鳴らす。通りに人々が現れて、不安そうな声でざわめく。しかしその音も声も、頭の中で反響して聞こえなかった。

『ごめん、私が間違ってた。会って話したい』

 テキストメッセージを送ろうとしたが、送信は拒否された。

「なんで」

 画面の上端を見ると、端末は圏外だった。

 西日の差す通りに、私は立ち止まった。耳をつんざく轟音がした。見上げると、灰の煙を引いた飛翔体の影が、空を横切った。

『我ら民族解放連盟は、共和国政府に対する闘争を宣言する。繰り返す、我ら民族解放連盟は、共和国政府に対する闘争を宣言する』

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モラトリアム 雲矢 潮 @KoukaKUMOYA

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