無題―ノンタイトル―

わふにゃう。

無題

 男は読んでいた本に栞をはさみこむと、ゆっくりと立ち上がって大きなのびをした。

 カーテンの隙間から、薄暗い部屋の中へと刺すように眩しい朝日が入り込んでいる。

 デスクライトを消して代わりに部屋の電気をつけると、男は今日も会社に出るためにスーツへと着替え始めた。


 今年で三十二歳を迎える彼は、独身の、どこにでもいるようなサラリーマンだ。両親は既に他界しており、今はマンションの一室で一人暮らしをしている。

 彼の人生は、至極平凡であった。

 一般的な家庭に生まれ、大きな病気を患う事なども特になく小・中・高と学校に通い、そこそこの地方大学を出て、そのまま就職し今に至る。

 長所もなければ短所もない、そんな人物。

 だが、そんな彼にも人一倍好きなものがあった。

 それは、読書。

 彼の読書量は平均のそれをはるかに上回っていた。

 だからだろうか、彼は地元の出版社に就職した。

 自分で物語を書こうとしたことは何度もある。

 しかし彼は1文字目すら書くことができず、挑戦の度に筆を置くのであった。


 朝の七時ちょうど。

 彼は会社の玄関前にやってきていた。が……

 ドアには大きな紙が貼られ、開かないように鍵が閉じられている。

 紙にはこう書かれていた。

「本日をもって、当出版社は閉業とさせていただきます」

 意味が分からなかった。

 同僚の何人かにその場で電話をかけてみるが、繋がらない。

 唯一、一人からLINEが返って来た。

「テレビを見ろ」

 彼の中で困惑が深まっていった、その時。

 国からの一斉送信メールが届いた。

 そこの文面を見て、彼は自分達に残された余命がわずか三日しかないことを知ったのだった。


 フィクションの世界だけだと思っていた。

 あり得るわけがない、と考えていた。

 だから信じられなかった。


 地球が、いや、人類が滅亡するなんて。


 気が付けば夕方になっていた。

 彼が自宅に戻ってから開いた本は一ページも進んでいない。

 彼の精神は読書を楽しむ余裕がないほど追い詰められていた。

 平凡、とはいえ彼は自分の人生が嫌いというわけではない。むしろ、過去の自分が望んでいたものでもあった。

 それでも色々と後悔ばかりが彼の頭の中をめぐっている。

 その中でも一番大きな後悔は……

 物語を書けなかったこと。

 十数年前の自分が諦めたはずの夢は、固くこびりついた食器の汚れのように彼の心にしみついていた。

 ――諦めが悪いな。

 呟き、苦笑を浮かべて、彼はふと思った。

 今だからこそ書けるのでは。

 追い詰められている今だから、何か溢れ出る言葉があるのではないか。

 彼はクローゼットを開けると、隅から薄汚れた小さな段ボール箱を取り出して開けた。

 中には一冊の手帳が入っている。

 固い装丁。400ページはあろうかという黄ばんだそれを手に取ると、彼は机に向かった。


 彼は眠ることもせず食べることもせず、最後の日までたっぷりと時間をかけてそれを書き上げた。

 今まで書けなかったことがまるで嘘かというように彼の万年筆は16万字の言葉を綴った。

 ……思い浮かんだ後悔は全て、この一冊の中に置いてきた。これが、彼の望んでいた本当の人生。


 男は筆ペンで表紙に題名を書くと、ゆっくりと立ち上がって大きなのびをした。

 カーテンの隙間から、薄暗い部屋の中へと暖かな色の夕日が入り込んでいる。

 デスクライトを消して代わりにカーテンと窓を開けると、男は最期の光景を目に焼き付けるために作品を抱えてベランダに出た。


 日が沈んだ後、彼は何重にも箱の中に箱を入れていった。

 そしてその1番奥に作品を入れると、しっかりと箱の封をしたのだった。


 砂漠の中に、何かしらの残骸と共に1冊の手帳が転がっていた。

 表紙が焼けており、題名は読み取ることができなかった。

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無題―ノンタイトル― わふにゃう。 @wafunyau889

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