即時一杯の酒

三鹿ショート

即時一杯の酒

 仕事もせず昼間から酒を飲んでいる彼女は、私の知っている彼女ではない。

 家の中は塵で溢れ、彼女は汚れることを気にすることなく、塵の上を歩いて行く。

 私は庭から居間へと向かうと、外から用件を伝えることにした。

 だが、彼女は同窓会に参加するつもりは無いと返答した。

 理由を問うたところ、彼女は両腕を広げながら、

「人々は変わり果てた私の姿を見て、落胆するに決まっています。学生時代における優等生だった私の姿を憶え続けていた方が、互いにとっては幸福だとは思いませんか」

 彼女の言葉は、正しかった。

 実際、彼女に対して抱いていたはずの尊敬の念が、私の中から消えていたからだ。

 しかし、彼女は何故ここまで零落するに至ったのだろうか。

 大学受験に失敗していなかったはずだが、それ以降に、彼女の人生を狂わせる何らかの事件が発生したとでも言うのだろうか。

 そのようなことを考えていた中で、私は室内に飾られている絵画を目にした。

 荒れ果てた室内において、その絵画は、まさに掃き溜めに鶴といった様子である。

 よほど大事にしているのか、その絵画の周辺だけは、塵が存在していなかった。

 私が見ていることに気が付いたのか、彼女は絵画を指差すと、

「あの絵画は、私の父親が描いたものなのです」

 そう告げられ、私は彼女の父親のことを思い出した。

 彼女の父親は、売れない画家だった。

 毎日のように朝から晩まで金にもならない絵を描き続けていると聞いていた。

 姿が見えないが、既にこの世を去ってしまったのだろうか。

 私の言葉に、彼女は目を丸くした。

「知らないのですか」

 其処で彼女は、一冊の本を私に向かって投げた。

 それは、芸術作品をまとめた本である。

 中を見ると、彼女の父親が紹介されていた。

 本によれば、彼女の父親は数年前にこの世を去っていたらしい。

 だが、それよりも驚くべきことは、生前のことが嘘だったかのように、彼女の父親の絵画が絶賛されていることである。

 絵画の魅力を理解することができる人間が、ようやく彼女の父親の作品を知ったということなのだろうか。

 しかし、私は芸術に明るくはないために、彼女の父親がどれほどの評価をされているのか、分からなかった。

 そのような素人でも、その作者の凄さが分かることといえば、作品の値段だろう。

 本に記載されている値段を見て、驚きを隠すことができなかった。

 最も安いものでも、私の年収の何倍もの値段だったのである。

 私は素直に、彼女の父親を褒めた。

 だが、彼女は首を横に振った。

「私ではなく、父親や母親こそが、恩恵を被るべきだったのです」


***


 彼女の自宅を共に掃除しながら、彼女は生活の変化を語ってくれた。

 母親が過労でこの世を去ると、父親は跡を追うように自らの手首を切った。

 多くの関係者が自宅を訪れていたものの、母親の関係者ばかりだった。

 父親を認めてくれる人間はこの世に存在しないのだろうかと思っていた中で、唯一父親の関係者として姿を現したのは、専門学校時代の友人だという男性だった。

 学校でも、父親は他者と関わることなく黙々と絵画の勉強をしていた。

 他の人間は、父親の作品を評価することはなかったが、その男性だけは、父親の絵を気に入っていたらしい。

 結局、男性は自身に絵画の才能は無いと見切りをつけたものの、父親は認められることがなかったとしても、絵画の勉強を続けていた。

 夢を諦めることなく歩みを続けるその姿を、男性は尊敬していたようだった。

 その話を聞くと、彼女は父親の形見として、作品の一つを男性に渡した。

 男性は感謝の言葉を口にして、とある絵画を手に家を後にしたが、数日後、再び姿を現した。

 いわく、持ち帰った作品を見た人間が、高値で買い取ると告げてきたということだった。

 勿論、友人の作品を売るつもりはなかったが、両親を失った彼女にとっては、良い話なのではないかということで、伝えに訪れたらしい。

 彼女は自宅に存在する父親の作品の全てを撮影し、それをくだんの人間に見せた。

 その結果、いずれの作品も高値がつき、芸術の世界に生きる人々は、父親の功績を認めるようになった。

 今の彼女は、生活に困った場合に父親の作品を売るようにしていたが、とある作品だけは売るつもりはなかった。

 それが、掃きだめの鶴ともいうべきくだんの作品だった。

 どうやら、それは彼女の母親を描いたものらしく、他の作品とは趣が異なっているように見えた。

 おそらく、父親にとっては、最も重要な作品だと娘である彼女は考えたのだろう。

 父親の最愛の人間を描いたその作品には、暗い感情が込められているようには見えなかった。


***


「私は、両親を恨んでいるわけではありません」

 掃除を終えた後、共に酒を飲んでいた中で、彼女はそのように切り出した。

「父親は絵画に執心し、母親は家族の生活を支えるために働き続けていたために、私を相手にすることはほとんどありませんでした。ですが、何かのために生きる姿は、悪いものではありません。ゆえに、私は少しでも負担を軽くするために、問題を起こすことのない優等生で存在し続けようとしたのです」

 彼女は父親の作品を紹介した本を手に取りながら、

「その努力は、ようやく実を結びました。ですが、それは二人が生きている間に現実のものと化してほしかったのです。死後に名声を得られたとしても、二人に届くことはありませんから」

 彼女は本を床に置くと、再び酒を飲んだ。

「其処で、私は気が付いたのです。人間は、生きていなければ幸福を感ずることはないのだと。だからこそ、私は自分の思うままに生きることを決めたのです」


***


 彼女の家を出、自宅に向かっている中で、私は彼女の言葉を反芻していた。

 確かに、この世を去る際には、持って行くことができるものは、何も無い。

 ゆえに、愉しむのならば、生きている今しか無いのだろう。

 彼女の言葉は、正しかった。

 だからこそ、彼女の荒んだ生活を否定するつもりはない。

 私は、彼女の自宅からこっそりと奪ってきた数点の作品を眺めながら、今後の贅沢な生活を夢想した。

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即時一杯の酒 三鹿ショート @mijikashort

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