競人場

@ikie

経済動物

地元に競馬場がある。

夢のない人達が暗い顔してバスに乗り込む姿が嫌いだった。

ああはなりたくないと心に刻み、頑張って大企業に就職した。

しかし、そのような動機で働き続けられるほど社会は甘くなかった。

激務についていくことができず、一年目の後半から終電帰りが続き、精神は次第に限界を迎えていた。


勤続二年目を迎える直前の週末、実家に帰ることにした。もちろん終電だ。

最寄り駅に到着すると、空気が澱んでいる。暗い顔の社会人が改札内から釈放される。

階段を降りると、ロータリーに大嫌いなバスの姿があった。競馬場行のバスだ。

終電も終わった平日の深夜にバスが止まっている理由に見当がつかないが、背広を着た中高年が続々と乗り込む。

普段なら嫌悪感と共にその場から離れるはずが、今日は日頃のストレスもあり、そのまま実家に帰りたくなかった。

一度くらい観に行ってやろう。乗車列に並んだ。


程なく乗車できたが、入口に整理券もICカードの読み取り機もない。

どうせ競馬で有り金が回収されるのだ。ここで集金する必要もないってことか。

すでに座席は空いておらず、つり革に捕まる。肩と肩が触れ合い不快だ。

アナウンスもなくドアが閉まると、出発する。外の疎らな街灯の明りがバス内をまばらに照らす。

競馬場の入口に着いたが、なぜか停車せず、バスは場内に入っていく。

窓から見る限り砂場のような場所だが、進む度に何かを踏む感触と共にバス内が大きく揺れた。

馬が走る位置にバスが続々と集まる。全部で10台ほど横に並んでいる。他のバスの中は真っ暗で何も見えない。

周りの人達のテンションが上がっているのが伝わってくる。高揚感がバス内を満たす。

競馬場内に明りがつく。乗客が悲鳴とも怒号ともとれる叫び声を上げる。他のバスの中も乗客でいっぱいだった。

そして客席を見渡すと、競馬場の客は人間の姿をしていなかった。

顔面は馬。しかし口や鼻の穴から赤い血肉が溢れ出ている。

胴体はなく、首から細くも逞しい足が数十本生えている。蹄の周辺は赤黒く染まっている。窓越しに臭気が伝わってくるようだ。

バス内外の異常に声が出ない。乗客にまともな人間は一人もおらず、この場では自分が異常者だった。

馬がゆっくりと口を開く。口内が赤黒い肉で満たされる。口から肉を産んでいるかのようだ。

勢いよく口を閉じると、粘り気のある血肉が場内に噴射される。

それを合図に体に衝撃が走る。バスが急発進している。場内のバスが一斉に走り出したようだ。

ブレーキなどついていないかのような全力疾走。バスの中はもみくちゃだ。

どうやら一周でゴールのようで、自分が乗っているバスは最下位の手前でゴールした。

バスが停止すると、フロントガラスが巨大な蹄によって破壊され、運転手の体は蹄状に押し潰された。

血肉が蹄に不自然なほど付着し、破壊された骨だけが運転席に残る。

前方に乗っていた乗客の一人が素早く運転席に座り、雄叫びを上げる。

乗客が呼応して奇声を上げる。レースは終わらないらしい。

バスから血肉を回収した馬は、また口を大きく開ける。中には粘液で包まれた新鮮な死が詰まっている。

勢いよく圧し潰され、第二レースがスタートする。

第二レースは中位でゴール。運転手は絶望の果てに辿り着いて安心したかのような顔をしている。

刹那、蹄に押し潰される。

第一レースでは気が付かなかったが、一位でゴールしたバスは競馬場から退出している。

運転手は首位以外全員殺されるらしい。バスの中は30人以上いるぞ、最後まで残ったらどうなる...?

雄叫びを上げる。

こんな興奮、他にはない。

ここはしょぼくれたおっさんがなけなしの金を掛ける場じゃない。

自分の命を捨てる場所だ。人生を懸けた賭博場だ。

次は俺が、次は俺が、俺が懸けてやる。

喉を破壊するように声を上げ続ける。

第三レース終了と同時に、口から血と獣の声を吐き捨てる。

運転席までの道が少し開く。人を押しのけ強引に進む。

運転席にはさっきの敗者の骨。ドアを開けてゴミを捨てる。

馬を見ると、まだ他のバスから肉を集めているようだ。

早くしろ。スタートの合図をよこせ。

馬の口が開き始める。

考える。今の人間は死を遠ざけすぎた。

生き続けることを前提とした社会を作ってしまった。

日々準備をして未来に備える人間が勝つようにできている。人間の内輪の能力比べで人生のクオリティが決まる。

この世の中には死の気配も危険もなく、あるのは社会から逸脱する恐怖。人間からつまはじきにされる恐怖。能力比べに負ける恐怖。

こんな生存本能に直結しない恐怖では本気になれない。

死が身近にないのに必死になるわけがない。

対してここはどうだろう。このレースに負ければ死ぬ。一位にならないと生き残ることができない。

目の前で死を感じることができる。血肉は奪われ、骨は捨てられる。命を踏みにじられる。

これこそ恐れるべき死であり、生命の隣人じゃないか。

馬の口が閉ざされ、どのインクよりも汚い赤が目の前をふさぐ。

前など見えなくてもいい。アクセルをベタ踏みする。全身に死の香りをまとわせ、レースの先陣を切った。

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