男の名前
「柏木さん?」
「……」
誰もが彼女から話を引き出すことを諦めた時、ボソッと柏木 弥生が言葉を発した。
「直哉くんは、どうしていますか? 謝らなくちゃ」
誰もが唖然とし、顔を見合わせる。
直哉とは、あの日死んだ男の名前だと如月刑事が教えてくれた。柏木 弥生は、こんな酷い仕打ちをされたというのに、まだあの男にすがるつもりなのか?
「残念ですが柏木さん。あなたを殺そうとした宮嶋 直哉は死にました。部屋で何かが爆発し、爆風で飛び散った破片を一身に受け、亡くなりましたよ」
「守屋さん」
止めに入る如月刑事を制し、守屋刑事が前のめりになりニヤっと不気味な顔をする。柏木 弥生の反応を楽しんでいるかのようだ。
「そ、そんな…ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん…さ…」
柏木 弥生はぶつぶつと同じ言葉をお経の様に唱え始めた。目の前にいる生きている人間が怖いと、初めて思った瞬間だった。
「柏木さん、この男に見覚えはありますか?」
守屋刑事はそんな彼女の態度をものともせず、スマホを操作し彼女の目に入る位置に差し出した。
「ちゃんと見てください。この男を知っていますか?」
沈黙が辛くなってきた頃、2度目の守屋刑事の呼び掛けに、柏木 弥生が反応した。
いきなり守屋刑事からスマホをひったくり、愛おしそうに画面をなで始めたのだ。
「お前の言う通りだったな」
守屋刑事は満足そうに俺に耳打ちする。
俺は薫くんの記憶を再生しながら、柏木 弥生を見ていた。気持ち悪いほど、彼女は目の前に男がいるかのように、女の顔で画面を見つめている。
室内にいる誰もがその光景を不気味だと感じていた。
沈黙を破り現実に俺らを引き釣り戻したのは、やはり守屋刑事だった。
「名前は? この男の名前」
柏木 弥生は目に涙を浮かべ愛しい男の名前を口にする。よくぞ聞いてくれました、といった嬉しげな口調で。
「……空」
「ソラ? 名字は何だ?」
「彼は、神。私に自由を与えてくれた」
「はぁ?」
うっとりした顔で彼女は言った。
「彼の名前は、
柏木 弥生は精気を得た化け物の様に、スマホを掲げ崇めたてる態度を見せた。「教祖さま」と叫びだすのではないかと思えるほど、その姿は異様だった。
俺も斗真も、
そんな中、守屋刑事が如月刑事を見て頷く。それを受けた如月刑事は、無言で部屋を出ていった。
「こいつの為に、幼い息子にあんな酷いことをしたのか? その挙げ句捨てられ、最後の男に殺されかけるとは、とことん男運のない奴だな、あんたは」
「あなたに何がわかるの? 空は私に、自由になる術を教えてくれたの。足かせ、重荷だけでしかないモノを排除することを教えてくれた。これ以上の愛がある?」
イカれてる。
彼女をじっと見ていた
俺の視線に気付いた
「
彼女は俺を見つめたまま悲しい顔を張り付け、煙のようにスーっと消えてしまった。
「
「斗真、帰ろう。胸くそが悪くなる」
俺は
そして、薫くんの思い出をなぞる。大好きなお母さん。ただ彼は普通に母親の愛情を求めていた子どもにすぎない。
「カオル…?」
「お前さんの息子だろ? お前が冷凍保存した」
「あぁ~、うふふ」
「な、何が可笑しい」
さすがの守屋刑事も声がうわずる。
「アレは私と空の傑作品」
「アレ?」
「空は言ったわ。遺体は焼却されなければ、遺体ではない。会いたくなれば会いに行けばいい」
「お前、イカれてるな。それでも母親か!?」
「何を言っているの? 当たり前でしょ? だから私のモノだから、大切に保管しておいたんじゃない」
狂ってる。俺は握りしめた拳がプルプルしているのを感じていた。こんな自分勝手な親のために、薫くんが自分の
「あんたさ、薫くんがどんな気持ちでいたのかなんて考えたことないだろ。薫くんは、倉庫に連れられていく間、生きてたんだよ。悲しくて苦しくて、何が起きたかわからず、ずーっとあんたのことを考えていたんだ。それなのに…くっ」
その時俺たちのために用意された椅子がガタガタと大きな音を立てる。俺は目の前の彼女に掴みかかるところを、斗真に止められていた。
「
「離せ、斗真!」
斗真はびくともしない。くそっ。
その時「何事です!?」と、騒動を聞き付けた病院関係者がドカドカと室内に入ってきた。
守屋刑事は「何でもねぇ」と怒鳴り散らし、俺の腕をぐいっと掴む。
「我慢しろ。行くぞ」
俺たちの後ろで、柏木 弥生のかん高い笑い声が聞こえた。
※ ※ ※
「大丈夫か?」
「すみません…」
俺たちは病室を抜け、ベンチに座っていた。
ここは入院棟の中庭。太陽の光を浴びて患者さんたちも穏やかな顔をしている。先程見たものが夢だったんじゃないかと思うほど、ここは穏やかだ。
「柏木 弥生のことは、後は俺たちに任せろ。必ず法の元、裁かせてやる」
「彼女は殺されてた方が…」
「やめとけ、それ以上は言うな」
守屋刑事は立ち上がり、空を眺めた。
「殺されて良い命なんてないんだ」
「守屋さん」
「ま、お前みたいに熱い奴は嫌いじゃないがな」
改めて俺はこのオヤジと弥勒義兄の関係に興味を持った。俺が口を開こうとした時、こちらに向かって走ってくる斗真が見えた。
「お、戻ってきたぞ」
守屋刑事が「こっちだ」と手をあげる。
「
そう言うと、守屋刑事は俺の肩を掴み「また連絡する」と一言残し、去っていった。
爽やかな風が吹く。俺と斗真はベンチに座り、穏やかな世界を感じていた。
「斗真、ありがとな」
「なにがだよ」
「俺を止めてくれて。俺、初めて女の人を殴るとこだった」
俺の言葉に斗真がニヤリとする。
「お前が怒ってくれたから、俺は冷静でいられたんだ」
「ふっ、だよな」
「円香ちゃん、無事だよな?」
「あぁ、信じよう」
残された俺たちはレモネードを飲みながら、無言で行き交う人たちを眺めていた。
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