第2話 帰りは歩いて
動いたのは竜が鎌首を上げたところで、ようやくリーベルは落ちて来たモノが何かを悟った。
どういう事情でだか、人間の少女の前に落ちて来たのは、黒い竜だったのだ。
ルマリの山には竜がいる、という話は、子どものリーベルも聞いたことがある。
だが、昔話や伝説の
父を始めとする魔法使い達はいると信じているようだが、現実には誰も見ていないのだ。一般人からお
だが、お伽話ではないと知らされる日が来るとは、しかもそれが自分に降りかかってくるなんて、リーベルは思ってもみなかった。
しかも、登場の仕方が半端じゃない。空から落ちて来た。降りて来る、ではなく。
まさに「降りかかる」だ。
その降りかかって来た竜は、リーベルの背が小さいという点を除いても、やはり大きい。
顔の位置は馬の頭よりやや高いだろうか。なので、少し見上げなければ、その顔がちゃんと見られない。
しかし、リーベルが言葉を失ったのは、ほんの数秒。
子どもの疑問と興味は、一気にふくれあがった。
元々、リーベルは好奇心が強いのだ。こちらを見る緑の瞳が優しい色をしている、ということもあるのだろう。やはり恐怖は感じない。
おばあちゃんが持ってる
「あの……あなた、竜よね?」
この姿を見ればわかりきったことだが、確かめずにはいられない。
「うん、一応……」
「一応って、頼りない答えね。自分のことでしょ」
時々……かなり時々はっきりと物を言うリーベルの性格は、相手が竜であっても変わらない。
「ねぇ、本当に大丈夫なの? ケガとかしてない?」
ざっと見た限り、出血などはしてないようだが、空から落ちて来たのだ。高さにもよるだろうが、どこか打撲の一つや二つや三つくらいはしているかも知れない。竜でも、骨折はするんだろうか。
「ケガはしてないよ。落ちた時は、さすがにちょっと痛かったけれど」
「ちょっとだけ……? で、今はもう痛くないの?」
「うん、平気」
見たところ、無傷だ。さすが竜、と言うべきか。
普通の動物なら、空から落ちてこうも平気でいられない。黒いからわからないだけ……だろうか。
「ありがとう、心配してくれて」
竜の顔ではあまり表情の変化はわかりにくいが、人間の姿なら笑っている……ように思われる口調。
それにしても、竜に礼を言われるとは思わなかった。ちょっと戸惑う。
「え、だ……だって、空から落ちて来たんだもん、ケガしてないかって思うわよ」
言ってから、リーベルは気付いた。
「それより、どうして竜が空から落ちて来るの?」
尋ねてはいけないことがあるかも知れない……なんて、リーベルは考えない。子どもなんて、そんなものだ。
「えーと……落ちたんだ」
答えになっていない。
「だから、どうして?」
「飛ぶのに失敗して」
「竜なのに?」
こういう言い方は失礼だろうか、と思いながら、つい言ってしまう。
「竜だって失敗するよ。……んー、ぼくだけだと思うけれどね」
ねこがネズミを捕まえそこねることもあるし、走る犬が足をすべらせることもある。生きている以上、誰だって失敗はするだろう。
でも、竜が失敗するシーンは、どうしても想像できない。もっとも、何を失敗するか、にもよるだろう。
「さっきから気になってたんだけど、あなたってまだ子どもなの?」
今まで見たこともないくらい大きな身体をしているが、声や口調からすれば相手は子どもに違いない。おとなになった竜がどれだけの大きさかなんて聞いたこともないが、きっと視界に収まりきらないだろう。
今だって収まっているとは言い難いが、こんなものじゃないような気がする。
「うん。人間になったら、きみより少し大きいくらい……かな」
「人間になったらって、竜が人間になれたりするの?」
「あ、人間の姿って意味だよ」
竜は律儀に訂正する。
それから、ふっとその姿が歪んだ。
「ええっ?」
次の瞬間には、竜の黒く巨大な身体は消え、リーベルの前にはリーベルより少しだけ背の高い少年が立っていた。
なめらかな質感の白い半袖シャツに、黒のズボンというシンプルな格好。肩より少し長いまっすぐな黒髪に、緑の瞳。パーツの形も配置もよく、つまりは美形。
おっとりした雰囲気を持つその少年は、リーベルと同い年、もしくはどう多く見積もっても十二、三歳といったところだ。
竜の身体が大きかったので、ここまで幼いとは思わなかった。それに、かなり細身なのも意外だ。無駄な肉がないどころか、必要な肉もどちらかと言えば足りない。
シャツから出ている腕は、男の子にしてはきゃしゃで、リーベルとあまり変わらなそうだ。同じ街の子(もちろん、人間)の方が、もっとしっかりした体格をしている。
「ねぇ、いたずら好きの妖精が魔法であたしの目をごまかして、竜になったり人間になったりしてるんじゃないの?」
父が魔法使いをしていることもあり、リーベルはこれまでに妖精を何度も見ている。中には他愛のないいたずらをする妖精もいて、自分の姿を全く別の動物に変えて人間を驚かせたりするのだ。
目の前にいる少年がそうじゃない、とは言えない。
だが、少年が立っている足下は、不自然にへこんでいる。草も何かに押しつぶされたように横たわって。いや、ほとんど押し花状態だ。
それを見れば、さっき何かが落ちたのは夢でも幻でもないとわかる。姿を変えるいたずらはしても、周囲の細工までは気が回らないものだからだ。
「妖精じゃないよ。ぼくはこの山に棲む竜。リスタルドって言うんだ」
「あたし、リーベル」
あっさり竜から名乗られてびっくりしながら、リーベルも名乗る。
「ぼくと同じ音で始まる名前なんだね。きみは人間……だよね?」
「そうよ」
竜の姿ではわからなかったが、人間になると表情もはっきりわかる。何の警戒心もない、穏やかな笑顔だ。
どちらかと言えば、むしろ興味津々な表情。それはリーベルも同じだ。
「本当にケガはしてないみたいね」
色白の顔も腕にも、傷らしきものは見当たらない。
恐らく相手以上に警戒心のないリーベルは、近付くと遠慮なくリスタルドの顔や腕を触って無事を確かめた。
「飛ぶのに何をどう失敗したら、空から落ちるのよ。鳥が落ちる場合、他の鳥に襲われたとか、猟師に撃たれたとかだけど。それに、かなり高い所から落ちたんじゃない? 少なくとも、あの木より上からだったでしょ」
まさか鳥に間違えて猟師が竜を撃ったりはしないだろうし、竜を襲う動物が他にいるとも思えない。
それとも、人間が知らないだけで、実は竜にも天敵というものが存在するのだろうか。
「うん、山の上の方からだから、ちょっと高かったかな」
ルマリの山は高い。この辺りはまだふもとと呼べるような高さでしかなく、本気で頂上を目指そうと思ったら、二、三日は軽くかかる。もちろん、しっかり準備してからでなければ命を落とす。
そんな山の上の方、というのならちょっとどころではないような気がしたが、リーベルはいちいち細かいことを尋ねるのも面倒になって黙っていた。
「ぼくね、他の竜より魔力が弱いんだ。生まれた時から身体も弱くて。だから、本当ならみんな飛べるんだけど、ぼくはそんなふうにはなかなか飛べないんだ。さっきも練習していて、少しだけ浮いたんだけど、あっさり力尽きちゃって」
聞いていると気の毒な境遇のようだが、リスタルド自身はあまり気にしていないのか、特に暗い表情にはなっていない。
むしろ、失敗したところを見られ、照れ笑いしているようにすら見える。そんなことでいいのか。
「リスタルドって……のんきそうね」
リーベルは、思ったままを言った。
初対面だと言うのに、魔力や身体が弱いなどと話して、何かあった時に自分が不利になってしまうかも、ということは考えないのだろうか。……考えてなさそうな気がする。
「はは……母さんにもよく言われるよ」
目の前にいるのは竜のはずなのに、やはりこの場に緊張感はまるでない。
聞けば、リスタルドはじき十二歳になるらしい。人間の年にしたら、ではなく、本当に生まれて十二年。
と言うことは、本当にリーベルと同年代の子どもなのだ。こうして人間の姿で話していれば、街の友達と話しているのと同じ感覚。竜でも子どもは子ども、ということだろうか。
ただ、竜であるにもかかわらず、彼はどこか頼りない印象だ。身体が弱い、というのも、リスタルドの体型を見ていれば納得する。
「上の方から飛んだって言ってたけど、リスタルドはルマリの頂上近くに棲んでるの?」
「うん、そうだよ」
「飛べないんでしょ? ここからどうやって帰るの?」
来る時は落下で一気だが、帰るとなると大変そうだ。
「歩いて帰るよ。飛べない分、この姿で歩き回っているせいか、足は強いんだ」
一見しただけではとてもそうは思えないが、弱い部分を補うために別の部分が強くなるのはよくあること。
「ひとりで帰れる? って、あたしが送ってあげられる訳じゃないんだけど」
「ぼくは平気だよ。いつものことだからね。リーベルは一人でここへ来たの?」
「え? ううん、そうじゃなくて……」
よく考えてみれば、リーベル自身も親とはぐれた状態なのだった。誰かのことをあれこれ言っていられる立場ではない。
「はぐれたの? じゃあ、一緒に捜そうか。たぶん、気配を探ればわかると思うし」
「え、それは嬉しいけど……そんなことしていいの?」
リーベルの言葉に、リスタルドは首を傾げた。
「いいって、何が?」
「だって……あたしの父さん達を見付けるってことは、父さん達にリスタルドの姿を見られるってことでしょ。人間に見られたりしてもいいの? ……あたしも人間だけど」
リーベルの言葉に、リスタルドはきょとんとしている。
「ぼく、これまで人間と関わったことがないんだけれど……人間に見られると何かまずいことがあるのかな」
「さ、さぁ……」
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