虚想の海《イマジナリーオーシャン》
ユートは短機関銃の銃身にわざと噛みついた。口の中に鉄の味が広がる。がりっと音がして唇が切れた。地に唾を吐く。
ほんのわずかな赤い
人間には嗅ぎ分けられない血の臭いがただよったのとほぼ同時。
マンホールの汚水が噴き出したかのような勢いで怪物がくねり跳ね上がった。巨大な鋼鉄の虎ばさみを開き、砂もろとも瓦礫をくらってガチィン! と閉じた。巨体が砂の上をのたうつ。
「反応良すぎんだよ!」
狙いすました銃口を
眼が合った。頭部に散らばった単眼群四対がギョロリと動いてユートを見る。縦横不規則な向きに並んだ複眼状の人間の眼球。血の気が引く。目がいっぱいある。
一瞬、脳内の血流が止まった。頭が真っ白。ほげぇええええええ! ほぼ無意識で引き金をしぼる。
銃声が鼓膜と頰と肩にダイレクトな反動を伝えた。発火炎と空薬莢を続けざまに吐き出す。ようやく目が覚めた。つぶつぶの多さに失神している場合ではない。
左側単眼四つと触覚一本を射線が貫通。黄色い毒液が飛び散る。それ以外の外骨格板に当たった弾はすべて表面を滑って跳弾した。ちぎれて落ちた触覚がその場で弓なりにビチビチ跳ねる。
「ウピョォーー! 半分だけ命中! スッゲェオニイチャァンさっすがァ〜!」
黒服が裏声で歓声を上げた。どうやらお手並み拝見、と言いたいらしい。ユートは片頬をゆがめた。本当に邪魔だ。
怪物は痛みを噛みちぎろうとするかのように、空中で大きくのけぞった。どうっと裏返りながら倒れる。おろし金を並べたかのような小顎がギャリギャリギャリと耳障りな音を立てた。
赤黒い金属光沢を放つ体節がのたうつ。無数の黄色い脚がびらびらと波打った。
足止めできたか……? などとご都合主義展開を期待した直後。
最後尾の曳航肢を地面に叩きつけ、反動でねじれながら裏返る。輪を描いて方向転換。
巨体に似合わぬ強烈な初速で這いずり寄ってくる。寒気が止まらない。
「止まれ! いい加減に止まりやがれ!」
残弾をすべて撃ち尽くす。手元が煙と破裂音に包まれた。
無限にめくれあがるシールドマシン状の歯舌。別々に動く無数の脚。欠けてろくに噛み合わないままギィィチギチギチ鳴るツルハシの顎肢が。
迫る。
引き金の手応えがなくなった。背筋がおしっこ漏らしたパンツみたいに一瞬熱を持ち、速攻でつめたくなる。
空になったマガジンを引っこ抜いた。予備と付け替える。
同時に大きく開いた環状の顎めがけて連射。頭部が硝煙に包まれる。それでも
だめだ。完全に無効。
黄色い膿がぼとぼとと流れ落ちて、
傷の下から眼球が沸騰する泡ののように出現し、無秩序にギョロついた。小さな傷は即座に《
「あかん、やっぱ無理や……!」
アカリがおろおろと口走る。
もちろんそんなこと、最初から分かっている。
奴らは、殺したぐらいでは死なない。
動くもの何にでも食らいつき、巨大なツルハシ状の顎肢で突き刺し、噛み砕き、全身で巻きついて骨をへし折り、おろし金みたいな歯で頭から舐めずり食らう。あとには尊厳すら残らない。
生と死、表と裏、期待と絶望がリバーシの駒みたいに起死回生の一手でがらりと入れ替わる。
人間相手の銃は
「そうだな。ひとりじゃ無理だ」
銃口を下げ、声を噛み殺す。
「えっ」
アカリがぎょっとした眼をユートと黒服の両方へと向ける。
シャベルだろうが銃だろうがミサイルだろうが、《対人兵器》で
奴らを
——やるしかない。黒服の後頭部に視線を向ける。油断しているのか、あいかわらずあざといぱんつの尻をこちらに向けたままだ。
自虐の吐息をふっともらす。生き残りたいのならやるしかない。たとえどんな汚い手を使おうとも。
大和国以外——ユーラシア、アフリカ、南アメリカ、南極、オセアニア——が今どうなっているのかもはや知るすべはない。大和国内ですらめぼしい大都市はすべて壊滅した。残ったわずかな人間は文字通り人里離れた僻地に隠れ住んでいる。
だが他人など正直どうでもよかった。
あの場所に戻る。生き延びる目的はそれだけだ。
妹を飲み込んだ《あの場所》。いまだに何千、何万、何億という
(っ……たすけ……いやだ、お兄ちゃん、離さないで……やだっ……お兄ちゃん、ユート兄……!)
助けを求めてすがろうとした必死の指先。いやおうなく一瞬の真っ白な光に引き裂かれて、あと少し、あともう一歩、ちぎれそうなほど伸ばしても、そのたった数センチの距離にどうしても手が届かなくて。
必ず、戻る。
絶対に、取り戻す。
そのためならたとえ——
「おいパンツ。少しはまじめに協力しろ」
ユートは殺げた薄笑いを浮かべた。銃を手にしたまま、怪物との距離を保って黒服の背後に近づく。
「
黒服が鼻で笑う。
「クヒヒ……一人でいきがってんじゃァねえぞォオニイチャァン……? 殴ろうが撃とうがビクともしねェってのにいったいどうやっ……おや?」
「俺はお前のオニイチャンじゃない」
安い挑発にはもう反応しない。
黒服は眉をひそめて、ふと横に視線を移した。アカリが両手をこすり合わせ、ぺこぺこと土下座して何度もおがんでいる。
「お許しくださいカミサマホトケサマ校長先生さま、アカリは悪うないんです、悪いんは全部ユートです、あーーまんまんだぶまんまんだぶ」
黒服は首をかしげた。優しい困惑の苦笑が浮かぶ。
「アカリチャァン……? 何拝んでんのォ……?」
「てめえの墓だ!」
眼もとまらぬ速度で銃床が旋回した。頚椎へのフルスイングが命中。木魚みたいな音を立てて、黒服の首がくの字に反りかえる。
「ゴベェッーーー!?」
黒服の身体が吹っ飛ぶ。完全に白目を剥いている。うまくいった。その背中を容赦なく追撃。クレーターの中へ蹴り込んだ。
「後で骨だけは拾ってやる」
黒服は、両手両足を糸の切れたでんでん太鼓みたいにぐるんぐるん巻き付けながら斜面を転がり落ちていった。砂に埋もれる。
これで、邪魔者はいなくなった。
弾切れの
弾切れだろうが何だろうが、邪魔をしないなら存在価値は黒服の100倍。
足元には今しがた撃ち落としたばかりの触覚器官がビチビチ跳ねている。微細な神経節——左右四対の黒い点と、細い鞭毛のような生えかけの顎肢を持つ、先ほどまではただの触覚だったはずのものが。
思わず踏みつぶしたくなる小ささだ。だが潰せても殺すことはできない。たとえ身体が半分にちぎれようが肉片のペーストになりはてようが、
切り飛ばして本体から離れた足一本でさえ、たった一滴の水分があれば復活する。
誰でも考えつく方法、例えば戦術核で消毒された拠点もあったが、結論から言えばすべてが無駄になった。死骸の灰からでも
生き延びた人々、死んだ人々、埋葬された人々の遺体に寄生し、遺伝子を怪物のそれに書き換えることによって。
「ちくしょう、また《特巧》どもに居場所がバレちまうじゃねえかよ」
逃げ腰の言葉とは裏腹に、ユートは陽気に笑って右手を横へ突き出した。右手首内側に埋め込まれた呪装インプラントが露出する。皮膚を透かして銀虹色に強く点滅。
「アカリ、
「ホイサッサー!」
アカリが満面の笑顔で駆け寄ってきた。ユートの右腕にぴょんと飛びつく。
「粒子濃度確認。
「いちいち言わなくていい」
「だってその方がアニメみたいでカッコええもーん!」
ぶつかった勢いでユートの身体の向きが半回転した。風がひゅんと巻く。
キィン、と超高音域の金属線をはじく耳鳴りが響き渡った。アカリを抱きとめた右腕が銀色の雲に包まれる。雲内に虹の放電が走った。さらに音域が高まる。
呪装インプラントを埋め込んだ手首内側から、銀虹色の皮下配線が
(アンジュレータ放射。軌道スタック遷移。擬装展開!)
共有した声が、脳内の聴覚皮質に直接着信した。アカリの存在はすでに多体局在雲となってユートの右腕に降着している。
手のひらに触れる空気が微細動した。ピッチを上げてドラムを連打するかのような振動、空振が周囲をどよもす。
擬装の光が高速で回転し始めた。右腕を中心に、メッシュの仮想形状データに対応した立体の輪郭が現実視界に重なって表示される。同心円状に明滅する光が、pingを打つ反響音と呼応したレーダー検知の
「
突風が砂塵を巻き上げた。
《
(虚真観測。イオンチャネルゲートオープン。光実体回路作動、
「いちいち言わなくていい」
物質と光の多体局在相である銀雲が腕を取り巻く。右上腕部から背中にかけてクロームのショルダーガードプロテクターが巻きつくように生成され、ユートの腕と一体化。
続いて先ほど触媒として選んだ銃をイメージしたクロームレッドつやめく短機関銃内蔵パワーガントレットを設計生成。ワイヤーフレーム状にエッジを輝かせたのち、メカニカルな油圧作動音をたててカバー部ジョイントが左右に展開。腕を突っ込む。
月桂樹と剣を模した銀虹色の
降着完了。
拳に力を入れる。
自律意思を有する
外骨格
ユートは完了報告を待たず背部スラスタを吹かした。圧縮ガスが銀色の雲を吹き払う。
(ちょお待って、まだ《アレ》が終わっとらんし!)
勝手に右腕が動き出した。ユートは疼き始めた右腕を真顔で押さえ込む。
「後にしろ」
アカリは憤然と抗議する。
(えー、いつもしよったやん、『
抵抗するユートの腕を強引にまっすぐ伸ばし、肩からぐぎぎぎぎと回して「変ッ身!」のポーズを取らせようとする。
「してない!」
「しとるし!」
「そんなことより! 前前前ッ!」
サイドスラスタを右方向へ噴射。左側方にすっ飛ぶ。
肘から平行して外側方向へアサルトフレーム開放。アーム直結の短機関銃が自動照準を合わせた。砂塵のS字スラロームを描いて銃の狙いを定め。
まったく効いていない。憎々しく鼻で笑い飛ばす。舌打ち。
「貫通すらしやがらねえってか」
眼でシャベルの行方を探す。確か先ほど
足を砂に突っ込んで砂煙の急制動をかけつつコンパスの円を描いて方向転換。追われる立場から追う立場へ。自身の加速にあおられないよう身をかがめ、重心を低くして一気に
ベクトルノズルを下方に向け垂直に宙へ跳ねた。風圧の階段を駈け上がる。コートの裾が派手に舞った。耳元で上昇気流がばたばたと笑う。
上空への視線誘導に反応した
空中のユートを尻の曳航肢で叩き落とす気だ。毒針が猛烈な速度で旋回した。
もしおっぴろげた節足の一本にでも引っかかったら。
いやな想像だけは即座に思い浮かぶ。
一瞬で絡めとられ、ざらざらのおろし金みたいな口に引きずり込まれる。もみじおろしの出来上がりだ。
「そう簡単に!」
言った端からブーツのつま先に怪物の爪が接触した。鋼鉄の先芯を入れているはずのつま先が茹でたトマトの皮みたいにべろりと赤く剥ける。
空中で足をすくわれた。
(あッあッあッー! 落ちるぅーーッ!)
「わめいてないで姿勢制御しろ」
やはり右側だけしか
つかんだ。
即、軸を宙に浮かせ、シャベルの剣先を上にして持ち替える。短機関銃をガントレットに収納。兵装取り込み処理開始。アカリの髪の色と同じ赤と金の輻射光がきらめく。握った拳を開くとガントレットと一体化したシャベル型ブレードが展開した。
(ぼーっとしてたらアカン!)
(こいつ学習しよった! 飛ばしてくんで! 回避!)
自動回避でスラスターを吹かし背面ロール。油鍋に水滴を放り込んだような跳ねっぷりで何とか直射を避ける。天地がめまぐるしく入れ替わった。地上で致命傷の突撃をよけ続けるよりは相手の牙が届かない空中戦の方が有利かもしれない。
地面にシャベルを突き立てた。遠心力で身体が横回転する。何度も側転し、そのたびにすくった砂を荷電させ空中にまき散らした。砂の弾幕を突き抜けた大きめの散弾のみを一振りで切り刎ねる。
蒸発の煙があがった。吐き気のする臭いがもうもうと周囲を取り巻く。
小さい奴らばかりを相手にしても埒が開かない。やはり本体を叩く方が先だ。
スラスタを吹かして横スライド。砂煙が視界を奪うなか、大きな弧を描いて背面へ回り込む。足だらけの腹部と違って黒光りする背板側はがら空き。
右腕を振り払う。金属の摩擦音とともにシャベルのブレード部分が幅30センチ長さ1メートル45センチに伸長。灼熱真紅の長大剣に変わった。握り込む。バランスこそ最悪だがこの重量感は最高。銃など飾りだ。殴りこそ正義。かざした
(
高揚した放電の残像を描いて背面から正中縦一文字。運動エネルギーと質量の暴力でぶった斬る。着地。
「そんな技名だったか!?」
シャベルを返す。斬りあげる。
パックリ縦に割れた胴体が互い違いにずれ落ちた。
巨体の
黄色い汚物が噴き出す。法外に突沸した強酸の返り血が頭から降りかかった。
飛びすさる。
少し温度が下がったのか。冷えて黒ずんだ断面からぐちゃぐちゃの汚物とまだ消化されきっていない何かがはみ出した。
黄色く泡立つ体液と人骨、変色した肉塊の入り交じるどす黒い膿汁。
意識的に認識の解像度を下げ、感情キャンセリングフィルタをかける。心に刺さる怒りと恐怖の波形ピーク値を削除。
汚物を浴びた土が沸騰して溶けた。黄土色の煙が地面を這って、吐瀉物をおおい隠す。せめてもの救いだ。
よじれた身体を縦横に裂かれてなお、怪物は無数の脚を空にうごめかせ、金属のひしゃげる音をたててのたうつ。
輪切りのひとつが、その断面からボコボコと肉の泡めいた臓物を吐き出した。ふくらんだ粘膜が裏返ると短い足が無数に生えそろう。恐ろしい再生速度だ。
「俺の畑を毒のゲロまみれにしやがって。誰が掃除すると思ってんだ」
ユートは眉間に皺を寄せた。きつく睨む。
赤い陽炎をまといつかせた
いっそ傲慢なほど斜に構えて、
「……イモ畑の恨み、受けてもらうぞ!
言い放ちざま踏み込んだ。神速のシャベルの刃で胴払いに殺ぎ払う。
半分残った頭部だけが一瞬、空中に浮いて残る。それもすぐに地面に落ちて、クレーター方向へ転がった。
残された身体のほうは裏返った状態でけいれんし、そのたびにドプッ、ドプッ、と汚汁まみれの内臓を垂れ流す。
「これだけ切り刻んでまだ死んでないとか。マジでゴキブリ並みの生命力だな。さっさと《解体》しねえと」
のたうち回る半死半生の残骸を見やった。悪臭と惨状の両方に鼻をゆがめる。
アカリが耳打ちした。
(消すんはええけど、
かつての古巣の名前をこんな状況で聞いたところでまったくありがたくもうれしくもない。《回収作戦》の失敗を知る者が生きていては何かと都合が悪いのだろう。
ユートはシャベルブレードの柄を手のひらで受けながら苦笑いした。そういや、ひとりだけやけにしつこく足取りを追ってくる奴がいた。
「もちろん、こいつを片付けたら飛ぶ」
回想は後だ。
いくらこま切れの残骸にしても、どうせまたすぐに再生する。完全に消すまで油断はできない。それでもとりあえず不意打ちを受ける心配だけはなくなった。
一段落ついたと見て、内心ほっとする。侵入したのがこの一匹だけでよかった——
そのとき。
背後から土のくずれる音がした。クレーターの縁を、黒い手袋をはめた手が、ガッ、とつかむ。
「ヒドイじゃないですかァ……オニイチャァン……」
ドスの効いた低い声が、地獄の底から這い上がってくる。
「何でェ……僕ちんのこと……もっと優しく愛してくれないのよォ……!? ブッコロスゾォヴォオラァ!!」
「おい、バカ、やめろ、まだ生き返るんじゃない!」
一瞬で背筋が冷えた。
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