最終話 その後の話
魔王城に戻り十日が経った。
犠牲者ゼロの奇妙な戦争に勝った人間領は勢いづいてそのまま侵略を開始する、などということはなく、睨み合いの小康状態が続いていた。
砦の先は魔王領であるため、どこに罠が仕掛けられているか分からず、また兵が一人も死んでいないせいで一万人の補給もしなければならない。前線にあるとはいえ、数多ある砦の中のひとつ、到底全ての兵を収容できるスペースがないことも要因であった。
いずれ取り返すとはいえ今はその準備段階。その報告を受けた魔王は関連する書類全てに判を押し、積んである紙束の上に置いた。
「やぁ、陛下」
そこへ現れたのはルーサーだ。
音もなく登場した弟の存在に、ヘルマンは椅子に深く腰掛ける。
「どうした?」
「たいした用なんてないよ」
その一言をヘルマンは嘘だと見抜いていた。用がないならわざわざ声などかけない、彼はそういう男だからだ。
……また、玩具でも見つけたのか。
そう考えてヘルマンはため息をつく。そして話し出すまで待つつもりだった。
カチカチと時が進む。なかなか話し始めない弟に違和感を感じ視線を投げると、裏のある笑みを浮かべていた彼の口のはしが若干引き攣るように震えていた。
……なんだ?
変だと眉を寄せていると、同じように困ったと顔を顰めるルーサーがいた。
「……聞かないの?」
「聞かなくとも言うだろ」
「いや、いつもさっさと話せとか言うじゃん。やめてよね、調子狂うじゃん」
……ん。
勝手な物言いに、そうだったかと首を捻る。
「……変わったね。あの女が来てからかな」
「気の所為だ」
「んな事ないって。雰囲気も柔らかくなったって噂になってるよ」
預かり知らぬところで話題になっていることに、ヘルマンはむず痒く感じていた。
変わった、か。変えられたのか。
自覚は無い。が、皆がそういうならそうなのだろう。
不変だなんだとのたまっていた癖に、女ひとりの行動でこうも簡単に変わってしまったことが、恥ずかしくもあり嬉しくもあった。
自嘲気味にほくそ笑むヘルマンを見て、ルーサーは唇を尖らせる。
「……気に食わんか?」
「別に」
まるで子供だ。いじけているようにしか見えない弟へ、ヘルマンは声を出して笑う。
「なんだよ」
「なんでもない。で、用があるんだろう?」
「……あ、あぁ。爵位の件、受けようと思ってね」
「……あれほど嫌がっていたのに、どうした?」
ヘルマンの表情が固まる。
ルーサーは王弟という立場以外持っていなかった。何度か領地を治めるように話があったが性にあわないと固辞していたのだ。
本人の意思を尊重してヘルマンがそれ以上話題に出すことを止めていたが、やると言われれば断る理由もない。
しかし急だ。そんな心変わりをする理由があるならば……。
「……ミサ、か」
答えはそれしかなかった。
「兄さんに横から掻っ攫うような真似されたからね。あれは俺の玩具だから」
「……好きにしろ。だが、領地を持ったからと言ってミサがついて行くとは思えんが」
何か策があるのかと目で聞くと、ルーサーはいつもの笑みを浮かべ、
「人間族と魔族が俺の下で分け隔てなく暮らす街でも作るさ」
さも気楽そうに言う。
無理だ、と内心に生まれた言葉をかき消す。ここで否定することはミサの思いまで否定することになるからだ。
「そうか、頑張れよ」
「それと」
応援を大して気にもとめずルーサーは一枚の紙を差し出した。
……なんだ?
手に取り中を見る。どこかの村のことについての調査書であることは間違いないが、ぴんと来るものは無い。強いて言えばミサがいた村からそう遠くないという程度。
調査書にはとある村民の詳細が載っていた。年齢、住所、結婚歴、配偶者、子供の有無。取り立てて珍しいものはなく、行政のトップがいちいち把握しておかねばならぬことなどひとつもなかった。
ただ個人としては別だ。
「そいつ、あの女の元旦那」
「……聞いていたのか?」
馬車の中でのことを盗み聞きしていたことをルーサーはなんの悪びれもなく頷いて肯定する。
そしてそのまま言葉を続けていた。
「今の配偶者と結婚したのが五年前。そこから子供はなし。どうやら子無しの原因は男の方にあったみたいだね」
「いつ調べた?」
「こんなこと簡単だよ。魔王城からの役人ですってだけで聞いてないことまですらすら話してくれたさ。まぁ外聞が悪いって言うんで外にはひた隠しにしてるみたいだけど」
「ミサには伝えたのか?」
問いに、彼はお気に入りのおもちゃを見つけた子供のように、無邪気に笑う。
その上で、
「これ、どうしたい?」
逆に聞き返されて言葉につまる。
良かったじゃないかというだけの話だ。子供が産めるなら、好きな故郷で後ろ指さされることなく過ごせる。
それをヘルマンは口に出来なかった。
「……やっぱりね」
どこか安堵したような表情でルーサーは見つめていた。
手玉に取られていることがたまらなく不快で、我慢出来ずに顔の険しさが増す。それでも怒鳴り散らして醜態を晒すような真似を堪えるだけの理性は残っていた。
……どうしたい、か。
早々に辿り着いた正解以外が思いつかない。彼女の為、彼女の為にはそれしかないはずなのに。
必死で頭を巡らすヘルマンに、ルーサーは調査書を奪い取ると、そのまま半分に割いた。
「なっ!?」
止めるまもなくまた半分に、さらに半分にしてから魔法で出した炎に飲み込ませる。僅かに残った灰はルーサーの手の中から外へ風に運ばれていった。
「兄さんにあの女は勿体ないよ」
「……」
ぐうの音も出ない。
黙り続けるヘルマンに、ルーサーはつまらないものを見る目をしていた。
「じゃ、またね。しばらく会えなくなるだろうからあの女でもからかって……」
手を振りドアに向かうルーサーの歩みが次第に遅く、そして止まる。
何も無い周囲を見渡している彼は、珍しく余裕なく焦っていた。
「……どうかしたか?」
彼は問にも答えない。秒針が一周するほどの、たっぷりと時間をとった後、ようやく動いたかと思えば乾いた喉から無理やり声を出していた。
「……あの女、さらわれちゃった」
それは到底冗談とは思えない、悲痛の声だった。
上等なベッド、家具、調度類。櫛ですら細かな宝石が散りばめられている。
テーブルの上には抱えるほどの皿に食べきれない量の食事。蝶や花を模した盛り付けは野原に迷い込んだよう。
「どうぞ、遠慮せずに」
テーブルに座る主の女性が言う。細く白い肌は陶磁器のようにきめ細かく、整った表情は数多の男性を虜にし、女性は嫉妬の前に諦観を覚えるだろう。
小鳥の囀りのような声は耳を潤し、洗練された所作が教養の高さを物語る。世界中を探してもこれ以上美しい彫刻を彫れる芸術家は存在しない。
そんな彼女から直接声をかける名誉をいただいたのは、無理に着飾った女性であった。着物に着られている姿は主を笑わせるためにいる道化師と言っても疑われない。
緊張で固まる女性は震える手で取った食器を落としてしまう。恥ずかしさで顔を真っ赤にする様子を主は微笑ましく見つめていた。
……どうして、こうなったのかしら。
粗相をした女性、ミサは思い返してしていた。
しばらく空けてしまった庭いじりをしている彼女の前に現れたのはいつか見た勇者の少年、ハーフィーだ。彼は何も言わずにミサを連れ去り、たどり着いたのは人間領、それも王都だった。
ミサが寝転んでも余裕で余るほど長いテーブルの向かいに座るのが、王都の女王ルーブル・アイゼン、またの名を勇者女王。
女王であり、その名の通り勇者でもある、そんな彼女に笑みを注がれ、ミサはベビの前のカエルのように縮こまる。
……誰か、助けてください。
そんな悲痛な叫びを聞き届けるものはどこにもいなかった。
ミサ ─反逆の勇者と永遠の魔王─ 仁 @jin511
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