第5話 結界に入った人間

 しかし、そう心配することもなかった。しばらく歩いていると、前方に不自然な空気のゆらめきを見付けたのだ。

 リスタルドは知らないが、それは竜の目にしか映らない。人間が同じ場所を見たとしても、木があり草が生え……という普通の光景でしかないのだ。

 そして、不思議に思うことなく、無意識にそこを迂回うかいしてゆく。

 それが時々、どういう具合でかそのまま進んでしまい、竜の結界内に入ってしまう人間がいる、という話だが……今は周囲にそんな人間の姿もなく、リスタルドは特に深くは考えずにその結界へ近付いた。

 空気が揺らぎ、目の前の景色が微妙に揺らぐ。リスタルドはそこへ手を伸ばした。

 指先にパシッという音とともに、軽い火花が散る。普通に入ろうとすれば、こうして弾かれるようだ。

 リスタルドは息を吐き、それから指先に力を込めた。もう一度揺らぐ景色に向けて手を伸ばし、ちゅうちょすることなくその手を突っ込む。

 空気がふわりと揺れた。カーテンが揺れて部屋の中が見えるように、しっかりした景色がそこにある。これが結界の内側だ。

 リスタルドはためらうことなく、その中へ入った。

 さっきまでとはわずかながら、気配が変わったことを肌で感じる。確かに結界の中へ、別の世界へ足を踏み入れたのだ。

 カルーサ曰くの「竜の本能で入った」ということだろう。

「これで、第一段階はクリアってことかな。その後のことって母さんは何も教えてくれなかったけれど……とにかくおじいさんを捜せばいいんだよね」

 気配こそ自分が棲む山とは違うが、景色は特に代わり映えしない。

 木が立ち、草花が生え、風が枝や葉を揺らす音が聞こえる。鳥の声もしているし、時々小動物が移動する時にたてるのであろう音もした。

「気配が違うってわかるけれど、後はこれと言って何も目印になるものがなさそうだな。おじいさんらしき気配もわからないし……。どこにいるか教えてもらってないけれど、山の上にいるのかな。けど……ここってニキスの山かな。傾斜がないから、山って言うより森の中みたいだけれど。やっぱり別世界ってことか」

 聞き手は誰もいないのだが、リスタルドはそんなことをつぶやく。

 いつもなら何やかやと世話を焼いてくれるプレナがいたり、時々リーベルが遊びに来ておしゃべりしたりと、近くに誰かしらいることが多い。

 こうして周りに誰もいなくても、誰かに話しかけるようにしゃべってしまうのは、くせのようなもの。

「まぁ、いいや。とりあえず……適当に歩いてみよう」

 自分で何とかしなければ目的地へは着けないし、かと言ってどう動けばいいのか見当も付かない。

 深く考えるのはやめ、リスタルドは足の向くまま歩き始めた。

 鳥の声は聞こえるが、姿は見えない。見掛けない存在に、あれは誰だと隠れて仲間とささやきあっているのだろうか。

 そばにいれば話しかけ、ロークォーの居場所がわかるヒントの一つでも得られるのでは、と思うのだが、なかなかうまくはいかない。

「飛べたら一気に頂上へ向かって、すぐに見付けられるんだろうけどなぁ」

 最近は、だいぶ長く風に乗れるようになってきた。が、その風がなくなると、落ちる。

 たこではないのだから自力で翼を動かせば飛べるのだが、身体を上昇させる魔力に欠けているのだ。

 飛ぶのだって、魔力ありき。鳥とは違い、竜は身体が大きいから、その翼だけで飛び回るにはそれなりの魔力が必要だ。

 その必要な力は備わっているはずだが、リスタルドはまだ飛び続けられるだけの魔力をしっかりと引き出せないでいる。

 なので、上から下へ飛び降りるようにして飛ぶ時は、風をとらえれば何とかなるが、今のように下にいて上へ向かいたい、という場合はどうしようもないのだ。

 竜珠を手に入れれば、そういった問題についても解決するのだろうか。いや、ここへ来てすぐに解決するくらいなら、カルーサはもっと早くにリスタルドをここへ向かわせていただろう。

 他の竜達も、竜珠を手にして自由に飛べるようになるのだろうか。

 カルーサは「飛んで行くのは無理だろうから歩いて行け」と言った。もしリスタルドが他の竜のように元々飛べるなら、飛んで目的地へ向かってもいいのだ。

 と言うことは、竜珠は飛ぶために必要なものではない、ということになる。

 つまり、竜珠を手に入れても、飛べる保証はない。

「うーん、何が何だかよくわからなくなってきた……」

 他に比べられる竜がいないので、みんなはどういう状態で竜珠を手に入れているのか、手にすればどうなるか、ということなどがまったくわからない。

 リスタルドには兄と姉がいるが、彼が生まれた頃にはすでに巣立っていて今は滅多に会わないし、竜珠の話なんてしたことがなかった。

 そもそも、竜珠の話を聞いたのは今日が初めてなのだ。

「まぁ、おじいさんに会えば、その話もちゃんと聞けるよね」

 だいたいがあまり深く考えるたちではないリスタルド。ヒントなどないに等しい状態なので、推理することはひとまず横に置いておくことにした。

 とにかく、今は祖父のロークォーに会うことを目指す。

「それにしても、誰にも会わないなぁ」

 生き物の気配はしている。どんな獣がいるかはさておき、植物以外の生命体がいることは確かだ。

 しかし、対面して会話をしなければ、この辺りの状況がうまく把握できない。

 いくら人間より魔力が優れている竜であっても、初めての土地で環境の全てを一気に知ることは無理だ。

 祖父くらい年月を重ねれば可能かも知れないが……そもそもリスタルドは祖父の年齢を知らない。

 さらに言えば、リスタルドは母の年齢も正確には知らなかった。特に知る必要もなかったので、今まで尋ねたことがない。

 四、五年くらい前、他の山にいるいとこ達に会わされた。まだリスタルドはルマリの山から出歩けるだけの力がなかったので、カルーサが呼んで彼らが来てくれたのだ。

 身体も大きいから彼らの方が明らかに年上だったのだろうが、こうして思い返してみると彼らの年齢も知らない。

 いつだったか、竜がすごす年月の話をプレナとしていて「プレナは何年生きてるの?」と尋ね、彼女から「女性の年齢を尋ねるものじゃありませんっ」と叱られた。

 もしかするとこの時のことが原因で、尋ねてはいけないこと、と刷り込まれて気にしなくなってしまったのだろうか。

「あ、でもリーベルと最初に会った時、いくつなのって言われたっけ。あたしは十だって彼女が言って……自分から言う分にはいいのかな。それとも、竜と人間では違う?」

 そんなことをひとりごちながら歩いていたリスタルドだが、前方からガサッと大きな音がして足を止めた。

 何かいる。ちょっと大きな獣……とは違うような……。

 リスタルドが感じたのは、獣の気配ではなかった。

「やぁだ……ここ、どこぉ?」

 気配を感じた方から、聞き覚えのある声が聞こえた。その気配にも十分すぎるくらい、覚えがある。

「リーベル?」

 リスタルドは、急いで声と気配がする方へ向かう。

 目の前にある茂みを手でどかせると思った通り、泣きそうな顔をしているリーベルが立っていた。

 たった今リーベルのことを考えて、その直後に本人が現れたことにリスタルドは驚く。一拍遅れて、なぜ人間の彼女がここに? という疑問も浮かんだ。

「リスタルド? どうしてリスタルドがここにいるの」

 リーベルも驚いて紫の瞳をさらに大きくし、リスタルドを見ている。

「それは、ぼくが言いたいよ。ここは竜の結界の中で……えっと、つまり竜しか入れない場所なんだよ」

「え、そうなの? だって、普通の山と変わらないじゃない」

 きょとんとした顔で、リーベルは周囲を見回す。

 竜の結界内と言われても、そこにあるのはほとんどが見知った植物ばかりだ。人間の彼女に、しかも魔法使いではないので気配の違いなどわからない。

「あたしね、木の実を探しに来たの。ニキスの山にしかない、染料になる実なんだけど。場所は父さんからだいたい聞いていて、もう少し奥って言うか上の方かなって思いながら歩いてたの」

 リーベルはこれまでにも、何度かこの山へ来たことがある。その時は父のジェダと一緒だったが、今回は一人で。

 しかし、ある程度はわかっているつもりだったので、さくさく歩いていた。

 それがふと気付けば、まるっきり見覚えのない場所へ入り込んでいる。驚いて思わず口にした言葉をリスタルドが聞き付けた……というところらしい。

「母さんが言っていたよ。竜の結界には人間が近付けないようになっているけれど、時々入って来ることがあるんだって。だから、神隠しの山って呼ばれたりもするらしいよ」

 カルーサから聞いたことを、リスタルドはリーベルに伝える。

「ふぅん。そりゃ、竜の結界へ消えたりしたら、そんなふうに見えなくもないわね。で、リスタルドはここで何してるの?」

「あ、ぼくはね、おじいさんに会って竜珠をもらって来いって言われて」

「りゅーじゅ?」

 リーベルに聞き返され、遅ればせながらリスタルドは「あ……」と思った。

 竜の自分でさえ、母がそんな物を持っていることを知らなかったのだ。それを、人間相手にしゃべってしまった。

「ま、いいか」

 リスタルドは、よくも悪くも非常に前向きである。

 人間であるリーベルが竜珠のことを知っても、リスタルドがそれを得た時に彼女や他の竜に見せなければいい話である。

 だいたい、リーベルが竜珠のことを知っても、彼女がそれをどうこうするはずもない。魔法使いでもないリーベルが、竜の所有物に何かする、もしくはできると考える方が難しい。

「竜の力の源みたいな物でね。母さんの父さんにあたるロークォーっておじいさんに竜珠をもらって来いって言われて、ここへ来たんだ。おじいさんはニキスの山にいるからって。まだどの辺りなのか、全然見当は付かないんだけれどね」

「へぇ、竜にもあれこれとやらなきゃいけないことがあるのね」

「そうみたいだね。ぼくも今日初めて聞いたんだ」

 リーベルは、竜というのはもっと自然で、そういった「やらなければいけないこと」があるなんて、考えたこともなかった。

 やはり生きるからには、どんな生物でもやるべきことが存在するのだ。

 普通の獣でも、親からエサの取り方を教えられたり、兄弟と遊びながら力加減を学ぶと聞いた。

 竜は知能も魔力も高いから、むしろやるべきことが多いのかも知れない。

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