前なんて向けないけど

ナナシリア

前なんて向けない

 夕暮れの校舎。


 どこか寂しい橙に染まりきった教室の端に、彼女はいた。


 彼は不思議な空気を纏った彼女に話しかけようか迷ったが、下校時刻がもう近づいていることを思い出し、教室に足を踏み入れる。


「そろそろ、下校時刻になるよ」


 彼の呼びかけに対して、彼女は無視で応えた。


 彼女はもはや、反応できるほどの気力を持っていなかったし、自分を邪魔する突然の来訪者が鬱陶しかった。


 彼は少し腹が立ってしまい、夕暮れの寂しさに身を任せ、苛立ちを抑えきれないような声でつぶやいた。


「無視かよ」


 彼は冷静さを欠いて、正しい思考など欠片ほども成立していなかった。


「話しかけないで」


 彼も彼女も、互いのことを敵視した。


 ぴりぴりとした空気感が場を支配する。


 あまりにも異様で重苦しい空気感。それは子供ならば泣き出してもおかしくないほどだった。


「下校時刻だ、生徒は帰らないといけない。帰る準備をしてくれないか?」


 一触即発の空気を払拭するため、彼は下手に出てお願いポーズをとることにした。


 心なしか場を支配する重苦しい空気が和らいだ。


「話しかけないでと、言っているでしょう」


 しかし、帰ってきたのは反発的な言葉だった。


「校則で決まっている事項だ。守らなければならない」


 そんな言葉に、下手に出たところで効果は全くないと判断した彼は、今度はより強く言い聞かせた。


 そろそろ、彼は自分が何をやっているのか虚しくなってきていた。放課後だというのに生徒会役員の真似事か。


「あなたは、日本語が不自由なのかしら?」

「君が帰りたくなくとも、必ず帰らなければならない。日本語が通じるかどうかという次元ではない」


 彼女も彼も、一歩も引くことはなかった。


 べつに彼女はもう帰ってもよかったし、彼は彼女が帰ろうが帰らなかろがどちらでもよかったのだが、もはや意地になっていた。


「どれだけ言われても今はまだ帰らないわ」

「では、理由だけでも教えてくれないだろうか?」


 それは、彼にとっての妥協策だった。


 幸い、彼女もそろそろ折衷案を考え出すべきだと思い始めていた。


「すこし独りで考え事をしたかったの」


 あまりにも呆気ない理由だったが、彼も彼女の気持ちがわかった。


 確かに人にまみれた社会の中で、独りとは究極の息抜きであるというふうに思えたから。


 だが、それは校則違反の理由として十分ではなかった。


「考え事をするというだけで残っていいとは思わない」


 その言葉を聞いた彼女は、語りを始めた。


「わたし、どうやら重病のようなの」

「まさか名前も知らない生徒から、重病をカミングアウトされるとは」


 まぎれもなく彼の本音だった。


 彼は、彼女のプライバシー観を受け入れ難かった。


「では名乗った方がいいかしら?」

「いや、構わない。……名前なんて知ったら、病気が治らなかったときに後味が悪くなるだろう」

「そう、治らないのよ」


 治らない。


 彼女はその言葉を使うことを躊躇しなかったが、彼はその言葉を聞くことに抵抗があった。


「それはもしや、」

「いずれ死ぬ」


 彼の悪い予想は次々と的中していった。


 彼は辛いことを話させてしまい、申し訳ないことをしたと思ったが、彼女は少しも気にしていなかった。


「だから、考え事」

「その通りよ」


 彼女は自らの病気を他人し知られることは厭わなかったが、その病気自体は厭だったし、死も怖かった。


 普段強気な彼女の印象と、彼女の心中は全く異なっていた。


「邪魔して申し訳なかった。それならば、学校に残っていてもだれも文句は言えないだろう」

「私にも非があったわ。このことを先に伝えておくべきだったもの」


 目を合わせて謝った彼女は、顔を伏せた。


「どうかしたのか?」

「いえ、少し目にごみが入っただけよ」


 明らかな嘘に他ならなかった。


 彼女の頬を涙が伝った。


「やっぱり辛いのか?」

「……そうよ」


 誰だって死は辛い。


「辛い、死ぬ瞬間まで前を向けって誰かが言ったけど、無理よ!」


 それは彼女の、存在の奔流とでもいうべき激動だった。


「自分自身はいつ死ぬかわからない恐怖を知らないっていうのに!」


 間違いなかった。


 どこから聞いてもわかる正論を、彼女はぶつけることが出来なかったらしい。


 まだ出会って初日の彼になら、互いの主張と感情をぶつけた彼にならその言葉を発することが出来た。


 彼女は、彼ならば真っ向から反論をぶつけてくるかと思った。


 いつの間にか世界に広がった夜が、彼を見る彼女の視線をさえぎる。


「君の言う通り、君以外の誰も、死の恐怖に瀕したことがない。もちろん、俺だって」


 返答は想像以上に優しいものだった。


 彼女の周りの人間は彼女を否定したが、彼は肯定した。


 出会った最初は、彼女を否定するものの一人だったが、今の彼は、彼女を肯定する唯一の人間だった。


 彼女はそこに、彼の意思を感じた。


「だから、君の言ってることは正しいし、無理に前を向く必要はない」


 彼は、彼自身の意見を尊重していた。


 他人の意見は、ぎりぎり、尊重しているといえた。


 自分が正しいと思うことを正しいと言った。


「でも、前を向かないのは楽だけど、面白味がないじゃないか。緩急がない」


 それはあくまで綺麗事で、甘美な理想だった。


 それが確実に、彼女の心を動かした。


「それでも、前は向けないわ。難しすぎる」

「そうか――」

「だからと言って! つまらない人生にはしたくない。だから、わたしは前は向けないけど、人を見ることにする」


 彼女はこの短時間で、彼へ抱く感情を転々と変化させていった。


 そして今、彼女は彼に好意を抱いている。


「わたしが前を向くのを手伝ってくれそうな人を頼ろうと思うわ。無理やりじゃなくて、わたしのペースに合わせて」

「理想的な人間だな」


 君が言い出したことよ、とは言わなかった。


 彼は、自分の考えが崇高な理想論だと分かったうえで口にしたから。


 外には月が出ていた。


 満天の星空が、理想的な星空が彼と彼女の瞳に映った。

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前なんて向けないけど ナナシリア @nanasi20090127

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