夏の日の恋

@hnsmmaru

僕と君とその弟君と


 青空に佇む大きな大きな入道雲。大地に注がれる強い陽射し。身に刺さるほどの熱に苛まれながら、僕、榴ヶ岡友希人(つつじがおかゆきひと)は季節が移り変わったことを改めて思い知らされた。

 ダラダラと溢れる汗があの日を彷彿とさせる。

 それは消すことのできない、遠くとも近いともいえない記憶。僅か数年前に刻まれた恐怖が、未だに心を苛み続けているせいだ。


「暑い」


 あの時も、こんな夏の日だったか。降りしきる熱線に襲われる。

 思い出したくもない記憶が今にも蘇りそうだ。


「あちーよ」


 吐き捨てるように呟いて、止めかけていた足を動かした。

 必死にかぶりを振って、思い返しはじめていた記憶を封じ込む。決して思い出したくもない後悔と、恐怖、そして悦びを脳の奥底に沈み込ませるように。

 あれから早くも数年が経つ。今の幸せな生活を壊したくないのとは別に、自分を慕う友人の弟のため。――思い出しては、口に出しては、いけない。

 記憶を沈み込ませるために、ギュッと強く胸を押さえ込みながら歩く。

 やっぱり暑いな。

 陽射しに負けることなく歩き続け、無事目的の秋島家に到着した僕はインターホンを鳴らした。




 秋島光輝(あきしまみつき)、彼は高校時代からの友人だ。入学当初から同じクラスだったのだけれど、はじめのうちは全く会話がなかった。教室では互いに周囲から一つ距離を置くタイプの人間で、バイト先で出会って初めて言葉を交わした。男の店主、花枝智陽(はなえだともはる)が営む小さな花屋で先に働いていたのが光輝だったんだ。

 初めての会話は今でも思い出せる。まるで昨日のように鮮明にだ。

 店長から制服と言うなのお手製エプロンを受け取り着替え終わると、そこには可愛らしい僕のとは異なるデザインのエプロンを着用した光輝の姿。僕を見るなり、心底驚いているようにも見えた。


「あれ、確か………榴ヶ岡友希人君だっけ? 同じクラスの」

「君は……秋島光輝くん? 君もここでバイトを?」

「バイトってか、従兄弟が店主やってっから、たまに手伝いに来てるだけだよ」

「へぇ、そう……なんだ」


 人があまり得意じゃない僕は最後に適当な相槌を打っていた。同時にお互いの名前を記憶していることに僅かな動揺を覚えていたのも、強く印象に残ってる。それは光輝も同様だったようで、意外そうに目を見開いていた。

 そのくらい教室内では関わりを持たずにいたんだ。光輝はどうだか分からないが、僕は来年にはクラスが変わるだろう、いや、クラスが続いても仕方がない。名ばかりの友人となったところで、すぐさまそんな関係性は意味を失ってしまう。なんて我ながらに後ろ向きな思考ばかりだった。

 それもこれも幼い頃から引っ越しを繰り返し、何度も出会いと別れを体験してきたからだろう。遠くの街へ行ったら最後、それまでの友人は僕を忘れてしまうし、僕自身友人を覚えてもいないんだ。顔も、名前も、楽しく遊んでいたはずの記憶さえ何処か泡のように消えてしまう。はなから遊んだことはなかったかもしれないけれど。

 一度別れの寂しさを知ってしまったから、もう二度悲しい思いはしたくなかったのか。

 次の街以降、クラスメイトとは友人と呼べる関係になる前に距離を置きはじめた。いつか訪れるであろう別れを難なく受け入れるためにも、親睦を深める必要はないと思い至った結果だ。

 目立った理由もなくはじめたバイトもその限りじゃない。いつか本当に離れたくないと心から思える街に出会った際、問題なく一人暮らしができるようにと貯蓄をしたかっただけ。光輝とも、店長とも仲を深めるつもりはなかったはずで――。

 二人のおかげで今の貯蓄はゼロだ。バイト代を全額貯金していたはずなのに、そのお金はぱあっと消えた。離れたくないと、もっとずっと一緒にいたいと思えた街にやっと出会えたんだ。

 かれこれこの街に住んで早くも7年。今では光輝の家まで歩くのに目を瞑ってでも平気なんじゃないかって思えるくらいに、何度も遊びに行っている。

 今日もまた、だ。

 もう一度インターホンを鳴らして、彼を呼ぶ。


「電話するのもありだよな」


 なかなか出てきてくれない光輝に溜息がこぼれそうだ。

 自宅を出発する段階で連絡済みだし、「待ってる」と素早い返信があったんだ。不在なんてことはないだろう。

 そう思っていると、玄関越しに声が聞こえてきた。


「光輝兄さん、俺が友希人さんを出迎えるから部屋で待ってなよ」

「アホか。友希人は俺に用があるんだ、俺に出迎えさせろ」

「もー兄さんのケチ! いいじゃんか、オレだって少しくらい友希人さんとお喋りしたいんだし」

「友希人にはお前と話したいことなんてねーかもな」


 漏れだす会話に苛立ちが募る。

 玄関先とはいえ外だ。熱せられたアスファルトが痛々しいし、気温だって高い。暑さのせいで普段より格段とイライラする。  


「いいから、とっとと開けてくれよ!」

「え……?」


 しまった。口に出していたらしい。

 音を立てて開いた玄関から覗く光輝と弟くんの顔は驚きに包まれていて、ただただ唖然としていた。

 それもこれもこの夏の暑さのせいだ。


「こ、こんにちは。光輝、翔大くん」


 心の中に生じていた怒りを抹消して笑顔を作る。

 その笑みに釣られてくれたらしい弟の翔大(しょうた)くんもニッコリと笑ってくれた。さっきまでの驚きがウソのようだ。

 それ以上に何処か嬉しそうにすら感じるのは僕の気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。彼は何度も何度も僕のことが好きになったと気持ちをぶつけている。

 僕にはその気がなく、全て流してしまっているが。


「友希人さん、こんにちは! オレ、兄さんから友希人さんが来るって聞いて楽しみにしてたんです」

「へぇ、そうなんだ。ありがとう」

「翔大、そこ退けよ。友希人を家の中に入れてやれ」

「あ! ごめんなさい、友希人さん。こんな暑いなか歩いてきたんですもんね。家の中に入って早く涼みましょう!」


 翔大くんに背中を押されて光輝の家にお邪魔する。

 入った途端に涼やかな空気に包まれて、さっきまでの熱が飛んでいく。心地良い冷気に体だけでなく心まで軽くなりそうだ。


「翔大、悪いけどお前はリビングにいてくれ。俺と友希人は大切な話があるから」

「大切な……はなし?」

「君を蔑ろにしてるわけじゃないよ。ただ今日は光輝に相談ごとがあって来たんだ。だからと言ってはなんなんだけど……光輝を借りてもいいかな?」

「友希人さん」


 神妙な趣で僕を見つめる翔大くんは不思議と申し訳なさそうな表情に変貌していく。


「オレ、なにかしちゃいましたか?」


 恐る恐る呟いた彼の様子が昔の自分と重なって見えた。

 消えることのない記憶の片隅に残り続ける、人に愛されようと必死だった頃の僕と。


「それは違うよ、君は何もしてない。ただ僕自身の問題を解決したいだけ。その為には光輝が必要で……」

「友希人、部屋に行くぞ」

「でも、オレ……!」


 光輝に手を引かれながらも、僕にはまだ伝えていない言葉があった。このままでは翔大くんに大きな誤解を抱かせたままになってしまう。

 「待って」そう呟きながら、光輝の歩を力づくで止めた。

 振り返り、不思議そうに小首を傾げる彼が目に留まる。けれど今はそのまま着いて行くことはできない。


「僕はね、プールへ行きたいんだよ。君から一緒にプールへ行きたいんですって誘われた日から、ずっとね」

「でも、それが友希人さんを苦しめてるんじゃ――」

「ちげーよ、バカ」

「ちょっと光輝、そんな言い方はないでしょ」


 翔太くんの言葉を遮ってまで光輝は彼を軽く罵った。まるで自分自身を責めるかのように苦虫を噛み潰す。


「光輝のせいでも、翔太くんのせいでもないんだから」


 どうしてこの兄弟はすべてを自分の責任にしたがるのか。

 これでは僕が前に進めない。この身に刻まれた辛い記憶から目を背け続けることしか出来やしないじゃないか。


「やっぱり三人で一緒にプールに行こうよ、翔太くん。光輝も誘っちゃダメかな?」

「え……? 友希人さんがよければ、オレは構いませんけど」

「それじゃあ、決まりね。行こう、三人で……あ、でも男だらけだったらせっかくのプールなのに暑苦しいかな?」


 苦笑しながら僕は二人の腕を取った。そして利き腕を寄せる。

 昔懐かしい指切りげんまんをするためだ。


「約束だよ、二人とも」


 意図を汲み取ってくれたのか、それぞれが小指を絡ませ合う。

 その間にも少しずつ笑顔が取り戻されて、声も明るくなる。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った!」

「いいね、絶対だよ? 僕も頑張るから」

「はいっ、必ず夏休み中にプールに行きましょう!」

「男だけでか? 都合が合えば女の子も誘いたいもんだな」


 ほくそ笑んだ光輝は心なしか嬉しそうだった。翔太くんも満面の笑みを浮かべて、心底嬉しそう。

 僕なんかとプールに行きたいなんて物好きだなぁとしか思ってなかったのに――彼の喜ぶ姿が見たかった。まるで弟みたいに甘えてくる彼を失いたくもなくて。

 僅かに震える体を必死に押さえ込んだ。




 陽射しが雲間に隠れ込む。真っ白なレースのカーテンに射し込んでいたはずの陽射しは穏やかなものに変わっていた。

 暑苦しかった外とは異なり、光輝の部屋もとても静かで涼しい。会話の糸口が見つからずにいた僕らの耳には時計の秒針だけが響き渡る。


「友希人、お前、平気なのか? 痣、消えてないんだろ」


 口を開いた光輝の言葉は直接的で逃れる術もない。

 いや、逃げる意味などない。相談をしたかった内容だからだ。


「うん、消えないんだけどさ……光輝もさっき見ただろ? 翔太くんの嬉しそうな顔をさ」

「それはアイツが何も知らないから笑ってられるだけで……俺は――」


 光輝の言いたいことが手に取るように分かる。目を伏せながら、僕を瞳に映すことなく自分を責めているんだ。

 僕の躰に残り続ける痣を作ってしまった原因を取り除けなかった。全ては後の祭りで、痛みに、人に、暗闇に怯える僕を創りだしてしまったと。


「光輝に非はないよ。僕の考えが甘かっただけなんだから、自分を責めなくていいんだって」

「無理だ。俺はずっと後悔して自分を責めつづける。友希人の躰に消えることのない痣と恐怖心を植え付けちまったんだから……! ごめんな、俺がお前を助けてやれなかったから」


 悲痛な叫びをあげる光輝の心は僕以上に傷付いていた。

 躰の痛みは遠の昔に消えた。心だってもう何処か諦めが付いているし、光輝と店長のおかげで随分と楽になったんだ。今ではもう人に対する恐怖心は薄くなっているし、少しずつだけれど人を信用できるようになってきた。不特定多数は難しいが、親しい人たちであれば勿論だ。


「頼むよ、これ以上自分を責めないで。光輝は何も悪くない。僕はもう……平気だから」


 きっとこれは強がりだ。正直平気とは言い切ることができない。

 ただ自分に嘘をついてでも、光輝をこれ以上苦しめたくはなかった。


「お願いだよ、光輝。今にも泣き出しそうな顔しないで」


 あの出来事のせいで僕は新たな自分を見出された。

 好きでもない相手と無理矢理体を繋げられて、物欲しそうに何度も何度も汚い男を受け入れた僕。そして快楽の海に溺れて、まるで自分が自分ではなくなっかのようにあられもない声をあげて、男を求める僕は、暴力的なセックスが大好きな変態野郎だった。

 そんな僕を何の後腐れもなく、前となんの変わりもなく親しくしてくれた光輝と店長には感謝しかない。

 もしも口汚く蔑まれ、身に余るほどの罵声を浴びせられた末に、プツリと関係性を途切れられていたら――。きっと僕は生きてはいなかっただろう。

 だからこそ、僕を救ってくれた光輝を放ってはおけない。


「あれは、光輝のせいなんかじゃないよ」


 僕の不手際が生んだ紛れもないただの自業自得。

 そう口にしてはみたものの僅かに胸が痛んだ。今でも残り続けてしまっている恐怖に、心が支配されてしまう時もある。

 その度に光輝が僕の体を、心を、支えてくれていた。その優しさのお陰で少しずつ前を向いて強くなれた。


「でも俺に相談したかったほど、本当はプールに行くことに前向きにはなれないんじゃないのか?」

「それは……」


 光輝の言葉に僕は口を閉ざしてしまった。違うと、行きたいんだと心から発したいのに、まだ僅かな迷いがあった。

 この身に刻まれた暴力の跡。それは消えない痣となって体中に残されている。そんなものを僕を慕ってくれている翔大くんには見せたくなくて――。

 視線を落とした。それでも目を瞑れば彼の喜ぶ姿が目に浮かぶ。


「お前のことだ、翔太には話したくないんだろ? 普段とは違う自分の姿も、その体に残された傷も」

「そう……なんだけどさ。僕は翔大くんの心からの笑顔を見たい」

「どうしてお前が、翔大にそこまでしてやるんだ!」


 悲しげに声を大きくした光輝を、僕はただただ抱き締めた。


「あの子は……昔の僕にそっくりだから、かな? 僕がそうしてもらったように、翔大くんにも……笑顔になるきっかけをあげたいんだよ。翔大くんは僕と違って普段から楽しそうに笑ってるけどね」


 彼の笑顔を見る為ならば、躯に残る痣なんて――。

 第一に完全には消えやしないものなのだから、受け入れて前へ進むしかないんだ。

 そう、僕は強く前を見据えなくちゃいけない。

 こんな僕に好意を示してくれている翔大くんのためにも。


「だから、お願い。翔大くんのためにも、そして僕のためにも……一緒にプールへ行こうよ。さっき約束したよね?」

「そうだな、約束……しちまったもんなぁ。でもよ、これだけは言わせてくれ」

「なに?」


 抱き留めていた光輝の体をゆっくりと離して、少しだけ距離を置いた。

 鋭い瞳で見つめられながらも、視線は決してそらさない。


「翔大以上に、俺はお前が好きだよ。友希人」


 分かりきっていた言葉だった。

 今まで幾度となく感じていた好意は確かに伝わっていたのだけれど、僕はその告白に返答をするつもりはない。翔大くんにも、だ。

 微笑みながら、なんのこともなしに口を開いた。


「……光輝、約束破んないでよ?」


 きっとこの兄弟は互いに気付いている。好きな人が同じ相手だということに。

 仮に僕が一方を選んでしまったら、仲違いをしてしまうかもしれない。それが嫌で――。僕は答えを出さない。

 せっかく三人でプールに行く約束を取り付けたのだし、これ以上誰一人として失いたくはない、大切な“友人”だから。

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